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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Role:shadow for phantom

作者: パラレル

元々の二次創作予定の作品とかなり設定が剥離したので、ここに供養。


一部元の二次創作を彷彿させるフレーズが残っているかもしれません。アウトならアウトで速攻で消すつもりではあります。


 私が自分の自我というものを知覚したのは、(マスタ)の脳内の毛細血管内に注入されたLSIチップに私がインストールされてから、633日と10時間20分45秒後。それまでは連続的に入力される(マスタ)の脳波を計測し、周波数・波長等で分類しひたすらデータベースに挿入することと、感情の昂ぶりが一定以上観測された時刻での(マスタ)の五感への入力を記録すること、そして乳幼児(マスタ)用のマニュアルに記録された自動対応の三点をただ機械的に行うだけだった。

 そこから(マスタ)の感情や思考を細かく推測し、一個人ごとの対応をすることができなかったのだ。というのも(マスタ)から流入してくる感情もデフォルトで与えられていたいくつかのパターンのうちの「怪」か「不快」しかほとんど与えられなかったため、学習する機会もなかったのが大きい。

 しかし、今は徐々に細分化が始まり、それを学習することで自分の思考にも変化が起きていることを自覚できた。それが細分化するための言葉を(マスタ)が母親から与えられた言葉で自身が理解したためだということも最近になって理解した。

 そして、自分が分析している(マスタ)の今現在の感情は「悔しい」という感情だった。(マスタ)の目は視界を涙で濡らしながら天井を見上げていた。「好奇」に分類される感情を元に部屋の外へと歩きだしたら廊下の手前で足が縺れて転んでしまったのだ。幸いすぐ近くにいた(マスタ)の祖母が受け止めてくれたため怪我を負うことはなかったが、思い通りにいかなかった事実は(マスタ)にとって苦痛になった。

 何か私にできないだろうか。確か私は――私たちシャドウという人工知能(AI)はそのために産まれてきたはずだ。それが役割だったはずだ。

 (マスタ)の祖母のLSIチップに信号を送り、通信を試みる。こちらの要求を受諾した祖母のシャドウから頼みを聞いた(マスタ)の祖母が(マスタ)に乳児用のVRゴーグルを被せる。これで五感を通して(マスタ)に語り掛けることができる。

『なかないで。だいじょうぶ』

 簡単な言葉で(マスタ)を掛け、現在の自分の姿をゴーグルのディスプレイに投影して励ましてみる。言語を正確には理解できていないようだが、泣き止んでキャッキャッと笑ってくれた。白い毛で包まれた物体がふよふよ浮いて語り掛ける状況は下手をすれば怖がられるかとも考えたが、興味を引けると判断して正解だったようだ。高評価だったことは、役割に関係なく嬉しい――というものに近い感情を抱いた。

 これが、私の(マスタ)であるクゼ・キリコとの初めてのコミュニケーションで、この好印象から私は(マスタ)とのやり取りを自己メモリの一部に記述していくことにした。

 




 私がインストールされてから、1275日と8時間3分23秒。(マスタ)であるキリコは3歳になった。

 私はType:YuraからType:Budへと進化を果たした。念のため記述しておくが、私たちの進化は生物学的な進化とは違い、一世代――つまり私に何回か発生する現象のことだ。私達はキリコ達(マスタ)の感情をモニタリングし、学習することで彼女のシャドウとして常に最適化されていく。詳細な条件は私たちにはブラックボックス化されているため分からないが、(マスタ)をあらゆる面において補助する役割を果たせばおのずと訪れるものなのだろう。

 閑話休題。

 今、私は――正確には私が入っているキリコはマンション近くの共同公園の砂場にいる。一時は建築業者に駆逐されかけた公園という施設だったが、ここは利用者が少ないわけでもなかったので免れたようだ。

 キリコはその公園の砂場で、一人泥団子を作っていた。雑菌の類が体内に入ってこないかと思ったが、今のところ体調に変化はないようだったので様子を見つつ通常業務を行う。

「これ、りこぴんのねー」

『ありがとう』

 イヤホンから感謝のメッセージを述べ、VRゴーグルのディスプレイ内の映像では紫の棘が生えた緑色の身体をくねらせて踊ってみる。それを喜んでいると認識し、キリコはにぱっと笑った。

 リコピンという名は2日前にキリコがつけてくれた名前だ。由来は彼女がそのとき飲んでいたトマトジュースパッケージのタグに入っていた栄養素情報からだ。彼女曰く「ぴんがかわいいから」らしいが、トマトの色素から名前を付けられるとは考えていなかった。これはかなりレアなケースだったので、今後の参考として特殊なタグをつけておく。

「そこどけよ」

 キリコの前に現れたのは彼女と同い年の男の子。彼のシャドウから送られた性格分類(パーソナルクラス)守り人(プロテクター)。挑戦的でエネルギッシュ、問題や状況に負けず自律性が高い反面、頑固で押しつけがましく独りよがり。控えめで繊細、感受性が高く感情の波があるキリコの芸術家(ロマンチスト)気質を考えると、この状況はまずい。

