食いしん坊
師匠はズボンのポケットに手を突っ込むと、しきりに震えるそれを取り出した。
「誰からだ……って母さんかよ」
リズム良く震えていたそれは師匠の携帯電話だったようだ。あー、聞いたことがあるな。昔は公共の場での携帯電話の着信音は非常識だったそうで、それを防ぐために『マナーモード』という機能があったらしい。その機能を使えば着信音を鳴らさずとも、携帯電話への着信を知ることができるのだ。しかし、大事な連絡があった時に、マナーモードのせいで気が付かなかった……ということはないのだろうか。ま、そういうことがあるから使われなくなったのかな。
「いや、それはこっちのセリフだから」
師匠は携帯電話に話しかけるが、音声が聞こえてこない。どうやら通話モードではないらしい。機械に話しかけるなんて痛い奴だな。
「何かあったの?」
桃香の声だ。
「え、や、なんでもないよ」
師匠が携帯電話をポケットに戻すと、向かい側にあるイスを引く。そして、何かをテーブルの上に置いていった。香ばしい匂いがこちらにまで漂う。
「ごめんね、他にもあったんだけど、待ってる間につまみ食いしちゃった」
僕のいる所からはテーブルの裏側しか見えない。僕はテーブルの上に顔を突き出す。
「あ、まだいたの? 悪い子だね」
その言葉が師匠と僕のどちらに向けて放たれたのかは分からない。しかし、そんなことはどうでも良くなる光景が目の前には広がっていた。
「これは……俺と桃香ちゃんの?」
「うん、そうだよ」
すごい量だ。桃香はこれを二人で食べるつもりでいるのか。しかも、摘み食いしたとか言ってたから、本来はもっとあったんだよな。恐ろしい」
「あ、ごめん。やっぱり足りなかったかな」
「そ、そんなことないよ。そうだ、お金払ってないよね。いくら?」
「大丈夫だよ。待たせちゃったし」
「それはダメだよ。男の面子がつぶれるよ」
「あ、それもそうだよね」
桃香は財布を取り出すと、中にあったレシートを確認する。
「えーとね、三千円ぐらいかな」
「あ、そんなに」
師匠が思わず声に出す。
「ねー、安いでしょ。こういう所って安いから好きなんだよね」
多分、師匠と桃香の心はすれ違ってるな。僕の時代とそんなに物価は変化してないから、一食で三千円は遼一の年代ならそれなりの額のはずだ。書籍を何冊も所持してるぐらいだから、桃香は遼一よりも金持ちなんだろう。
「わ、割り勘で良い?」
「うん、大丈夫だよ」
情けない奴だ。
「そんなに物欲しそうに見つめても君にはあげられないよ」
み、見てないし……ってかお腹空いてないもん。
師匠と桃香は楽しそうに話しているのは誰が見ても明らかだが、その中身はというとオカルト的なモノばかりであった。師匠が桃香の誤解に気が付いているのかは分からない。でも、師匠にとってはそんなことはどうでも良いのだろう。桃香と話ができる、それだけで幸せなのだ。そう顔に書いてあるんだもの。
その師匠の至福の一時を邪魔したのは、さっきも説明したマナーモードとかいう奴だ。師匠はテーブルの下で右手だけを動かし、携帯電話を取り出した。そして、桃香にそのことを悟られないように画面を確認する。本当に変なところは器用だよな。
遼一の携帯電話はメールを受信していたようだ。師匠が指を動かすと画面が切り替わる。そして、受信ボックスが開くと、そこには『母』からのメッセージが残されていた。
『無視するな。早くどっか行け』
『母』というのは遼子のことだろう。それにしても、一体なんのことを言っているんだ。文面も荒々しく、おっとりしている遼子が書いたとは思えないしな。師匠は携帯電話をホーム画面に戻し、サイレントモードというモノに切り替える。
「よいしょ」
桃香が立ち上がる。
「私、ちょっとトイレに行ってくるね。それと、ついでに空になった皿も持っていくね」
しまった。師匠がメールに気を取られているのに気が付いちゃったか。取り残された師匠の表情はどこか寂しげだ。
師匠と僕は目が合う。師匠の首に何者かの腕が絡みつくのが見えたのは、その直後のことだ。




