はじまりの三月
はじまりの三月
卒業式まで、あと一週間。
まったりとぬるい春の空気を吸い込む。裏門から続く細道を歩くあたしたちの横を、かたたん、と二両編成のディーゼルが通り過ぎていく。四月から、あの列車に乗って新しい学校に通う。ところどころ塗装の剥げたフェンス越しに、鮮やかな黄色がちらついて見える。線路沿いに植えられている菜の花だ。
「あ、あれ、テリーじゃない?」
ミナが指差すほう、踏切の遮断機の前に照井がいた。野球部の仲間と一緒だ。小学校から一緒だった照井は、中学にあがってから「テリー」と呼ばれるようになった。だけどあたしは、あたらしいニックネームに慣れることができず、そのままいつしか疎遠になって、今に至る。ミナが照井たちのほうに手を振って駆け出し、勢いであたしもついて行った。遮断機があがっても、照井たちは線路を渡らずに待っていた。
ミナはあっけなく男子たちの輪の中に溶け込んだ。あたしは一歩遅れたところを歩いた。ミナのポニーテールが揺れる。誰かが何かを言って笑いが起こって、照井のがっちりした肩が小刻みに震えた。目の覚めるほど速い球を投げる肩だ。
照井はこの夏、エース・ピッチャーとして我が中学の野球部を県大会の準優勝にみちびいた。県一番の野球の強豪校にスポーツ特待生として進学が決まっている。あたしとは大違いだ。
かあん。鼓膜の奥によみがえる、白球をとらえるバットの音。
かつてあたしは照井から、ホームランを打ったことがある。今思えば、それが間違いのはじまりだった。
家に着いて、着替えることもせず、ベッドに横になった。何もかも億劫だった。早く中学生活にさよならして、あたらしい生活を始めたい。
ごろんと寝返りをうったところで携帯が鳴った。ミナからのメール。
『野球部とソフト部の三年で、卒業お別れ会やろうって話になった。夏海、行く?』
いかない、とそっけない返信をして、携帯を放る。お別れ会、って。男子がらみのイベントにだけはやる気を発揮する。ほんと、ソフト部はサイテー。
ふたたび携帯が鳴ってあたしはいらいらと頭をかきむしった。
『いいの? テリー、橋本さんと別れたんだって。夏海、チャンスかも』
チャンスって、何の。ミナはずっと何かを誤解している。あたしは照井に関して妙な感情は持っていないし、甲子園常連校に進学するあいつとは、これからも交わることはない。それなのに、別れた、の文字を見たあたしの胸は、ざわついている。
目を閉じる。子どものころのことが、つぎつぎとまぶたの裏に映し出される。
あたしは小さいころから野球が好きで、よくじいちゃんと一緒にテレビでナイター観戦していた。四年生の時、照井と席がとなりになった。いつもホークスの帽子をかぶってた照井は筋金入りの野球ファンで、すぐに仲良くなった。女子の友達では野球がわかるコがいなかったから、あたらしい友達ができたのがうれしかった。
どちらかといえば無口で、クラスでは、話の中心になるよりも、そばでうなずきながら聞き役にまわることが多かった照井。だけど野球のことになるとちがう。目が輝く。頬が染まる。声がはずむ。たくさん、笑う。
やがて照井は町内の、少年野球のチームに入った。運動公園にあるグラウンドが練習場所で、あたしも時々見学に行った。
スパイクが土を蹴る音、かけ声、泥でよごれた男の子たちのユニフォーム。記憶のなかで、あの頃の空はいつもすっきりと青い。
「夏海―。帰ってるの、夏海―」
お母さんの呼ぶ声がして、あたしは我に返った。あわてて起き上がって制服を脱いだ。
「まったく、人使い荒いっつの」
ぶつぶつ言いながらもスーパーで頼まれたものを買い、そのまま帰ろうとしたけれど、ふいに気が変わった。すこし回り道をして、運動公園へ寄る。広い公園の敷地を取り囲むようにジョギングロードがひかれ、道沿いには桜の木が連なっている。つぼみがぷっくりとふくらんで、もうすぐほころびそうだ。
グラウンドでは小学生たちがキャッチボールをしている。芝生に体育座りして、ぼうっとそれを眺めた。
お前も打ってみろよ、って照井にバットを渡されたのが六年生の秋。アットホームな雰囲気のチームで、ほかの選手たちも監督も面白がって賛成した。マウンドで大きく振りかぶる照井。ボールが照井の指先からはなれて、ミットに向かってまっすぐ伸びてくる。よし、いける。あたしは思いっきりバットを振った。