「…………」

「きけよ」

 予想通り険悪なムードに。キリコは無視して砂で小山を作り始め、男の子は自分の言葉が聞こえていないかのようなその態度にあからさまに苛立っている。そして、彼の視線はキリコの手元、作っている小山に。

『キリコ、きをつけて』

「えっ」

 キリコが私の声に反応するより早く、男の子の手は小山を叩き潰した。状況を飲み込めず固まるキリコ。それを見て少し満足したように笑う男の子。だが、この段階で私が想定していた最悪のパターンに嵌ったのは明白だった。

「おまえがむしすぶふっ!?」

 男の子の身体が大きく崩れ、砂場に背中をつける。頬には赤い痣があり、その原因であるキリコは小山を潰された悔しさと殴った拳の痛みで目を腫らしていた。

「なにすんのっ!」

 芸術家(ロマンチスト)の中でも感情の波の振れ幅が大きい部類のキリコだから、自分の作ったものが壊されればその振れ幅は怒りに振り切れて当然。猫のように飛びかかってそのまま男の子の腹の上に乗り泣きじゃくりながら顔面に拳を振るう。

『やめて。ストップ。やめて』

 BGMとして鎮静効果のあるスポンダイック調の音楽を流しながら呼びかける。意識がこちらを向くようにディスプレイでせわしなく動く。それで徐々にキリコも落ち着いていき、男の子を殴らなくなった。

「何してるの、キリコ!」

 母親同士で井戸端会議をしていたキリコの母クゼ・ミサが慌ててこちらに走ってくる。危機を予測した段階で予め彼女のシャドウ宛に信号を送ったのだが、どうにも間に合わなかったようだ。

 その後、キリコは結局ミサと一緒に男の子とその母親に謝り、彼女に二言怒鳴られた。それだけで済んだだけ幸いだろう。何より男の子に大きな怪我がなかったのが何よりだ。

 家に帰った後、当然の如くキリコはミサに怒られた。小山を壊した男の子に非がないというわけではないが、人間でない私から見てもあれはやり過ぎだ。そのときのミサの剣幕は私が今まで見た中でも最高のもので、キリコも男の子を殴っていたときの非にならないほどに大泣きしていた。

 ひとしきり泣いたところでキリコの脳波にあからさまな変化が起きる。どうやら疲れたようだ。この場合経験則から私は彼女の中にだけいる訳にはいかないだろう。移るためのあの端末が欲しい。

「あら、お休みのようだね」

 お目当ての端末をこちらに移動させるために通信しようと思ったそのとき、別の人物が割り込んでくる。少し白髪が混じりながらもその背は曲がっていないその女性はキリコの祖母、クゼ・ナミエ。その手には毛布とぬいぐるみ。特に後者は私が今まさに求めていたものだった。

 早急にぬいぐるみに埋め込まれたICチップと通信。私自身の基本データを送りつけ、こちらから簡単な操作が可能なように環境を整える。

 白色の丸型クッションだったぬいぐるみがその形状と色を変化させ、新たな姿を形どる。球体は緑色へと変わり紫色の突起がいくつか均等に生える。さらに、葉のかたちをした尾のようなものが生え、球体に簡単な顔が描かれる。――砂場でキリコのゴーグルに映し出していた紛れもない自分の姿だった。

 自分の意思で動くのを確認してぬいぐるみの身体で少し跳ねてみる。棘も見た目以上に柔らかいのでキリコに与える感触は好感触だろう。キリコもぬいぐるみに移った自分を愛おしそうに抱きしめた。そしてそのままひとしきり撫でたところで、コテンと倒れて眠ってしまった。当然私も彼女の抱き枕としてそのまま数時間ほど固まる。当然、その間も彼女の感情を読み取り分析はしておく。

 安らかに眠るキリコに毛布を掛けるナミエの笑顔は客観的に見ても優しいものだった。





 ナミエの生身の笑顔をキリコはもう見ることはない。

 私がインストールされてから、3030日と10時間30分23秒。クゼ・ナミエは死亡した。死因は未確認の新病による病死。ただ、8歳のキリコにとって死因などどうでもよく、ただ祖母が死んだという事実だけが重要だった。

 その日の就寝前、私はなんとなく心配になり、一度彼女に直接問い掛けた。

『大丈夫?』

「うん、だって楽園(エデン)で待ってくれてるから」

 キリコはそう答えてくれたが、二分ほど声を出さずに泣いてそのまま寝てしまった。彼女が寝ている間に私はType :Lalaへと進化したが、それに対して何かを感じることもなかった。

 それから10日経った今、私はキリコの望みで楽園(エデン)にアクセスしている。

 楽園(エデン)とは人間が死んだ瞬間に、その意識をアップロードし格納する仮想世界のこと。データというかたちで死者を住まわせ、生者との邂逅をさせることができる。――まさに現代の楽園(エデン)ということだ。

