序幕 天魔と少女と
―――宙天の星空を何度呪っただろう。
―――歪に歪む月に何度唾吐いただろう。
―――昔の事を憶えている。
―――もう十年以上も前の事を。
―――化け物が女の子を食べてしまう。
―――ただそれだけのおはなし。
少女が金切り声を上げる。
当然の反応だ。すぐ隣で人が死んだのだから。しかもそれが肉親ならなおさら。
人は死ぬと動かない。少女が泣きながら抱きついても、前後に揺らしてもなんの反応も返さない。
故に車は止まらない。彼女の父親は運転してたそのままの姿勢で固定された。
しかしそれを許さない者がいた。粗野なジャケットに身を包んだその男は、走る車のドアを開け、父親を掴んで放り投げた。
すがる少女の目の前で父親が小さくバウンドし、転がる。
死んだ者はボールの様には跳ねない。そのことを知ってジャケットの男が笑う。
車がようやく止まると、数台の単車が車を取り囲んでいく。
ジャケットの男はリーダー格らしい。部下になにやら叫んでいる。すると男たちは車の後ろのコンテナに我先にと飛び付く。
それを満足げに眺め、男は少女を見定める。上から下までねっとりと値踏みし、うんうんと頷く。
気付けば数人の部下が男の後ろに立っていた。彼らの視線は少女の胸や足、全身に注がれている。
良いですか、と男たちは言った。
好きにしろ、と男は言った。
だから男たちは襲いかかる。少女を車内から引きずり出し、乱暴に服に手をかける。
少女はまだ十二歳だというのに。未成熟だというのに。悲鳴を上げて拒絶しているというのに。
しかしそれでも男たちは止まらない。その身体が女であることを教えるために、息を荒らげて服を破い―――、
―――ッブツン――。
少女に跨る男の顔が消えた。そしてゆっくりと少女に覆いかぶさる。大量の鮮血と共に。
男たちの悲鳴が上がった。たゆまない銃声。それと同時に鳴り響くこの世の者とは思えぬ叫び。
それは金切り声にも似ている。しかしずっと低く、重い。地獄に落とされ、声も潰された者はこんな声を出すのだろうか。
その声の主は少女の父だった。
……否、違う。
最早それは人間の形を留めていない。肥大化した肉と鋭利な触手。それらが男たちを切り刻み、潰す。
『魔獣』と言うモノがある。
死んだ者が何らかの要因によって蘇生。そして生者を襲い、その肉を喰らって人としての姿を捨てたモノ。それが魔獣。
発生確率は0.001%以下と少なく、おそらく男たちも遭遇したのは初めてだったのだろう。ソレに向かって半狂乱で銃を撃つが、効果は薄い。
ジャケットの男が慌てて少女を抱え上げ、そのこめかみに銃を突きつける。父親ならば、とでも思ったのだろう。
しかし無駄。その間も部下たちは無残に殺され、喰われていく。魔獣には生前の意識は存在しないという基本的なことすら知らなかったらしい。
男は震えながら少女を放すと、一目散に逃げていく。しかし少女は動けない。
これが、自分の父親……?
この死肉を貪る全長5メートルを超すであろう肉の塊が……?
