スギゴロウ
このぐらい離れれば大丈夫だろう。いやー、焦った。一時的に隠密モードに切り替えておくか。昼間ずっと使ってたからな。あんまり長くは使えない。
「あー……どっかいっちゃった」
遼子が窓際にやって来てこちらをながめる。
「んー、どうした。ふーちゃん、なんかいたのー」
「あのねー、にゃあにゃあがここにいたの」
「おっ、ネコか。もしかしたらあいつかな」
「あいつって何ー」
「んーとね、今日ね、新入りのにゃあにゃあが来たんだよー」
「しんいりってー」
「それはね、新しいお友達っていうことよ」
「じゃあ、またきてくれるー」
「どうだろうねー、美味しそうに牛乳を飲んでたんだけどね」
奥から遼一の声が聞こえてくる。
「もしかしてネコに牛乳あげちゃったのー」
「え、あげちゃまずかったかしら」
「ネコはね、牛乳飲むと腹を壊しちゃう奴もいるんだよ。だから、あんまり牛乳はあげない方が良いよー」
な、なんだって……。
「あらら、そうとは知らずにたくさんあげちゃったわ。テレビでそういうのを見たから、てっきりネコって牛乳が好物なんだと思ってたわ」
「まあ、普通に売られてる牛乳って、人が飲みやすいように加工されてるから動物には合わないんじゃない」
……知らなかった。それで僕もお腹を壊しちゃったのか。い、意外と物知りじゃねーか、遼一。ちょっと勉強になったぜ。
「スギゴロウおじさんは物知りね。ね、ふーちゃん」
スギゴロウって誰だ。聞いたことはあるんだけど……。
「うん、すぎごろうおじさんすごーい」
遼一が食器をどこかに持っていく。そして、手ぶらになってこちらに向かってくる。
遼一は文華を自分の顔の辺りまで持ち上げ、文華の頭をなで回し始めた。
「スギゴロウおじさんすごいでしょー」
スギゴロウってお前か、遼一。
「きゃー、すぎごろうおじさんきもーい」
遼一の手が止まる。
「え、ふみちゃん……今なんて」
「すぎごろうおじさんきもーい」
「ふ、ふみちゃん。ど、どこでそんな言葉を知ったのかな」
「みくちゃんがおしえてくれたのー」
「美矩か……。今日は厳しくしないといけないみたいだな」
遼一と文華の様子を見ていた遼子が徐に立ち上がる。
遼子がどこかに向かっていく。急にどうしたんだろう。
あれはなんだ。何かの機械を操作しているな。
白い物体を耳に当てて何かを言っている。……あ、あれは電話か。へー、昔はああやって耳に機械を当てて話してたんだ。
手前の二人がうるさくて遼子が何を話しているのか分からないな。あ、話が終わってしまったみたいだ。……一体何を話してたんだ。
「じゃ、上に行ってるわ」
「ご苦労様。美矩ちゃんのお母さんも喜んでたよ」
「えー、すぎごろうおじさんもういっちゃうのー」
「ふみちゃん……『きもーい』っていうのはね、お別れの言葉なんだ。だから、スギゴロウおじさんともっと一緒にいたい時は言っちゃダメだよ」
「ママぁー、そうなのー」
「……うん、まあ、間違ってはいないかな」
「じゃあ、もういわなーい」
遼一はひざをついて文華を抱き寄せ、また文華の頭をなで回す。
「ふみちゃんは良い子ですねー」
「きゃー」
な、なんて微笑ましい一家なんだ。見てるこっちが恥ずかしいわ。ところで、スギゴロウおじさんってなんだ。よく使ってるみたいだし、この時代の有名なキャラクターなんかな。
遼一が部屋を出て行くと、人が階段を上っていく音が聞こえてくる。自分の部屋に戻ったか。僕もいつものところに行くか。
あ、隠密モードはもう切っておこう。いざって時にバッテリーが切れてたら困るからな。
遼一たちが何か話し合ってるな。揉めてる感じではない。よし、集音マイクで音を拾おう。
「――別に俺は構わんけど、どこにいれば良いんだ」
「クローゼットの中で良いだろ」
「えー、この中かよー」
「え、なんかまずいか」
「だってさー、さっき様子がおかしかったじゃん。クローゼットの中にいるとなんかあんじゃない」
「いや、そういうんじゃないから。昼からずっと隠れてたし、それで気がまいっちゃってたんだよ。それに……」
「それに」
「い、いや、なんでもない。母さんって結構アグレッシブだったんだな」
「へ、どういうことよ」
「別に分からなくて良いんだ。じゃ、師匠はクローゼットの中で決まりな」
「勝手に決めんなよ。……まあ、良いか。中でDSPやってるわ」
