家族
そうだった。僕の任務は時空のゆがみで生まれた分身とその本体の観察だったんだ。
甘酸っぱい青春を見せ付けられたせいで本来の任務が疎かになるところだった。でも、良かった。先生と呼ばれている方の遼一はずっとクローゼットの中に隠れていたようだ。
「――おー……お、驚かすなよ」
「……」
「あの、もしもーし。大丈夫かー。そんなところで縮こまってなにしてるんだい」
まぬけな音が聞こえてくる。この音はなんだろう。聞き覚えあるような……。
「あ、飯か」
先生は無言でうなずく。
「え、じゃあ、もしかして朝から何も……」
あー、そういうことになるな。目が覚めたら遼一の母親がやってきて、ずっと隠れてたんだもんな。
またしても先生は無言でうなずく。
「それはかわいそうに……。で、どうしよっか」
先生は師匠の目をじっと見つめる。
「お、俺、今日は飯いっかなー。代わりに食ってくれば」
先生は首を激しく縦に振る。お前は犬か。
「……じゃあ、どうすっか。俺は部屋にいるからさ。行ってきなよ」
先生は下に降りるのを躊躇っている。母親のボディープレスの後遺症が残っているようだ。
「大丈夫だって。見た目が一緒だから何も思われねーよ」
先生は師匠の言っていることを理解すると部屋を飛び出していった。
「……あいつ、大丈夫か」
師匠は知らないのだ。あの可愛らしい母親のもう一つの顔を……。あれは常軌を逸していた。先生が一時的に廃人になるのは無理もない。
師匠はベッドに横になる。
物思いにふけているようだ。……胸いっぱいでお腹いっぱいってことですか。へっ、うらやましいですな。
こっちの遼一を観察していても面白くなさそうだ。僕も下に行こう。
んーと、どこが良いかな。こっちの方に来るのは初めてだ。
良いスペースが見当たらないなー。仕方ない。ちょっと体勢がきついけど窓の縁に顔を乗っけるか。
……なんか恥ずかしいな。人の家の食卓を物欲しそうにながめてるみたいだ。誰にも見つからないことを祈ろう。
う、なんかいる。こいつはたしか遼一の妹だ。
遼一は四人家族の長男坊だ。下には歳の離れた妹が一人いる。名前は文華、幼稚園児だ。今はまぬけな面をしてテレビに夢中になっている。その奥には遼一とその母親が食卓を囲んでいる。遼一の母親の名前はなんだったかな。んーと……遼子か。遼一の名前は両親の名前にあやかっているよのか。資料によると、遼一の父親の名前は享一だそうだ。
昔の人は自分の名前の一部を子供に付けることがあったんだな。
なんて素敵なんだろう。でも、なんで廃れてしまったんだろう……。
「――大声出してなかった」
「え、いや……ゴキブリが出たんだよ」
「え、やだぁ。今まで出たことなかったのに……マルサン焚かないとダメかしら」
「い、いや、そこまでしなくても大丈夫だよ」
「そーお、でも一匹いたら何十匹もいるんでしょ」
「……ちゃんと掃除してれば大丈夫じゃないかな」
遼子は持っていた箸を茶碗の上に置く。そして、遼一の顔をじっと見つめる。
「遼一……なんかあった」
「……え、なんで」
「なんか元気ないわ、大丈夫」
先生はずっとクローゼットの中に身を潜めていたんだよな。遼子からはボディープレスをくらってるし心身共に疲れちゃったんだろう。
「元気だよっ。お腹もペコペコだしさっ」
「……学校でなんかあったら言うんだよ」
今日は色んなことがあったと思うが、そのことはこっちの遼一は知らないのか……。ややこしいなー。
「大丈夫だって。なんもないから」
「今日もね、美矩ちゃんが勉強教えてほしいって来たんだけど……断った方が良さそうね」
「いやいやいや、本当に大丈夫だって。それに、美矩の顔見たら元気になるかもしれないじゃん」
「……そうね、今日は美矩ちゃんに元気を分けてもらいなさい。あの子は本当に良い子よ。お家が大変なのに、そんな素振りは全然見せないんだから」
お、今、話に出てきたのが例の女の子かな。遼一が勉強を教えてるみたいだけど、こんなんで本当に大丈夫なのか。たしか学校の成績もそんなに良くはなかったはずだ。
「あ、にゃあにゃあだー」
へ、なんだ。今の声は……。うわっ……びっくりしたー。目の前の窓ガラスに幼女が顔を押し付けてやがる。
遼一の妹に見つかっちゃったんだ。やっべーな、ひとまず逃げよう。