快音。あたしが打ったボールは空高く飛んだ。外野の選手が駆けていく。誰かが、ホームラン、と叫んだ。あの時の爽快感が忘れられなくて、あたしはソフトボールを始めたんだ。
「……進藤?」
低い声が降ってきて顔をあげると、照井がいた。あの時、ぽかんと口を開けて飛んでいくボールを見上げていた照井。目じりがちょっとだけ上がった一重の目は昔と変わらないけど、太い首すじとか顎の骨とかのどぼとけとか、あの頃とは、まるでちがう人みたいだ。
「何してんの?」
「あんたこそ」
あたしの声はかすれていた。
「なつかしくなって。俺、もうすぐこの町離れるし」
照井の高校はここからかなり遠い。寮に入るらしい、とうわさに聞いていた。
「ふうん。照井でも感傷的になるもんなんだ」
ひさしぶりの会話に、目が合わせられない。みょうに、きまり悪い。ふいに、テリー、橋本さんと別れたんだって、っていうミナのメールを思い出す。
「まあね。ここ、俺の原点だし」
原点、という単語をゆっくりと反芻する。あたしにとっても、ある意味、そうなんだろう。ただ、その後の明暗がくっきり分かれてしまったというだけで。
照井があたしの横に腰を下ろした。こぶしふたつぶんくらいの隙間を開けて。あたしは芝の先っぽをつかんでぷつぷつむしった。手のひらに草が貼りつく。
「お前、お別れ会って来る? 今度の日曜。カラオケだって」
ミナが言ってたやつだ。今度の日曜、って、あさってだ。あたしは首を横にふった。
「来いよ」
無造作に、ぽんと投げ置くように照井は言った。
あたしは抱えたひざこぞうに鼻をうずめた。
結局、卒業お別れ会とやらに、あたしはむりやり引っ張り出された。ミナが家まで迎えに来たのだ。ソフト部の三年は四人。野球部の三年はかなり多かったはずだけど、遊びに来たのは四人だけ。
「人数合わせてもらったんだ。だから夏海にも来てもらわないと困るのぉ」
ミナがいたずらっぽくわらう。合コンかよ、って呆れるあたしに、ミナは舌をぺろっと出した。
カラオケに来るのもひさしぶりだった。昼間なのに薄暗い空間が、あっとういう間に熱気でいっぱいになる。みんなテンション高くて、何うたうー、とか、何たべるー、とか、楽しげな声が行きかう。男子も女子も、はやりの歌のなかでもとくにノリのいい曲をみんな選んだ。島田とかいう二組の男子が熱唱してる。ミナたちがソファの上でぴょんぴょん跳ねている。あたしはずっと、誰かが頼んだフライドポテトやピザなんかをひたすら食べてた。
女子たちの目はきらきらしてる。部活中は一回も見たことのない楽しそうな顔。男子がそばにいるととたんに華やぐ。もっと早くに見限るべきだった。そうすれば、無駄に努力することも、無駄に傷つくこともなかった。
無意識に、目が照井を探していた。ローテーブルを囲むように置かれたソファの角っこ、ほかの男子たちの陰に隠れるように照井は座って、ぼうっとタンバリンを叩いている。ちっともリズムに合ってない。
「ねー、夏海もなんか歌えば?」
ミナがあたしの顔をのぞきこんだ。
「あたしはいい。じつはゆうべからちょっとノド痛いんだ」
「風邪?」と、島田くんが割り込んできた。「んじゃー、無理しないようにね」
苦笑した。嘘だし。
島田くんはコーラを立て続けに飲んでて、もちろんアルコールなんてはいってないのに、妙に酔っぱらったようなテンションになっている。部屋中をうろうろして女子にからんだり、踊ったり。
「おいっ、テリー」
島田くんがマイクを持ってだしぬけに照井に人差し指を突き付けた。
「おまえもなんか歌え。そして吹っ切れ。橋本みずほなんて、あんな薄情な女、忘れてしまえ!」
とたんにあたしの心臓の音が大きくなる。橋本みずほ。テニス部の副部長してた子。小さくて、くるんと大きい瞳が愛らしい女の子。スカート丈はひざこぞうがちょっと見えるくらいの清楚系。つやのあるまっすぐな髪を耳の下でふたつにくくってる。いつも照井のうしろを恥ずかしそうに歩いていた。
ふと、自分の、カットソーからのぞいた浅黒い手首が目に入る。女子にしては高い身長、さっぱりと短くした髪、整えようのない太い眉。筋肉質で、やわらかなふくらみのないからだ。それがあたし。
「ばーか。とっくに吹っ切ってるし」