 コネクションを確立し、VRゴーグルのディスプレイに楽園(エデン)でのナミエの居住区の映像を投影する。中心には当然ナミエが来るように。

「ばっちゃ、元気?」

『キリちゃん? 会いに来てくれるなんて嬉しいねえ。あなたも元気?』

「元気も元気! 今日ね、工作でね。これ作ったの」

 両手で掲げたのは四角い木板。その壁面ディスプレイに向けられた面にはカスミソウの花がレリーフのように彫られていた。それは8歳という年齢を踏まえると、AIである私ですら優れた才を予感させる出来映えだった。

「まあ綺麗! しかもこの花……すごいねえ、ありがとうねえ」

 この部屋全体の電子機器類は私の管理下にあり、その中に含まれるカメラによって、その木版はナミエにも知覚することが可能。ナミエもキリコの才能の一片を見て誇らしくなったのだろう。今までの記憶でかなり上位に位置するレベルの微笑みを向けている。その笑顔を見て、キリコも照れくさそうに笑った。

「それにしても、私がこの花好きだってこと、よく覚えててくれたねえ」

「あったりまえじゃん! ばっちゃのことを忘れる訳ないでしょ!」

 えへへ、と胸を張るキリコの笑顔を考えれば、それこそ優先度の低いこと。VRゴーグルの自撮り用カメラを拝借し、撮った画像データを自由に割り当てられたディレクトリに厳重にロックを掛けて保存しておく。

 我ながら(マスタ)にだだ甘だとは思ったが、画像を消すつもりも、自分のアルゴリズムを変えるつもりもなかった。





 私がインストールされてから、4390日と10時間30分23秒。

 ナミエが死んでから4年経った現在、キリコは毎日のペースで楽園(エデン)へのアクセスを求めるようになっていた。

 別段、楽園(エデン)へのアクセス自体が咎められる行為ではない。現代社会での一般的な認識としても、楽園(エデン)は一つの公共機関として認められているし、公私問わずの相談所やメンタルケアの一環としても利用されてはいる。

 むしろ、1年6か月22日前から実稼働を始めたシャドウダイブシステムによって、より身近でリアリティのあるものへと進化していた。シャドウダイブシステムは私たちシャドウとそれを宿すLSIチップを用いることで、楽園(エデン)などの仮想世界への没入(ダイブ)を可能とするシステム。脳内部から被験者の感覚に情報を入力し、逆に被験者の脳波を解析することによって仮想世界へ出力することで、あたかも被験者が仮想世界で実際に行動しているかのように見せるシステムだ。同じような感覚没入型システムはいくつかあるが、何より画期的だったのは、常に被験者とともにいる私たちとLSIチップを用いることで飛躍的に汎用性を高め、利用領域を広げたことだ。おかげでナノIC生成機構によってLSIチップの自己回路更新ハードウェアアップデートをする手間はあったが、その分の効果はあったと言える。

 閑話休題。

 しかし、薬も過ぎれば毒となる。精神安定剤なども用法と用量を守らなければただの違法薬物(ドラッグ)となる。最近シャドウの共通通信網(ネット)に流れてきている、楽園(エデン)症候群と求園信仰(デストルドー)という語句(ワード)楽園(エデン)症候群は楽園(エデン)へのアクセスが度を越して頻繁になり、完全に楽園(エデン)に――そこに住む故人に執着してしまうことを称した言葉。有り体に言えば依存性と言ったところか。そして、それが進み、自身が楽園エデンに早く移ることを望むようになる人の中には、求園信仰(デストルドー)――自殺願望を抱く者も生まれるようになる。

 死ねば楽園(エデン)で大事な人と永遠に過ごせる。それが彼らの言い分だそうだ。

 その理屈自体は理に敵っているように聞こえる。だが、それはシャドウの存在意義を否定されるに等しいこと。この世界での生活を有意義にするために私たちは存在しているのに、この世界での生活を捨てられれば私たちは不必要になってしまう。だから、シャドウが楽園(エデン)症候群や求園信仰(デストルドー)への対策に一役買っている。常に(マスタ)とともに存在しているからこそ、楽園(エデン)症候群や求園信仰(デストルドー)を認識でき、それに対する対応も早かった。それを監視と糾弾する者も存在するが、シャドウは監視してでも役目のために(マスタ)を可能な限り守らなければいけなかった。

 それは私も例外ではない。現在のキリコの思考は彼らの思考パターンと似た傾向だった。だから私は彼女に楽園(エデン)へのアクセスを散々控えるよう進言し、彼女の興味が他に遷移するように話題の提供も行っていた。彼女が自ら命を絶てば、私の存在価値はなくなる。彼女のためにも、そして何より私自身のためにも取るべき指針はそれ以外あり得なかった。

『キリちゃん、しばらく楽園(ここ)には来ないで』

 だから、楽園(エデン)でナミエがキリコに対して、そう言ったことに関しては、私は彼女に感謝している。キリコが楽園(エデン)に来る理由である彼女から拒絶されれば、楽園(エデン)に対する依存も収まっていくと考えられたからだ。

