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誤解

 僕の下半身にはそのオヤジの毛の感触があった。位置的にあの毛で間違いないだろう。『あの毛』を正確に言い表すことは容易だが、それは今の僕が置かれている状況を認めてしまうように感じられた。

 何かが(したた)り落ちる音が下の方から聞こえる。やめてー、なんでそういうことするの。常識的に考えてさ、そういうことしてる時に抱きかかえられて嬉しい奴なんていないから。いや……まあ、こんな所で隣の個室に聞き耳を立ててた僕が言えることではないけどさ。全身に鳥肌が立ってんじゃん。それはつまり僕が今されていることを嫌がっているということなんだよ。早く気が付けよ。僕の体が毛で(おお)われているとか関係ないから。思いやりだから。

 僕は思いっきり体をうねらせて男の手から抜け出す。そして、男の体を勢いよく伝い、扉の上にある隙間に向かって()んだ。



 は、腹が痛い。あの個室から抜け出すときに腹部を強くぶつけてしまったようだ。さっきの出来事を早く記憶から消し去りたいのに、そう上手くはいきそうにない。

 ところで、遼一たちはどこに行ったのだろう。僕が逃げ出した時には既に隣の個室は空いていた。えーっと、あいつらはどこから来たんだっけ。

 僕が以前の記憶を呼び起こそうとすると、トイレでの出来事が頭の中を()ぎるだけだった。

 今日はもうダメだ。あいつらの様子をもっと見ていきたかったけど、こんなんじゃ仕事にならないよ。

 僕はここから立ち去ろうと思い、辺りを見回すと、ガラス越しに一人の少年と目が合った。

 あれ、前にもこんなことがあったような……これがデジャヴか。しかも、どこか見覚えのある顔立ち……あ、遼一だ。それもそうだ。僕が知ってる少年なんて遼一ぐらいしかいないもんな。ちょっとしっかりしようか、うん。

 遼一が不思議そうにこちらを見つめる。いや、さっきも同じように会ったばかりじゃないですか。僕の体になんか付いてるのか。



 僕と遼一の(にら)めっこはしばらく続いた。や、やっぱり、さっきのオヤジに何か付けられたのか。いやいや、何が付着するんだよ。いや、付着ってなんだよ。モニターには身体(ボディー)破損(はそん)してる箇所はないって表示されてるしな。オヤジの何かが僕の体に付いてるとしか考えられないよ。あー、絶望だ。

 誰かが遼一に近付いてくる。少しふっくらとしているが、肌が白くて可愛らしい。この子は桃香だ。

 桃香が遼一に話しかけるが、その声は僕のところにまでは届かなかった。あ、集音マイクが付いていないのか。僕は急いで集音マイクに切り替えるが、それでも向こうの音声は聞こえてこない。故障か。なんで急に。しかし、思い当たる節がないわけではなかった。そう、トイレから脱出した時だ。トイレにいた時はまだ使えていたから、考えられる原因はそれしかない。なんてこったい。

 さて、どうしたものか。音声を直接拾えば良いんだろうけど、この身体で書店に入るわけにもいかないしな。透明になれれば……あんじゃん。いつも使ってんじゃん。隠密(ステルス)モードで遼一たちの近くにいけば良いだけじゃん。なんでこんな簡単なことを忘れてたんだろ。僕は隠密モードに切り替えると遼一たちのいる書店の中に入っていった。



 遼一と桃香がいる場所は入口のすぐ近くで、二人の会話はすぐに拾うことができた。


「あー、ビックリした。何もないところをじっと見てるから、そこに何かいるのかと思ったよ」


「こんなところになんでネコがいるんだろうと思ってさ」


 ん、トイレに行く前にも会ってるだろ。何を今更……あ、さっき会ったのは先生の方だっけ。で、この遼一は桃香と一緒にいるから師匠というわけか。ややこしいなー。


「ねー、ネコさんも買物するのかな」


「本は読まないんじゃないかな」


「あ、そうだよね。ネコさんに本は読めないか」


 いや、そこじゃないでしょ。本じゃなくても買物はしないから。


「そのネコさんは今どこにいるの」


「それがさ、ちょっと目を離したら消えてたんだよね」


「遼一くん、ネコさんは本当にそこにいたの」


「一瞬だから、そんなに遠くにはいけないと思うんだけどな」


 桃香は真剣なまなざしで師匠を見る。そして、『心霊』や『超常現象』の文字が入った書籍を桃香は抱きかかえていた。

 あ、この子なんか誤解してるわ。そして、僕はその誤解を深めてしまったらしい。

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