母の愛
遼一がベッドの上で目を覚ます。そして、目覚まし時計の針を見て慌て出す。学校に行く支度をしているのだろう。
勉強道具が見つからないようだ。それもそのはずだ。そこにあった勉強道具一式は、すでにもう一人の遼一が持って行ってしまっている。
遼一はベッドに腰掛けて放心する。どうやら、自分が置かれている状況を思い出したようだ。
さて、遼一はこれからどうするのだろうか。遼一たちは知らないらしいが、その部屋はいつも母親が掃除してくれているのだ。
家の中からはやかましい音が聞こえてくる。それは集音マイクをしていなくても聞こえてくるほどだ。この音を発しているのは掃除機という機械で、この時代の人たちはこれを使って家の中を掃除しているんだ。
掃除機の音がだんだん上がってくる。部屋にいる遼一に落ち着きがなくなっていく。そうだぞ、二階にきた母親はお前の部屋に入ってくるんだ。
遼一の部屋の扉が開かれる。
「よいしょ、と。この部屋は日当たりが良いわねー」
遼一の母親は掃除機をかけていく。集音マイクをしているせいで僕の鼓膜は破れてしまいそうだ。
布団が不自然に盛り上がっている。布団の中には遼一が隠れているようだ。遼一の母親がそれに気が付くと、遼一が隠れているベッドに近づいていく。
「えい」
「うっ」
「あれ、今何か聞こえたわね。どこから聞こえたのかしら」
遼一の母親よ、それはお前の息子のうめき声だ。
「まあ、別に良いわね。そいやー」
遼一の母親は遼一が盛り上がっている布団を執拗に叩く。遼一は母親の攻撃に必死に耐えているのだろう。
「変ねぇ、このお布団ってこんなにボリュームあったっけ……。そんなわけないわ。私のお布団と同じ物だもの」
遼一の母親は布団への攻撃を続ける。この母親は布団の下に何かがあるとは考えないのだろうか。しかし、それを確認されて遼一の分身が見つかるのも厄介だ。遼一よ、今は耐えるしかない。頑張れ。
この女は頭がおかしいのか。この女の布団攻撃は十分以上は続いている。布団の下に人がいることぐらい普通はすぐに気が付くでしょ。
遼一の母親の額には何か光るものが。汗だ。――いやいや、絶対おかしい。なんでそんなに熱くなってるの。
「こいつは手強いわ。どぅおりゃー」
遼一の母親はボディプレスを仕掛ける。
「ふごぉっ」
遼一は思わず声を発してしまったようだ。無理もない。いくらなんでもやり過ぎだ。
「布団の中から何か聞こえたわ」
外部との接触は最低限に抑えないといけないのだが、ずっと耐えていたんだ。仕方ない、今回は助けてやるか。
「みゃー」
僕は甘ったるい声を発すると、遼一の部屋のベランダに飛び移る。
「あら、可愛いにゃーちゃんね。あんまり見ない顔ね、どこから来たのかな?」
遼一の母親は僕の身体をなで回す。……なんだ、身体をほとばしるこの感覚は。
「新入りくんかなー、よろしくね」
き、気持ちいー。まさか、身体をなで回されることがこんなに気持ち良かったなんて。これは盲点だった。
違う、そこじゃない。ええい、自分で身体を動かした方が早いわ。
あ、そこそこ。気持ちいー、そこをもっとかいてくれ。
「可愛い奴だねー。そうね、何かあげようか」
遼一の母親はどこかに行ってしまった。
もっとなで回してく……違った。早く遼一を助けてやらないと。
僕は遼一がもぐり込んでいる布団にかみつき、器用に布団をどかしていった。すると、そこには目に涙を浮かべる遼一の姿があった。
遼一は怯えきっている。よしよし、怖かったね。さあ、安全なところに行こう。
僕は遼一の服の袖を口で引っ張った。遼一は素直に従う。かわいそうに、抵抗する力も残されていないんだな。
僕は無抵抗の遼一をクローゼットの前に引っ張っていく。お前のお母さんはクローゼットの中までは掃除しないんだ。ここに入っていれば大丈夫だよ。
遼一は僕の顔を見つめている。
――ダメだ、伝わっていないようだ。僕はクローゼットの前を軽く引っかく。
遼一はクロゼートを開けると中をのぞきこむ。遼一の母親が階段を上ってくる音が聞こえてくる。遼一は気が付いていない。
僕は遼一の足をクローゼットの中に引っ張る。そして、遼一の身体がその中に納まると、僕は外からクローゼットの扉に体当たりをした。
クローゼットの扉は音を立てて閉まる。よし、上手くいった。そして、振り返るとそこには遼一の母親がいた。
「こらこら、君はそこで何をしているのかな」
まずい、いつからそこにいたのだろうか。……く、苦しい。僕の胸は激しく音を立てていた。
もうダメだ。僕はそう思うと同時に腹を宙に向けて寝転がった。
「みゃー(さっきの続きを)」
「んもう、可愛いなー。そりゃ、うりうりぃ」
僕の洗脳は成功したようだ。遼一の母親は僕の虜と化したのだ。
遼一の母親は僕をしばらくなで回す。そして、僕にミルクの入った器を差し出した。
「ごめんよー、新入り。お前が食べられそうな物がなかったんだぁ。これで許しておくれ」
ふん、ただのミルクか。なんでかは分かんないけど喉が渇いてるみたいだから、それで我慢してやるか。
ん、意外と美味いな。全部飲めそうだ。
「おお! 良い飲みっぷりだね。そんなに喉が渇いてたのか。そうね、今日は暑いからね」
僕は器の中のミルクを飲み干すとベランダに出て行く。
「もう行っちゃうのかい。もっとゆっくりしてて良いのに」
あんまり外部と接触し過ぎるのも良くない。後は自分でなんとかしてくれ。僕はもう一人の遼一の様子を見に行こう。デートの約束をしている女の子の顔を拝めるかもしれないからな。
「いつでもおいで」
僕は隣の家のベランダに飛び移る。振り返ると遼一の母親がこちらに手を振っているのが見えた。こうして見ると可愛らしい女性だ。遼一の年齢を考えると三十代後半ぐらいかな。しかし、あの異様な攻撃はなんだったんだろう。
僕は遼一の部屋がぎりぎり見えるところまで行くと、そこから遼一の家の様子をうかがった。遼一の母親は隣の部屋の掃除を始めている。どうやら、遼一は見つからずに済んだようだ。予定通り遼一の通う学校に行くとしよう。
なんだろう、さっきからお腹の調子がおかしい。なんか変なものでも食べたか。――いや、そんなはずはない。今日はあのミルクを飲んだだけだ。
うおー、お腹がかき回されてるみたいだ。やばい、早くトイレに行かないと。
どうしよう、住宅地だからトイレなんてどこにもない。あー、こうしてる間にもお腹の中の渦がだんだん下の方に。
あの女ぁー、何を飲ませやがったー。