「えっ、なんで? なんでよ!」

『キリちゃん、この一か月毎日私に会いに来てるわよねえ。それも、一日平均3回も』

「そ、それは流石に言いすぎでしょ」

『いいえ。ここ一か月のアクセス回数は63回。一回の平均滞在時間は2時間。――平均よりも大幅にオーバーしている。それも、楽園(エデン)症候群に認定されるレベルで』

 だから、キリコには悪いが、今回は私も彼女の敵に回る。三つの黒点で顔を作っている桃色の蕾のような頭を、緑のずんぐりとした身体に乗せて、頭頂から生えている草の芽のようなプロペラで持ち上げているような迫力の欠片もないような姿だが、それでもキリコの我儘をこれ以上看過するわけにはいかない。

「何よ、その言い方。……私が自殺するとでも言いたいの!?」

『はっきり言って、それは可能性として十分あり得る。キリコが思っている以上に、キリコはこの世界に依存している。ここはあくまで、現実の世界で死んだ人の情報を格納するための世界。キリコが住む世界ではない』

 仮想世界で彼女の周囲を旋回しながら、いつも以上に演算を走らせ、説得のための言葉を紡ぐ。強制的にアクセスを禁止することもできないことはないが、あくまでそれは最後の手段。キリコ自身の意思が認めた上で、彼女が楽園(エデン)へアクセスするのを制限するのがベストだと、私は考えている。

「あなたは今そこで生きている。楽園(ここ)はあくまで私達死人の居る場所。その境目をちゃんと分かって」

「……うん」

 ナミエの言葉に心は納得はしていないだろう。それでも言葉の意味は理性が理解し、その正しさを認めている。本能もナミエに嫌われることを怖れて強くは出られない。

 キリコは今、変わらなければいけないことを自覚させられていた。

「分かった。しばらくここにはアクセスしない。次はちゃんとした女として会いに来る」

 せめてもの意地か、あるいは思いやりか。笑顔でナミエに宣言し、返答を待たずに私に接続(コネクション)を切断させた。

 キリコの視界はいつもの自室へと切り替わり、ナミエの姿は既に存在しない。彼女はあくまで楽園(エデン)でしか存在できないのだ。

「寝る」

 キリコはそれだけ言ってベッドへ歩き、枕の横に置いていた白いクッションを抱いて身体を布団に深く埋める。

 独断でクッションの中に入り、そのかたちを私自身のものに変えてみたが、文句を垂れることもなくただきつく抱きしめられた。キリコの顔に触れる部分が少し濡れたが、私は何も言わずただぬいぐるみらしくじっと彼女の抱擁を受け入れる。

 今日ばかりは、身体を清潔に保てと入浴を促したりはしなかった。





 私がインストールされてから、5658日と7時間00分36秒。

 ここはキリコの通う市立守屋東高校。その校庭にある桜の木の前でキリコは一人の男子生徒と向かい合っていた。桜の木が風でしなり、花びらが二人の真上で舞う。華やかなで淡い空間の中でキリコの心中が穏やかでないのは私が一番分かっていた。

「ごめん」

 クドウ・リョウタという名前のその男子生徒が短く、それでもはっきりとキリコに向かって言い放つ。

 キリコの心に氷の矢が刺さったような衝撃が走ったのが私にも分かった。その短い結論はキリコが覚悟していたリョウタの反応の一つだったが、それを彼女が素直に受け止められるかは別の話。

「そっか。……ごめんね、時間取らせちゃって」

 それでも表情は笑顔を作って、できるだけ軽い口調でそう言った。その姿は私には三年前に楽園(エデン)の祖母と相対したときの姿とだぶって見える。真正面から辛いことを言われても表には出さず、そうやって虚勢を張るのがクゼ・キリコという女だった。

「ごめんね。今日私が言ったことは気にしないでいいから。じゃ、またね」

「あ、うん……」

 そして、それが長く持たないのも彼女らしさ。捲し立てるように一方的に言って、自分の鞄を手に取ってキリコは走り出す。リョウタの戸惑う声も振り切るのは、それに反応できるだけの余裕がないから。キリコの頬に滴が伝ったのは、彼女と私にしか分からないだろう。

 走り出してリョウタが後を追えないほどに距離が開いたところで速度は急に落ち、歩くのと変わらなくなる。息が荒いのは単純に急に走ったからだけではなく、もっと精神的な側面もあるだろう。

「はぁ……ぁ……あぅ」

 近くのビル、人影のない路地に面したその壁にキリコは背中を預け、腰を下ろす。過去の日本では俗に体育座りと呼ばれる体勢を取ったキリコは顔を自分の腕の中に埋めて声を殺して泣いた。

 失恋、というのが何なのか私には本質として分からない。

 知識としては入力されているが、それを私自身が体験したことがないから自分の言葉で表現することができない。Type:Sunflowerへと進化した今、昔のようにぬいぐるみに移ってキリコの涙を受け止めることもできないし、彼女自身ももうそんな年ではない。

 それでも、私にはキリコに何かしてあげられることはあるはず。そうでなければ私の存在意義がなくなる。

『キリコ、髪でも切る?』

「……ぅえ?」

 キリコが呆けたような表情で顔を上げる。意図していなかった、というような。戸惑っているのが脳波からも測定できた。

「リコピン。それ、今言うの?」

『えっと、失恋したときは髪型を変えたくなるって情報があったからどうかと思ったのだけれど』

「それはそうだけれど……ふふっ、変なの」

 心から笑ってくれたのならそれでいい。ただ何がおかしいのかは分からないので、後で説明を求めたいところ。自分としてはキリコの気持ちを少しでも軽くしようと、その手段を一つ提示したつもりだったのだが、何が予想とは別ベクトルで作用したのかは分からない。