その肉塊の一部が開き、丸いモノが飛び出る。
それはおそらく目。それが少女を凝視すると、ようやく彼女は口を開いた。
「パ、パ………?」
一拍の間。そして悲鳴とも呼びつかぬ叫び。果たして肉塊にも情は在るのか。
否。今のは言うなれば舌舐めずり。美味しそうな料理を前に涎が出るのと同じこと。
だから魔獣はその鋭利な触手を少女に突き出す。まずは串刺しにしてその後ゆっくりとねぶろうというのだろう。
嗚呼。最早少女の運命は風前の灯。少女は状況もうまく飲み込めぬまま、数瞬の後凶刃の餌食に成り果てる。
―――故に、鮮血が舞った。
ただし、それは少女のものではなかった。魔獣が突然の苦痛に身体をよじらせる。
微かな浮遊感。そして冷たい鋼鉄の感触。
少女を救ったのは巨人。全身が鎧でできた巨大な騎士。その右手に持った剣が触手を切り裂き、左手が少女を拾い上げたのだ。
少女は知っている。これは重装殻。古くから人々と共にあった、人を守るための盾だと。
その重装殻から不意に音が鳴った。
「こちらリオン。対象を保護。至急回収班を――」
そこで声は途切れた。突然の衝撃に少女が身をすくませる。
先ほどまでは人の腕ほどの太さの触手が、丸太の様になって重装殻をぶん殴ったのだ。
重装殻は身体を捻って少女を上に倒れる。しかしその上には―――。
「―――ッ!」
空へと舞い上がった魔獣が重装殻を押しつぶす。十数人分の質量とはいえ、密度的に重装殻が潰れることはない。しかし動くことができない。
一つは魔獣が重装殻の腕を押さえつけていること。そしてもう一つの要因は少女をその両手に抱えていること。
自分が邪魔で思う様に動くことができないんだ。そのことを分かりつつも、少女は何もできない。ただ悲鳴を堪えることしかできない。
魔獣が声を上げる。勝鬨を上げるように。しかし重装殻内の彼は冷静だった。
「……了解」
聞こえた瞬間、魔獣が新たに生えた触手を振り下ろす。思わず目を瞑る少女。しかしその一撃は重装殻に届くことはなかった。
音の高さとしては低く、しかし静かに響き渡る音。それは目の前にある光の障壁から発せられたものだった。
「特殊光学力場……」
少女の口がそう呟くと同時に、
「チョイヤーーーーー!!」
魔獣が横に吹き飛んだ。代わりにそこにあるのは一本の棍。そしてそれを持つのはやはり重装殻。
「大丈夫、リオン?」
新手の重装殻から少女のものと思しき声が響く。リオンと呼ばれた重装殻はゆっくり立ち上がると小さく頷いた。
「問題ない」
「1班総員、撃てっ!」
銃声。少女が驚きの顔を向けると、そこにもまた数体の重装殻。そして少女の周りにもまた数体の巨人が集まってきていた。
響く魔獣の悲鳴。一拍の後、初めの重装殻は少女を下ろした。そして次に来た者に言う。
「……頼む」
初めの巨人が魔獣へと駆ける。しかし少女にはその先を見ることができない。なぜなら他の巨人たちに視界を塞がれたから。
ひと際大きい魔獣の悲鳴が辺りに響いた。それで、事は終わった。
その男、イオス・リーベルは多忙だった。
なにせこの世界で最大の強国、デモニアス帝国を敵に回そうという反政府組織の中核を担っているのだ。部下からの報告や上申、友軍との便宜、政府軍の動向など悩みの種は尽きない。
そんな彼の元にまたストレスが届く。それはとある人物の死亡報告書だった。
「……本当なのか、これは」
「はっ。事実でs、いえ、事実であります、サー!」
民兵上がりに口調など期待していないというのに。その生真面目さに内心苦笑しつつイオスは再び報告書に目を通す。
「カイル・リヒテンダールの死亡を確認、か……」
「はっ。なお死亡後は魔獣となって暴れまわったそうでありまして―――」
死亡原因は野盗による襲撃。なお死亡後は近くを通りかかったキャラバンによって丁重に埋葬された、とのこと。
イオスの脳裏に最悪の可能性がよぎる。まさかこんな想定外のアクシデントで計画が台無しになってしまうものか。
「……荷物は?」
「は?」
「彼の所持品はどうした?」
「ええと。その、カイル氏の娘と共に保護したと」
目を見開いてもう一度報告書に目を通す。そこにははっきりこう書いてあった。
『同行していた実娘は生存』
そしてそれはゆっくりとイオスの胸を満たす。
それは愉快。そして快悦。
口からは笑いしか漏れない。そうか。そういうことか。
「これが運命か……っ!」
思いはくすぶりを続け、やがて結実するだろう。
そしてそこにあるのは―――。
続く