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「今日は連れて行きたいところがあるんだ」
朝食が終わったと同時に、ヴェルミオンがそう切り出す。
空になった食器を下げていたラシェルはヴェルミオンに懇願され、その後も同じテーブルで食事を摂るようになった。
嫌なら無理強いはしないリゼルだったが、最初にそう提案したのは自分である。嬉しそうなヴェルミオンに止めさせるよう言うのも心苦しく、ラシェルに申し訳ない気持ちを感じながら、リゼルは三人での食事に少し嬉しく思っていた。
「連れて行きたいところですか?」
「きっと喜ぶと思うよ」
微笑むヴェルミオンにリゼルは小首を傾げる。
ダリンと呼ばれる町には来たことがなく、この辺りの地理はさっぱりなため近くに何があるのかすら知らない。すでに実家となりつつあるエーベルト家の屋敷に行く道中では、震えながら窓の外を流れ見ていただけだった。
「ラシェル。馬の準備をしておいて」
「……こいつを乗せる気ですか?」
「うん、だめ?」
「……いえ。落とされないよう、せいぜい手綱にしがみつくんだな」
嫌そうな顔で眉をひそめるラシェルは、最後の言葉をリゼルに投げるとワゴンを引いて食堂を後にする。
「僕にしがみついてればいいよ」
「け、結構です」
「落とされるよ? 僕かラシェルじゃないと暴れてしまうんだ。なんなら抱きしめているけど」
にっこりと微笑みながらの申し出に、リゼルは強く首を横に振る。
そしてなす術もなく強制的に準備を終えさせられたリゼルは、ヴェルミオンとともに馬の上で揺られていた。
〝黒霧〟という名前の馬は、引き締まった四肢に黒のたてがみが美しく、二人を乗せているにも関わらず重さを微塵も感じさせない走りを見せた。
軽快に進む黒霧の上で、リゼルはヴェルミオンに寄りかからないよう力を入れて座る。
「力を抜いて。振り落とされてしまうよ」
「大丈夫です――きゃっ!?」
ゆるやかな走りのためかあまり揺れず、一人でも平気だと思っていたリゼルは突然の衝撃に体が傾ぎ、小さく悲鳴を上げた。
段差があったのだと理解したのは一拍遅れてからで、気づいたときにはヴェルミオンに引き寄せられていた。
「ずっと力を入れていては疲れてしまう。そう距離はない、楽にしているといい」
囁きが近く、リゼルは身を強張らせる。
「ヴェルミオン様、もう平気です。離してください」
「僕も平気だ。見たところ馬自体には乗り慣れていないようだし、ここは身を預けておいた方がいい」
とっさに身を引くとさらに引き寄せられ、頬にヴェルミオンの胸があたる。思いのほか引き締まったそれと、布越しに伝わる体温にリゼルは硬直した。
ヴェルミオンが話すたびに頭に直接声が響くような感覚がして、心地よい低音に鼓動が一つ跳ねる。
ここまで男の人と接触することは皆無だった。
最初は友好的に近づいて来た町の男たちも、貴族の娘だとわかると途端に態度を変える。
リゼルを見る目がお金に変わり、また貴族の男がリゼルのことを知れば田舎娘だと蔑む瞳に変わった。
可愛らしいと褒め称えられることもあったけれど、美しいドレスで着飾った女たちと比べればごく普通の分類だった。
彼女たちは己の魅力を理解し、またそれを武器として最大限に利用する。そして優良物件と呼ばれる男を探すために、彼女らは自分の性格までもを変えて媚びるのだ。
吐き気のするような芳香を纏い、真っ赤な口紅を塗ったその唇で偽りを囁く。
そんな女に慣れきっていた男たちは、媚びても来ず着飾る気もないリゼルは根本から対象ではなかったのである。
そのおかげで親密になる前にすべてが終わっていたため、こんな異性との接触には慣れていない。
ましてや、ヴェルミオンの趣味嗜好は常識とはかけ離れているものの、顔立ちは驚くほど整っているのである。美麗という表現がぴったりな男から至近距離で囁かれ、あまつさえ抱きしめられるなど――リゼルは腕を突っぱねた。
「平気です! お気になさらないでください……!!」
自覚すればするほど鼓動が速まり、リゼルは真っ赤な顔で抗議した。
しかしヴェルミオンは腕を緩めることなく、さらに強さを増してしまう。
密かな攻防を繰り返していると周囲の景色ががらりと変わる。人通りの少ない街路を進んでいた馬は方向を変え、木々が連なる細道へと入っていった。
「どこに行くの?」
遠くから聞こえる賑わった声が小さくなり、殺風景な景色を見たリゼルの声に不安気な感情が滲む。
するとヴェルミオンに優しく声をかけられる。
「もうすぐ着く。ほら、前を見て」
リゼルはヴェルミオンに促され、ゆるゆると視線を上げて前方を見た。
背後に森を構えた建物には見覚えがあった。屋根の先端は細く、白い壁は所々ひび割れていたがリゼルの見知ったものとよく似ている。
ヴェルミオンは黒霧を止めて馬上から降り、リゼルに手を差し出す。おずおずとそれを掴むと、ふわりと体を持ち上げられ地面に足がついた。
「ちょっと待ってて」
ヴェルミオンはそう言うと、黒霧を近くの木に固定する。手綱をくくりつけるヴェルミオンから視線を外し、リゼルは建物を見やった。
背後だけではなく周囲さえも木々に囲まれているここは、屋敷から二十分くらいの距離である。人気のない路地を通り、自然に富んだこの場所はダリンでもかなり隅の方だろう。