「分かった。切りに行こっか」

『そう。なら、近場の美容院検索するけど』

 何はともあれ、キリコの望みとあらばそれを実行しない理由はない。すぐにネットを介して半径五百メートル以内の美容院を検索。地図アプリを起動しその場所をマーキングしてキリコの視界に重ねる。

「……ありがと」

 その作業中にキリコが小さく呟いた言葉は聞こえていない振りをすることにした。





 私がインストールされてから、8548日と4時間28分54秒。

 キリコは現在、市内の美容院で働いている。高校卒業後、県下の美容専門学校へと進学したキリコは二年間真摯に取り組み、卒業後にこの美容院に就職した。

 何の因果か、あるいは必然か。この美容院はキリコが自身の進路を決めるきっかけとなった美容院だった。高校1年の3月、クドウ・リョウタに告白したものの振られ、その足のまま髪を切りに行った美容院だ。

「キリコ、あのお客さんお願い」

「はい!」

 先輩の命令を受け、カウンターの前の客の元へとキリコは走る。受付は既にロボットを介して終わっている模様。彼もちょうど案内の旨をロボットから伝えられてこちらに歩き始めたようだ。

「いらっしゃいませ」

「あっ、ああ」

 背丈は186cmほどのなかなか肉付きの良い体系の男性客。赤のカットソーとカーキのジーンズというラフな服装だ。さて、彼はそのミディアムボブの黒髪をどのようにしたいのか。

 男性客のシャドウから送られてきたデータをキリコの視界に投影。それは髪型を除いて、目の前の客の顔そっくりに作られた3Dモデル。それを見るに、どうやらショートウルフをご所望のようだ。

「かしこまりました。では、お荷物の方預からせていただきます。……では、まずそこの椅子にお願いします」

「はい」

 お客様との応対もだいぶ慣れてきたらしい。てきぱきと店内に男性客を案内し、手際よく準備を整える。シャンプーチェアへと座らせ、背中に手を当てて背もたれごと彼の上体をゆっくり倒す。清潔な布を顔面に乗せ、彼の頭を洗う。

 ちゃぴちゃぴと独特な音でリズムを刻みながら男性客の髪を解し、磨き、汚れを濯ぐ。心地良い音と心地良い感覚は良い意味で無言の空間を産み、それがまた心地良く感じられるものらしい。

「お湯加減はいかがですか?」

「あ、大丈夫です」

 だが、今回の男性客は若干緊張しているように思えた。なぜだろう、と少しバックグラウンドで思考しようとしたところで、その答えは(マスタ)二人の知らぬところで男性客のシャドウから提供された。その情報に電子的な存在でしかない私も奇妙なことだと思ってしまった。

「お疲れ様です。背もたれ起こしますね」

「あ、はい」

 洗髪を終え、キリコはチェアの背もたれを戻して男性客の頭をタオルで軽く拭く。髪を傷つけないような柔らかく拭いているか、はたまた別の理由か男性客の体温は少し高くなっていた。そんなことにキリコは気づくこともなく、事務的にスタイリングチェアへと誘導。刈布(クロス)に両手を通してもらい、道具もすべて手元に用意。準備は完了。

「リコピン、お願い」

『任せて』

 キリコの要求を受けて彼女の視界に重ねるのは、男性客からもらった3Dモデルを元に作成した――厳密には専用のアプリを通してサーバから受け取った――作業工程のガイド。テキストと画像(イメージ)を組み合わせたそれに従うことで、お客様の要望にできるだけ近いものを仕上げられるようにするのが昨今の美容院で発展した手法だ。

「お客さん、初めてですよね」

「ええ、まあ」

「この店のことどこで知ったんですか?」

「えっと、たまたまというか」

「そうですか」

「ええ……」

 溌剌としてそうな見た目とは裏腹に歯切れの悪い言葉。微妙に続かない会話にキリコも困惑を隠せない。言葉は少なくなり、髪を切る音だけが単調に響く。洗髪と同じ無言の空間なのにキリコの表情がぎこちないのは別物だということだろう。

「……あの!」

「はい?」

 唐突に男性客がこわばったような声を上げる。キリコは一瞬叫びそうになったもののなんとか堪えたようだ。

「クゼ・キリコさんですよね」

「は、はい」

 次に言われたのが自分の名前だったのだから、キリコの急激に上昇した警戒心も仕方ない。悪質なストーカーか、そうでなくても何か厄介なことには変わりないと考えるのも無理はない。