照井は明るく笑い飛ばした。んじゃ何かうたうよ、と選曲画面に目を落とした照井の顔が、一瞬、くもった。それを見たとたん、胸のまんなかに鋭い何かが刺さる。
覚えのある痛みだ。ずっと気づかないふりをしていた痛みだ。
あたしはそばにあったウーロン茶のグラスをつかんで、ひといきに飲んだ。とたんにむせた。
「ちょ、大丈夫? 進藤サン」
島田くんが駆けつけて、背中をさすってくれる。ミナが、やだー島田セクハラ―、と黄色い声をあげた。だれかが口笛を吹いた。
「バーカ」
島田くんがからからとわらう。
「自分よりイケメンの女子にセクハラとか、悲しくなるだろ」
イケメン、て、あたしのことか。二秒遅れで理解した。男子たちの低い笑い声がひびいている。照井も笑ってるんだろうか。確かめることができない。
「大丈夫」
あたしはようやっと答えた。
「ごめん、あたしやっぱり帰る。ちょっと熱っぽいみたい」
なんてことない。イケメンとか男前とか、クラスの男子にも女子にもよく言われる。笑ってかわしたり、自分からネタにすることだってある。
バッグをつかんでふらふらと立ち上がった。ごめん、ともう一度言って、そのまま、だれの目も見ずに部屋を出た。
カラオケボックスの外に出たとたん、春のあかるいひかりがもろに降りそそいで、あたしは目を細めた。空は青くて、でも少しかすんでいる。走り出す。通りを抜けて、少しでもひとの少ないほうへ。街の中央を流れる小さな川があって、その流れが見えたあたりであたしは走るのをやめた。
ゆっくりと息を吸って、吐く。橋を渡って、川沿いに敷かれた遊歩道を歩く。
河川敷ではやわらかい若草が風にそよいでいた。菜の花が咲いている。川に降りるための階段を見つけてあたしはゆっくりと降りた。水のにおいが強くなった。
草の上に腰を下ろす。せせらぎの音と、川面が跳ね返す光の粒、ゆれる菜の花の黄色。
ミナたちソフト部のメンバーの顔、照井の顔、橋本みずほの顔。あたしの脳裏に、つぎつぎに浮かんでは消える。
思えば、あたしの中学三年間、ろくなことがなかった。
照井からホームランを打ったとき、監督から、「きみ素質あるよ」なんてのせられて、あたしはその気になった。中学の野球部は、女子の入部は前例がないと言って認めてくれなくて、それなら、とソフトボール部に入った。入部早々、のんびりした雰囲気の先輩たちに、ピッチャーを押し付けられた。期待されてると勘違いしたあたしははりきった。といってもだれも投げ方なんて教えてくれなくて、というか、部員のほとんどがソフトのルールすら正確に把握してなかった。放課後、クラブハウスでだらだらと何十分もかけて日焼け止めを塗って、やっとグラウンドに出たと思ったら日陰に座り込んでしゃべっているだけ。ねえ何でソフト部はいったの、って、ミナに聞いてみたことがある。
「だって部活やってたほうが内申いいから受験有利になるじゃん? でもきつい部はいやだし。ソフトは運動部だけど文化部より全然ゆるいって、お姉ちゃんが言ってたから」
ほかの子も、うんうん、とうなずいていた。
くらくらした。ここは、何かをまじめに頑張りたくないひとの集まりだった。
それでもあたしはあきらめきれずに、ひとりで、壁にむかって投球練習をした。ソフトの投げ方はいつも見ている野球とは全然違う。DVDや本で自分なりに研究してやるしかなかった。こんな部だから、当然試合ではいつもぼろ負けした。中学最後の試合だって例外じゃなかった。
最悪の引退試合。あたしはこてんぱんに打たれた。平凡なフライとか、ゴロとか、普通のレベルのチームならまずアウトにできる球でも、チームメイトたちはもたもたとエラーばかりした。フライをキャッチできない。一塁に投げるべきところを、三塁に投げてしまう。そもそもボールを投げても届かない。守りもだめだし、攻撃もだめ。からぶりの連続であっという間にスリーアウト。大差で負けた。いつものこと、と自分に言い聞かせて気持ちをしずめる。
「あたしたち、よわっ」
誰かが言った。笑いが起こった。明るくて軽やかな笑い声。そのときあたしははじめて悟ったんだ。みんなにとって、ソフトボールなんて、小鳥の羽根よりも、たんぽぽの綿毛よりも、もっともっと軽くて、どうでもいいものだったんだ、って。
片付けを終えて去っていく相手チームの子たちが、憐れむような、蔑むような目であたしたちをちらちらと見た。