「ここって、もしかして」
「孤児院だよ」
いつの間にか隣に並んだヴェルミオンの言葉に、驚いたように再び建物を見上げる。
既視感を感じるそれは、やはりリゼルの思っていた通りだったらしい。
親を亡くし、孤独となった子どもたちが住まう場所。
温かな空気が漂う建物の周囲には自然が溢れ、子どもたちが伸び伸びと暮らすには最適な場所だろう。
リゼルはヴェルミオンに促され、孤児院へと歩を進めた。
たった数日なのにひどく懐かしい気持ちになり、軽やかな笑い声が鮮明によみがえる。
「どうしてここへ連れて来てくださったんですか?」
「喜ぶかなと思って」
「……それは、どういう」
言いかけた瞬間、扉が勢いよく開く。
開け放たれた扉の先から飛び出してきた人影――十歳ほどの少年がヴェルミオンを見るなり目を輝かせた。
そして間髪入れず、建物の中から子どもが次々と走り出てくる。どれも同じくらいの年齢で、十歳前後の少年と少女だった。
「ヴェル!」
「何で最近来なかったの!? 待ってたのに!」
「見て! この服、作ってもらったの!」
子どもたちに囲まれるヴェルミオンを見て、リゼルは呆気にとられた。
本人は少し困った微笑を浮かべていて、そんなヴェルミオンに子どもは構わず言葉を投げかける。
「あらあら。おやめなさいな、困っておられるでしょう?」
その時、穏やかな声が耳朶に響いた。
ゆったりとした動きで歩いて来るのは、五十代半ばと思しき女である。黒い服に身を包んだ女は、不満の声を上げる子どもたちにそう言うとリゼルに視線を移した。
「初めて見るお顔ね」
「リゼル・エグナートと申します」
「僕の婚約者だよ」
姿勢を正し、小さく礼をしたリゼルは続いたヴェルミオンの発言にぎょっとする。
間違ってはいない。けれど、こうして口にされるとなぜか抵抗がある。
恥ずかしいような感情に戸惑っていると、女は柔らかな微笑を浮かべた。
「私はマギーと申します。ここ――メリスト孤児院の院長を務めております。どうぞよろしくね、リゼルさん」
親しみを感じる声色は温かい。
不満そうな顔をしつつヴェルミオンから離れた子どもたちは、皆揃ってマギーの傍に寄る。彼らが伺うようにこちらを見つめていることに気がついたリゼルは、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「初めまして。リゼル、っていうの」
仲良くしてね、と微笑むと子どもたちの表情が和らぎ、無邪気な笑顔を浮かべて頷く。
「お二方、こんなところではなんですから中へどうぞ。ほら、あなたたちもいらっしゃい」
可愛らしい笑みに癒されているとマギーがそう促し、軽やかな声を上げて子どもたちが孤児院へ走っていく。その中の一人の少女がリゼルの手を引いた。
「行こう。今ね、お菓子を焼いてるの」
頬に散らしたそばかすが印象的な少女に引かれるまま、リゼルは孤児院の中に足を踏み入れた。
食堂に案内されると、ふわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
テーブルの上には粉が舞い、調理器具が散乱していた。
「何を作ってるの?」
「クッキー!」
「マギーの作るお菓子は世界一おいしいんだよ!!」
自慢げに胸を張る少年はオーブンを覗いてクッキーが焼けていることがわかると、目を輝かせながら無防備な手を伸ばす。リゼルは慌てて少年の体を引き寄せた。
「危ないわ。火傷しちゃう」
高温に熱せられたオーブンは危険である。
素手で触れることはもちろん、何気なしに近づくだけでも火傷の恐れがあるのだ。
顔にかかる熱気に、少年は事態を把握したらしく顔を青くした。
「ラグ、マギーに前も言われたでしょ! マギーが触るまで、オーブンに近づいちゃダメ!」
「だって」
「早く食べたいのはわかるけど、熱いうちは危険なの。もう少し我慢しましょう?」
リゼルはラグと呼ばれた少年を避難させ、十分に注意しつつトレーを引き出した。
甘い香りが先ほどよりも強くなり、思わず頬が緩む。
素朴とも言える丸い形のクッキーの上には細かく刻んだナッツやくるみがのせられていて、中には粗い砂糖をまぶしたものもある。
調理台にトレーを置くと、こちらをじっと見つめているヴェルミオンの姿に気づいた。
目が合うなりにっこりと微笑まれ、どう反応を返していいかわからずたじろいだ。
「ねぇ、こっちに来て一緒に遊ぼう?」
その時、ドレスの裾を引かれてリゼルははっとする。
「食べごろになったらお呼びするわね」
「あ、はい。ありがとうございます」
お茶の準備をしていたマギーに微笑まれ、リゼルは数人の少女たちともに食堂を出た。そのまま談話室に入ると椅子に座らせられる。
何をするのかと疑問に思っていると、少女たちが櫛や髪留めを手に目を輝かせていた。
「なにするの?」
「リゼルの髪って綺麗ね。きらきらしてる」
「遊んでもいい?」
少女らはリゼルの鳶色の髪を見つめており、〝遊ぶ〟とはこういうことだったのかと悟る。
彼女たちの中に同じ色合いの髪をした少女はおらず、黒髪や茶髪といった色がほとんどだった。さらには肩か肩甲骨あたりまでの長さしかなく、リゼルのような腰ほどまである長い髪というのは珍しいのだろう。
苦笑しつつ了承すると少女たちは目を爛々と輝かせ、櫛を握る手に力を込めた。