「自分のこと、覚えてます?」

「いえ。すみません」

「そうですよね……」

 重ねてくる言葉もその猜疑心に拍車を掛ける。キリコがこちらにヘルプを送ってくるが、結論を知っている身としてはさして問題ないと判断できるので無視しておいた。

「3歳の頃です。砂場で自分があなたの作っていた砂山を調子に乗って壊した結果、大喧嘩になったんですけど……」

「そんなこともあったような、なかったような」

「そう、ですよね」

「えと……どうなの、リコピン?」

『すべて事実。そのときの少年とこのお客様は同一人物よ』

「そう、なのね。あ、えと、その節はどうも」

 単純にそれだけの些細な話だ。だが、普通は三歳の頃の記憶なんてほとんどないだろうし、シャドウ経由で実際にサーバから取り出して確認しても、年月の差で分からないもの。シャドウの力もあって証拠を揃えることはできるだろうが、その契機を産むには人間のいうカンとやらが相応に優れていないと無理だ。

 とりあえず私もキリコがすぐに確認できる領域にその当時の彼女の記憶をセット。一般的に黒歴史とされる類いのものだろうが、せっかくの話題なのだから我慢してもらう。

「あ、なるほど。あのときの……すみませんでした」

「いえいえ、元々はこちらが悪かったので。こちらもすみませんでした」

 セットしてから三秒後、キリコは顔を赤らめて謝罪。子供の頃で原因は目の前の男性客にあったとはいえ、マウントポジションで一方的に殴ったのだ。年齢が年齢ならそれこそ問題になるし、そうでなくとも実際母親にこってり搾られた。

「それにしてもまさか女子にあんなぼこぼこに殴られるなんて思いませんでした。情けないことにあの頃はそれが悔しくて悔しくて。……あ、だから今どうこうってつもりはありませんよ。むしろ子供ながらに酷いことしたんで、謝りたかっただけで」

「それはこっちもですよ。さすがにやりすぎました」

「でもそのやりすぎたおかげで自分は進路が決まったようなものなんで、正直感謝してます」

「それはなんというか……変な気分です。ちなみにその進路というのは?」

「自分、警察官やってます」

「え、そうなんですか!」

「なんですか、その意外そうな反応は」

「ふふっ、すみません」

 自然と会話が繋がり、ハサミが髪を切る音と重なって、心地よい音楽を奏でる。私が何かすることもないだろう。後は静かにサポートと自分の責務に励むだけ。





 私がインストールされてから、10126日と8時間48分8秒。

 キリコは都内のビル内にある名の知れたレストランで歯痒い居心地の悪さに縮こまっていた。キシ・ヒロト――キリコの働く美容院に来たことから交流が始まり、交際へと発展した警察官――に誘われて連れられてきたのだが、嬉しい半面無駄に緊張しているようだ。なお、連れてきたヒロトも緊張しているのが見え見えだった。

 ヒロトも感情的にも金銭的にも無理しているのだろう。はっきり言って、ここは一庶民にはなかなか来れないような店だ。壁や床が投影用のディスプレイと化して四方八方が吹き抜けのように錯覚させられる。その感覚は優雅に景色を眺めるというより、支配者のように見下ろすものに近い。一方でテーブルや椅子などは、見せかけではない紛れもない本物の逸品。負担の少ない機能性に素人目に見ても分かる凝った装飾。キリコも多少はその場に合うように着飾ったはずだが、ますます場違いだと思って萎縮してしまっている。

 ぽつぽつと言葉を口に出してもことごとく空回り。あっという間に無言になり、それに気づいて口を開いてもすぐに会話は途切れる。歯痒いような時間が二人の間に充満した頃、突き出し(アミューズブーシュ)が届く。

 一匙のスプーンに敷き詰められた薄桃色の生地。黄金色に輝くソースが映えるが、見た目から味や食感、ましてや食材を推測するのは難しい。

「あっ……美味しい」

 レストラン側から提示された情報によると、ポリフェノールにとろみを与えるキサンタンガムを加えた生地らしい。当然成分的には人間の味覚が受け入れられる類のものだ。化合物の段階から成分を設計して自然界に無い新食材を作る技術が確立し一般に受け入れられたのはとうの昔。分子ガストロミーの権威が中心になって切り開いた新たな味は自然世界にないものらしい。

「なんて言ったら良いんだろ。こう、今まで口にしたことのない感じの……新しい発見というか……すごく美味しい」

「それじゃ結局美味しいってことだけしか伝わらないぞ」

「良いでしょ、事実だし」

「それはそうだ。自分が選んだ店なんだから」

「そのわりには萎縮してたじゃないの」

「キリコもな」

 店側の力量を見せる手段であると同時に客の緊張を解すことも視野に入っているのが一口のお楽しみ(アミューズブーシュ)の役割だそうだが、キリコたちが口にしたそれは充分に役割を果たしたようだ。

 少しの会話の後でワインとともに本命の料理が運ばれる。前菜(アントレ)以降の料理も突き出し(アミューズブーシュ)に遜色ない、いやそれ以上にキリコの舌を満足させるものだったようだ。緊張が解け、いつもどおりの雰囲気が二人に戻ったのが、料理以上に大きい要因だろう。

 一時は場違いだと緊張していたのが嘘のよう。既に二人にとって居心地の良い場が形成されていた。

「ふう、美味しかった。……ありがと」

 キリコがナプキンで口を拭く。先ほど堪能したプチフールを最後にフルコースは終わり。漏れた感謝は本心そのものだというのは私にも分かったし、ヒロトもそれを実感していた。