あたしははじめて泣いた。ベンチにうずくまって、動くことができなかった。
風が吹いてあたしの前髪をふわりと持ち上げる。ずっとこうしてるから、日差しに暖められてからだが熱い。今のあたしも、ここから立ち上がれない。
と、何か、小さい音が耳に届いて、顔をあげる。あたしが今しがた渡ってきた橋の上で、小さなシルエットが動いているのが見える。手を振っているようだ。
「……照井」
あたしがつぶやくのと同時に、その影は動いた。遊歩道を走って、どんどん近づいてくる。やがて、照井は河川敷に降りてきた。
「具合悪いなら、さっさと帰れよ」
かなり速く走ってきたはずなのに呼吸が乱れていない。訓練のたまものだろう。
「カラオケは?」
「抜け出してきた。絶対、お前、仮病だと思って」
「なんで」
「島田のやつが、さ。失礼なこと言ったろ。あいつバカっていうか、ちょっと考えが浅いだけで、悪気はないんだ。ほんとごめんな」
「いやべつに気にしてないし。慣れてるから」
そっけなく、言った。そっけなく。
「ただちょっと苦手なだけ。ああいう場が」
そっか、と照井はわらった。心底ほっとしたような、無防備な笑顔で。
胸がかきむしられる感じがした。
あたしは、男あつかいされて、そんなに傷ついたような顔してたんだろうか。照井の前で、そんな顔を見せたんだろうか。
照井はずるい。そんな、あたしのわずかな変化に気づいて、わざわざ追いかけてくるなんて。照井は中学にはいってずいぶんもてるようになったけど、それは決して野球部で活躍したからだけじゃない。いつの間にか、こんなに自然に、人のことを気遣えるようになった。そう思う。思うけど。
「自分こそ、居心地悪かったんじゃないの」
あたしの声は冷たかった。
「図星つかれて。橋本さんのこと」
照井は黙り込んだ。風が吹いて、髪が口の中に入りそうになって、手で押さえる。照井はおもむろに、足元にあった石ころを拾った。そして、川面に向かって、投げた。風を切る音が聞こえた気がした。大きくひらいた肩、腕の振り。一瞬、何もかもを忘れて、見惚れた。
「どうしていいかわかんねえんだよ。なんでふられたんだろう。俺、なにも悪いことしてないし。やさしくしてたし。まめにメールも電話もしてたし」
「……ふられたんだ?」
「俺が高校決まったとき。遠距離は自信ないから別れようって、言われた」
川の流れる音が耳につく。風が強くなってきた。少し、寒いと思った。
胸のまんなか、奥のほうが、じんじん痛む。気づいてしまいそうで、でもまだごまかしていたくて、あたしは口を開く。「わかるよ」って。
照井が目を見開いた。まっすぐなまなざしがあたしに向いた。
「わかる。橋本さんの気持ち。きっと、怖かったんだ。照井のこれから歩く道がまぶしくて、光輝いて見えて。置いていかれるって思ったんだよ」
星みたいに、綺麗だけど遠くて手が届かない。そんな場所に行ってしまうんだ。
「バカじゃねえの」
吐き捨てるように照井は言った。
「輝いてなんてないよ。俺だって怖いんだよ。田舎のちっさい中学だから、エースで活躍できたんだよ。高校には、俺みたいな、いや、俺なんかよりすごい奴がたくさん集まってくるんだよ。どっかでへこまされるんだよ、きっと、俺は」
照井はそのまま、その場に座り込んでひざをかかえた。川面で跳ねる光の粒を、じっと睨みつけている。あたしはどうしていいかわからなくって、そっと、隣に座った。
ゆっくりと時間がすぎていく。照井のこんな顔、はじめて見る。涙は流してないけど、泣いているのかもしれない。すぐそばにいるのに分かち合えない。だって、照井が抱えているのは、あたしには永遠に訪れない悩みだから。
「いいじゃない。チャンスがあるって」
あたしのつぶやきは水音にまじって流されていく。照井がわずかに顔をあげるのがわかった。
「いいじゃない。へこんだって。それが、最高の環境で精いっぱい頑張った結果なら。中途半端がいちばん引きずるよ。あたしみたいに、さ」
少しずつ日が傾いてきたのか、白かったひかりが、わずかにオレンジがかっている。まぶしかった菜の花の黄色が、春の空気にやさしくにじんで、やわらかく揺れている。
「あたし照井がうらやましい」
