毛
うおー、まずいよ。非常にまずいよ。早くしないと入浴タイムが終わっちゃうよ。どうしよう。まずはここから出ないといけないのに窓にはカギがかかってるよ。あー、どうすりゃ良いんだよ。この身体のままじゃカギは開けられないよ。どうする、換装するか。いや、早まるな。誰かに元の姿を見られたらシャレにならん。あ、隠密モードのままなら……。いやいやいや、ダメだよ。換装時に隠密モードが切れないなんて保障はないし、この状態で換装したら全裸だよ。ぬあー、絶望だー。……あ、あっちの扉は開いてる。いよーしっ、でかした遼一。僕のために開けておいてくれたんだな。サービス精神が旺盛な奴らだな。
で、こっからどうすりゃ良いんだよ。状況はなにも変わってねーよ。さらに家の中に入っただけじゃねーか。
くそー、考えるんだ。いや、考えてる時間はない。
とりあえず下に行こう。どっかから出られるかもしれないからね。
……ってー階段こわっ。学校の階段(オカルトじゃないよ)はちょうど良い手すりがあったから良かったけど、あれがないと下りるの怖いな。なんか角度が急だし。
と、とりあえず一段だ。躊躇してる時間はない。
い、いくぞー……。
ぬぉおー、と、止まってぇーえー。
……し、死ぬかと思った。心臓のばくばくが止まんねー。ま、まあ、時間は大幅に短縮できたか。
「あれ、今なんか落ちてきた」
やばっ、遼子だ。あそこにちょうど閉まっていく扉が。
僕は徐々に狭くなっていく隙間に飛び込んだ。
ふー、危なかった……あ、隠密モードのままだから、そんなに慌てる必要はなかったか。
僕が荒くなった息を整えていると、なにかが僕の体を優しく覆う。
あー、なんだろう。なんか良い匂いがするぞ。
「師匠、パンツ落としてるよ」
「お、マジだ」
僕の体はほんの少しだけ軽くなり、どこか懐かしい匂いのする衣類で塞がれていた僕の視界が明らかになる……って遼一のパンツかい。なんだよ、良い匂いって。寒気がするわ。
ところで、ここはどこだ。遼一たちがいて、僕の頭上には遼一の下着が落ちてきた。つまり……ってことはだ。
聖地だ。僕は杉山家の聖地に迷い込んでいたらしい。ど、どど、どうしよう。こ、これは不測の事態である。
「おっさきー」
「おま、ちゃんと体を洗ってから入れよな」
「えー、狭いじゃないっすか」
がらがらとなにかが転がるような音がすると、遼一の声が反響して聞こえるようになる。
「ふざけんな。後から入る人のことも考えろ」
僕の近くにいた遼一は声が響く方に向かっていった。
僕は必死に背伸びをして、なんとか後ろ足を下につける。しかし、湯船が前後に揺れているせいで僕の体は不安定だ。
「お前さ、言ったじゃん。それじゃ、湯船が汚れちゃうよ」
「大丈夫だって。下はちゃんと洗ったから」
すまん、僕はどこも洗ってないや。勢いで入っちゃった。
「昨日も師匠が先だったじゃん」
「良ーい湯だな」
ふふふん。
「ちゃんと聞けよ」
「良ーい湯だな」
ふふふん。
「もういいわ」
しかし、湯船に浸かることがこんなに気持ち良いことだなんて知らなかった。ミストだとあっという間に終わるけど、それはそれで寂しいものかもしれない。湯船を使えば、こんな風にコミュニケーションをとりながら入浴することも可能なんだな。
「代わってくれ」
「お、早いね。もっとゆっくり洗ってて良かったのに」
「ちょっとでもキレイな湯船に浸かりたいからね」
「人を汚物みたいに言うなよ」
「ほれ、さっさと出ろ」
先生は浴槽から師匠を追い出し、勢い良く湯船の中に腰を落とす。
すると、湯船に大きな波が生まれ、それは僕の体をのみ込もうとする。
どぅあー、あぶ……なかったー。もう少しで溺れるところだったぜ……ったく、もっと静かに入らんかい。
「ふぅー、やっぱ、ちょっと温くなってるね。ん、なんだ」
先生は湯船の中を手ですくう。
「なんか動物の毛みたいの浮いてね」
「え、うそー」
「だから言ったじゃん。師匠の体に付いてたんだよ」
「うっそだー、そんなの付いてなかったし」
すまん、それは僕の体毛だ。