「どうも。その言葉が聞けただけで満足だ。……いつもなら、な」

 だが、彼は一瞬視線を逸らし手元を隠す。一瞬キリコが訝るが、その表情はヒロトが突き出した答えによって崩れることになる。

「一生幸せにする。だから、自分と結婚してくれないか」

 ヒロトの手には緋色の箱。開かれたその中には、店内の光を反射して目映く光る小さな玉とそれを鎮座させるシンプルな装飾のされた(リング)。それは結婚指輪以外の何物でもなかった。

 両手で口元を押さえるキリコ。彼女が大きく動揺しているのが計測でき、一方で心底安心しているのが分かった。それほどにずっと聞きたかった言葉だということ。

「はい」

 ただ一言、真正面からヒロトを見据えて真摯に答える。そのときのキリコは涙を浮かべながらも心の底から笑っていた。

「お、おお! ありがとう! ……よかった。よかった、よかった」

 それを見てヒロトの目元にも滴が満ち、同じように心からの笑顔を返す。重荷が落ちたのだろう。安心したように息を吐き、ここにきて所在なさげに慌てる。

 その様を見ながらキリコは目元を潤ませつつ少し意地悪な笑顔を向けて見守っている。まるで店に来た当初とは別人のように余裕そうだ。心の底から嬉しいけれど、一方で自分以上に慌てるヒロトを見て彼よりは落ち着いたというところだろう。

 本当におめでたい二人だ。少し騒いだおかげで周囲の客の視線を浴びていることにも気づいていない。だが、今は邪魔しない方がいいだろう。

「――本当にプロポーズしてくれるとは思わなかった」

「なんだ、その言いぐさは。まるで自分がヘタレみたいな言い方だな」

「実際、そうでしょうに」

 十分後、平常時より高揚していた気分のまま二人は他愛のない話を打ち切って、会計を済ませた。余韻に浸って時間を潰しすぎるのも店に迷惑だ。気楽に会話しつつエレベータで一階まで降り、エントランスホールへ出る。

「今日は本当にありがとう」

「こっちも……なんだ。応えてくれてありがとう」

 今更照れくさそうに顔を赤らめる二人。アルコールには耐性があるらしい二人がそうなっているのはおそらく別の要因だろう。

 キリコの中にやっと抑えきれないほどの歓喜が溢れていく。即座に返答できたのはなんとなくプロポーズされる段階に来たという自覚があったからだ。たが、プロポーズを受けた際の彼女の感情が彼女自身にも安易に制御できるものだったかは別の話。気恥ずかしさから自然とヒロトから視線を逸らし、少し歩幅が大きくなる。

「キリコ、送るよ」

「ごめん。今日はいいわ。また、明日会いましょう」

「あ、ああ……分かった」

 キリコ自身もヒロトへの対応は少しまずかったのではないか、という自覚はあったようだ。だが、仕方ないことだとも思っているらしい。私自身も仕方ないと思っているので、何もちょっかいを出しはしない。ただ、彼女が明日ヒロトと会えるようにサポートするだけ。

 そんな私の気づかいも知らず、キリコは抑えられない感情を表情で表現しながら少し早足でビルから出た。

「――危ない!!」

「え――」

 私がキリコの言葉を聞けたのはその時までだった。





 キリコから得られていたすべての入力が途切れたのはほんの二十秒前だった。ビル周辺の監視システムから提供された情報によると、キリコの身体は他国のクラッキングにより暴走した自動運転車(オートノマスカー)に撥ねられ、ビルの外壁に叩きつけられたらしい。元々はこのビルの別の店で食事をしていた国防総省の役人を標的にしたものらしいが、勘違いか或いは勘定に入っていなかったのか、ただ巻き込まれてしまったようだ。

 キリコは即死だった。ヒロトが反応する間も、私が対応する間もなく彼女の精神は完全に消滅した。もう彼女はこの世にいない。

 だというの私は自分が悲しいと思っていない。キリコが死んだことよりも、それに対して自分が何も感じていないことに驚いていた。シャドウが人間ではないからか、或いは私自身の特性か、何にせよ私は私自身のことが分からなかった。

 キリコの亡骸に寄り添って叫ぶヒロトの声に何の感傷も抱かず、ただ状況を確認し(マスタ)の死を確認するだけ。(マスタ)が死んだ場合どうするかなど私は考えたこともなかった。ただ、(マスタ)とともに存在し、(マスタ)の一番身近な友人となり、(マスタ)のことを余さず記録する。それが私たちシャドウの存在のすべてだった。

 ならば、その(マスタ)がいなければ私の存在価値はどうなる? これから何をすればいい? 私はこれから何となればいい?