言ってしまった。あたしの本音。ずっと照井みたいになりたくて、でもなれなくて、うじうじと腐っていった。ソフト部が、もっと練習熱心な部だったら。ううん、あたしが男で、野球部に入ることができていたなら。そんなタラレバなことばかり考えた。いつの間にか、照井の顔をまっすぐ見ることができなくなった。妬ましくて、人のせいに、まわりのせいにしてばかりいる、そんな自分が情けなくて。
照井は何も言わない。沈黙が痛くて、ときどき彼の横顔を盗み見る。何を考えてるんだろう。呼吸が浅くなって胸がつかえたようにくるしい。くるしくて、でも少しだけ甘い。日が落ちるまでここにいたい。
「むかし、俺、おまえにホームラン打たれた」
出し抜けに照井がつぶやいた。覚えてたんだ。
「なんで今、そんな話?」
「なんで、って。俺、あのとき、悔しくて悔しくて。その日の晩、眠れないくらい悔しくて。それで、中学で、めっちゃ頑張った」
原点、って言ってた。少年野球の練習場だった、運動公園のグラウンドを。
あの日、飛んでいく白球を見上げていた照井の胸のうちなんて、あたしには知りも得なかった。想像もしなかった。
「今だから言うけど、俺、カッコつけたかったんだよね。めっちゃ速い球なげて、進藤に、すげー、って思われたかった。バカだし、ガキだし。なのに最悪の結果。いたたまれなくて、それで、勝手に気まずくなっちまったっていうか」
あたしが照井を直視できなくなったように、照井も、あたしを避けるようになったってこと?
「頑張ってほんとに凄い球投げられるようになったら、告ろうと思ってたんだよね」
「……だれに」
「だれに、って、それ、聞く? お前以外に、だれがいるの」
時が止まった。あまりにびっくりしすぎると、時って、止まるんだ。
「え、だって、まさか、そんな」
顔が熱い。耳たぶが熱い。からだじゅうがかあっと発熱している。
「でも俺、進藤ととうまく話せなくなったし、進藤は進藤で、いっつもむくれた顔して、目が合うとにらんでくるし。嫌われたと思って、あきらめた」
「嫌ってなんか……」
嫌ってなんかなかった。照井と橋本さんが付き合ってるってはじめて知ったとき、あたしの胸に棘が刺さって、ときどきどうしようもなく痛んで、でも見ないふりしてここまで来た。なのに今さら。
「うまくいかないね」
そう言うしかなかった。心臓の音が耳のすぐ後ろで響いてる。こんなにどきどきしてるのに、もう、どうしようもなかった。照井はあたしのことはもう好きじゃない。むかしのことだから、そして、これから新しいステージに向かうから、だからこそ今、こうやって打ち明けられたんだろう。
でもあたしは好きって言えない。現在進行形だから。この先もずっと、続いていってしまうから。
いつのまにか、日はずいぶん傾いていた。やわらかなオレンジ色の、春先の夕暮れがすぐそこに迫っている。川から吹く風が思いのほか冷たくて、くしゃみが出た。
「そろそろ帰らなきゃ、ほんとに風邪ひくな」
照井が立ち上がって、ジーンズについた草を払う。あたしはとっさに、照井のジーンズのすそを引っ張った。
「あたし、頑張るから。高校言っても、あたしなりに、頑張るから」
何でこんなこと宣言してるんだろう、って思った。だけど、今のままじゃだめってことは自分でもわかっていた。好き、って言えないけど、追いつくように努力はできる。まだ先はある。
「進藤なら何でもやれるよ」
照井があたしの手首をつかんで引っ張り上げる。目が合う。うつむいて、そらした。
「負けず嫌いは伸びるんだぜ。監督が言ってた」
「……?」
「俺、見てたんだよ。お前らの引退試合。たまたま練習が早くあがって、ソフト部の後輩とつきあってた友達に誘われてさ、見にいったの」
一点だって取れなかった、あの試合。
みじめな記憶がよみがえる。打たれるだけの無力な自分。試合に無関心なチームメイトの中で、ひとりだけ無様に悔し涙を流した。恥ずかしさでいたたまれない。
「お前、泣いてたろ。目、真っ赤にして。それ見て、進藤は大丈夫だって思った」
思わず顔をあげる。照井の、はにかんだような笑顔が目の前にる。今度は、あたしは、そらさなかった。かわりに、こくりとうなずいた。
何でもやれる。あたしだって、新しいステージに進むんだ。
すっ、と手を差し出した。大きな手のひらが応えてくれる。
暖かい。
別れの、そして、はじまりの握手だ。