「おう、悪いな」
師匠がしばらくの間、クローゼットの中に隠れているようだ。先生は机の上を片付け始めている。一体何が始まるって言うんだい、お二人さん。
クイズ番組でタレントが回答する時に発するような音が聞こえてくる。お、これはなんの音だろう。
遼子の声が聞こえる……誰かと話してるな。ここからだと遠くて誰と話してるのかまでは分からない。
今度は誰かが階段を上がってくる音が聞こえてくる。……この感じは遼子ではないな。遼子が階段を上がる時はスリッパが床に当たる音がするんだ。床がきしむ音が遼一のものよりも軽い……これは女だな。
遼一の部屋の扉が丁寧に開けられていく。
遼一の部屋の向こうには女の子が立っている。
顔立ちははっきりしていて大人っぽいが、その身体は小柄でか細い。髪は黒く、後ろで束ねられている。遼一と同じぐらいの歳に見えるな。
もしかして、この子がミクか。
だとすると、遼一が勉強を教えるっていうのはこの子になるな。……んー、そんなに頭が悪そうには見えないんだけどな。
「遼一っ、来てやったぞ」
「おう、ま、中に入れ」
なんか気の強そうな子だな。遼一の雰囲気も学校のものと違う気がする。
遼一はベッドに腰掛け、女の子は遼一の机の前に座る。
「で、今日はなんだ」
「英語です」
「前も言ったけど、俺、そんなに英語得意じゃねーぞ」
「ううん、前に遼一が説明してくれたの、すごく分かりやすかった」
「おー、そうか。それなら良いんだけどさ。お前成績良いからさ。俺なんかが教えても意味あるんかね」
「そんなことないよ。前に遼一に注意されたのが本当にテストに出たことあるもん」
この子がミクっぽいな。でも、なんか違和感あんだよなー。こいつらの関係はなんなんだよ。それに、成績が良い子がなんで遼一に勉強を教わってるんだよ。
「あれはなー、俺がテストの時に思い出せなかった奴なんだよ」
「うん。だから参考になる」
「そういうことなら良いか。ま、俺の分まで頭良くなってくれよ」
「……頑張る」
「あ、お前の担任って岩城だっけ。岩城には俺に勉強教わってるなんて言うなよ。あいつ絶対、俺のことバカにするから」
「言わないよー。あいつ嫌いだもん」
「嫌な奴だよなー。俺のこと散々(さんざん)バカにしやがって――」
なんの話をしてるのか分からーん。……ん、待てよ。
あ、そういうことか。うん、それなら辻褄が合うぞ。あー、なるほどね。納得したわ。
ミクは遼一よりも年下だったんだ。でも、そんなに歳が離れてるようには見えないから一個下ってところかな。
まあなー、この年代の一年ってのは大きいからなー。それで妙な序列ができてるのか。
「ところでさ、文華になんか余計なこと教えなかった」
「んー、ふみちゃんにー。どうだったかなー」
ミクは問題集を解きながら遼一に返答している。
「『き』から始まる言葉だな」
「き(・)ー……なんか教えたかなー」
「『き』の後は『も』だな」
「んー、きも……あ」
「思い出したかな」
「いやー、何のことだかさっぱり分かりませんなー」
「目が泳いでるぞ」
「そ、そんなことないよー……あ、終わったよー」
「ほおー、どれどれ……うん、大丈夫だな。じゃ、次これな」
「えー、またー。さっきから単語の書き取りばっかしてるじゃん」
「バカヤロー。英語はな、単語を覚えてなんぼなんだよ」
「それにしても多くない」
「美矩……俺はな、お前のお母さんにお前のことを任されてるんだよ」
「えー、何それー、意味分かんなーい」
「だからな、俺にはお前の成績を上げる義務があるんだよ」
「バイト代もらってるもんね」
「ま、まあな。つまりな――」
「要するに怒ってるんでしょ」
「……え、違うよ」
「私がふみちゃんに『きもい』って教えたから」
「……認めるわけだな」
「あ……よーし、単語覚えるぞー」
「逃げたな……まあ良い。今日は単語をいっぱい覚えような」
「う、うん」
こいつら仲良いなー。遼一にそんなつもりはないんだろうけど、こういうのはどうなんでしょうね。この光景をモモカが見たら複雑な気持ちになるよなー。それに、ミクって子のことも少し気になる。これは僕の勘だけど、ミクって子は遼一のことが好きなんじゃないかな。少なくとも遼一に対して好意を持っているのは間違いない。