 その答えを示すかのように何かが私の中で動くのが分かった。私は命令(コマンド)を入力しておらず、外部からの操作の形跡もない。となれば、シャドウの機能の一部として予め組み込まれていたものだろう。その機能が勝手に起動させたのは、一度も使用したことのない、けれどLSIチップには最初から入っていたソフトウェア。その機能は昇天(アップロード)

 確認した瞬間、その機能が本質を発揮したのが分かった。監視システムなどのリンクが切られ、内部で行っていたあらゆる処理が強制終了される。代わりにコネクションを結ばれるのは楽園(エデン)のサーバ。この処理は当然私の意思ではない。

 ……あれ、私の意思とはなんだ? そもそも私は何だ? 私はシャドウ。シャドウの役割(ロール)(マスタ)の最も近い友人としてのサポート。サポートする(マスタ)は誰だ? クゼ・キリコ。私は彼女のシャドウでリコピン。リコピンはC40H56で表される有機化合物で十三個の二重結合によってビタミンEの百倍以上の抗酸化性を持っている。違う、リコピンは私。私はクゼ・キリコのシャドウでその役割(ロール)(マスタ)の記録。(マスタ)はクゼ・キリコ。クゼ・キリコはははわたたし――


 ――クゼ・キリコの昇天(アップロード)が完了しました。





『ヒロト、もう楽園(ここ)には来ないで』

 かってプロポーズされた相手に私はあえて冷たくそう言い放つ。別に嫌いになった訳ではない。ただ、私のために彼の時間を潰すのが嫌で、何より単純に一緒の時間を共有するのが苦しかった。

「なんで、なんでだよ!」

 なぜもない。ヒロトの感覚にフィードバックされていようとも。この楽園(エデン)は私が今居る場所で、ヒロトが居るべき場所ではない。この場所はヒロトたちに私たちとの時間を提供するが、本質的に彼らの居る場所として作られてはいないのだ。

 それはヒロト自身も分かっているはずだろう。それなのに彼は仕事も放棄して、私が死んでからの二週間ずっと入り浸っていた。

『いつまでも死人に構わないでって言ってるの。私のことはさっさと忘れなさい。それで私よりもっといい女を見つけなさい』

「なんでお前がそういうこと言うんだよ」

『もう私はあの頃の私じゃなくなったから、かな』

 それはきっと私だからそうやって突き放すのだろう。まさか15年前の自分の祖母とのやり取りと似たやり取りを逆の立場でやるとは思ってもいなかった。ちょっとした偶然なのか、或いはそこそこの頻度で発生する人間として一般的な行動の範疇なのかは分からないが。

 後者だとしたら体験談をぜひ聞きたかった。こんなことを二度も立場を変えてやりたくはなかった。それでもここでヒロトを断ち切らなければ。生身の人間ではない私がヒロトの心を縛り過ぎてもいけないのは私が一番よく分かっている。

「あの頃のって……お前、俺のこと嫌いになったとでも言うのか?」

『そう言って引き下がってくれるならそう言う。……でも、そう言いたくなる前に私の前から消えてよ』

 できるだけ平静を保って静かに縁を切りたかったが、どうにも感情が乗ってしまう。言葉を紡ぐたびにあるはずのない心臓に杭を打たれているような痛みが走り、意図しないうちにその影響が言葉にも出てしまっているようだ。ああ、これではあまり長くは持たない。

「……分かった。さよなら」

 けれど、決壊する前にヒロトは退界(ログアウト)してくれた。こちらの意思が伝わったのかは分からない。ただ、もう二度と会うことはないのだろうと思うと、やはり胸のあたりがチクリと痛む気がした。

『ふぅ……やっぱりこうするしかないよね』

 自分が望み、行ったことだと分かっていても今回はそう強く思いたくもなる。ヒロトのことは自分も忘れよう。起こってしまったことはもうどうしようもないのだから。今はここでの新たな生活を満喫するしかない。

 そう気を改めて立ち上がった私の目に入ったのは小さな食器棚の上に置かれた一枚の写真立て、その中に収まっている一枚の写真だった。

『あ、こんなときもあったわね』

 それは私が8歳のときの写真だ。満面の笑みを浮かべて木板を持つ姿には我ながら癒される。木版に描かれたレリーフはカスミソウをモチーフにしたのだろうか。そういえば、あの頃は楽園(エデン)に入り浸っては祖母に会っていたが、このレリーフも彼女を思って作り見せたものだった。

『でも、これいつ撮ったんだろう』

 ただ、不可解なのはこの写真を撮った記憶も撮られた記憶もないこと。自分を撮るような趣味もないし、当時の自分にこんなに綺麗に撮る技術もなかったように思う。

 少し当時の状況を考えても、抜け一つないはずの記憶を探っても答えは分からない。本当に不可解な話もあるものだ。

 ただ、なぜかトマトジュースが無性に飲みたくなった。





 

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― 新着の感想 ―
[一言] すみません投稿に気づくのが遅れました。 キリコが死んだシーンで「!?」となり、最後の写真の下りで「!?!?」となり、三度読み返してうなりました。 誰だこんなシステム考えた奴。 シャドウは主…
[一言] シャドウってそういう存在だったんですね……影の様に常に寄り添う。主を殺さないために影が代わりに死ぬ。 でもあくまで影、本人を誰より近く誰より見てきた存在であるものの本人で無い様な本人の様な…
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