14.April Valium-3
14.April.2027---15:17---Mathematic&PhysicCalculationDpartment's Luboratry in ResurchClub---
「先輩、“首狩り兎”って、知ってます?」
がさがさとポテチの袋の中をあさりながら、そう訊いた。日本で売っているポテチは、凄く薄い。びっくりするほど薄い。
手元の用紙の計算をちまちまと解き、それから箸を使ってポテチを口に運ぶ。多少ぎこちないが、頑張って練習したかいあって、薄く広がったポテチを取り落とすことはない。ついでにキーボードを叩いて、頼まれていたプログラムの動作確認の前に、エラーがないかのスキャンをさせる。
「知ってる知ってる、この学園の“本当にいるから怖い話”よね」
対面、椅子の背もたれを前にして座る先輩は、僕のポテチを横取りしながら、自慢話でもするように腕を組む。ぴんと伸ばした指を一本立てて、この学園に伝わる怪談のあらましを話し始めた。
「我らが学園ブリッカー・クライン大学園における、いわゆる七不思議の一つ、『|時計塔の黒兎《ClockTower'sBrackRabit》』。
昔、この学園にとある男子生徒がいた。彼は社交的な性格とはとても言えなかったけど、取り立てて暗いというわけでもなく、そこそこ普通に暮らしていた。けれど家族との関係はあまり良くなかったらしく、ある年の文化祭中に実の兄に縛られ、時計塔の最上階から突き落とされた。頭から下に叩き付けられた彼は勿論死んでしまい、兄は殺人の容疑で警察に引き渡された。しかし取り調べの最中、兄は拘置所にて首を斬られて死んでしまう。犯人は分からず、部屋の壁には血文字で『兄さんの馬鹿』と残されていた。
男子生徒は今でも時計塔にいて、来ない誰かをずっと待っている。その誰か以外の人が時計塔に入ると首を斬られてしまう。だから時計塔はずっと施錠されていて、誰も入れないようになっている……………………」
大筋はそんな感じだ。怪談話として新入生に聞かせる時には、もっとおどろおどろしく脚色するのだが。ある意味、この学園で知らない者はいないほどの、有名な怪談だけど、僕は軽く首を傾げる。
「先輩、その話、誰から聞きました?」
「へ? えーっと、ニクスさん、執務委員長さんからだよ。それがどうかしたかしら?」
「……………………いえ、何でも」
成る程、執務委員長さんならそうかも知れない。目の見えない彼は、いい意味でも悪い意味でも見境が無いので、それと知らずに件の彼に話しかけたに違いない。実際の記録は残っているし、調べれば直ぐに分かることだ。
「そうね、時計塔ね…………」
「肝試しにはまだ時期が早いですよ、止めてください」
おばけ嫌いなくせに。日本におけるゴースト、幽霊というのはわりと控え目で、ポルターガイストなんかに比べると、大分無害なのだが、日本人は幽霊を極端に怖がる。触られれないからとか突然現れるからとか、色々理由はあるみたいだけど、少なくとも緊急の害は無いと思う。
まあでも、日本のホラー映画には独特の間があって、しかも割りとどうしようもなかったり、肝心の霊を何とも出来なかったりする。その流れを汲む日本の幽霊は、きっと恐怖を煽るような現れ方をするのだろう、恐ろしい。だから日本人が怖がる理由は分かる。でも怖がりなのに怪談が好きというのは、どういう心理状況なのだろうか。本物を目の当たりにするのはいやで、話は聞きたい。所謂野次馬根性なのか、それども娯楽に飢えているのか。
「でもどうしたの? バル君がそういう話を振るなんて」
意外そうな口調で、先輩は僕のポテチに、何か赤いキャップの調味料を振りかける。瓶には『七味』と書かれているが、七つの味とは何のことだろう。ただ、確か『一味』は鷹の爪のことだったから、七種類の唐辛子のことだろうか。凄く辛そうである。
「いえ、大したことじゃないですよ」
「なになにー? 困りごと悩みごとならこのヤヤ先輩に相談してみなさいな。かっれいに解決してあげるわよ!」
あんたは話をこじらせるだけだろ、と叫びたい気持ちをなんとか抑える。今更言っても無駄なことだし、言ったところでどうにかなるものではない。
ポテチを口に入れて、予想していたよりも辛くはないので安心して、直後に突き抜けた舌にやけつくような痛みに、目を白黒させる。これは、胡椒と、なんだろう。良く分からないが風味はいい。風味はいいが舌が痺れる。なんだこれ。
『特選みかん水』を口に含んで、危機を脱してから、一つ息を吐く。対面、先輩はにこにことポテチを口に運ぶ。せっかくのポテチを、先輩に横取りされてしまった。
「昨日、時計塔の前を通ったら、何故か扉が開いていて、赤い瞳が2つこっちを睨んでたんですよ。気になって足を止めたら、『白い狼を知らないか』って訊かれたんです。何のことかはさっぱりなので、知らないって答えたら無言で消えちゃったんです。変だなと思って見てたら、書類を持った生徒会長さんが出てきて、委員棟に帰って行きました。それでちょっと考えてただけです」
「謎ね! これは事件ね!」
ほらこうなる。暇をもて余した先輩ほど厄介な者はいないんだ。
ヤヤ探偵は難しい顔で腕を組んで唸る。生徒会長さんが誰もいない時計塔に、用も無いのに行った筈がない。と、すれば、何の為に時計塔に行ったのか、そして白い狼とは何のことなのか。確かに謎だ。
だけれども、平和主義を自認するところの僕としては、そんな謎なんかより校内の騒がしさの方が気になった。大会が近いからだろう。3日後に備えて機材を運んでいる人達や、調整の為に走り回っている実行委員、美化委員の怒声が飛び交っている。
「どうして禀ちゃんは時計塔から出てきたのか、その謎はこの超カリスマ探偵ビューティーヤヤがまるっととべてすいてお見通しにしてみせるわっ!」
いつの間にか手にしていた探偵帽を被り、先輩は椅子の上でばっとポーズを取る。正直最近ツッコミ疲れているので、僕は無表情で手を振るにとどめる。
「はいはい、頑張って下さい」
「え、バル君も来るのよ?」
意外そうな顔をしないで欲しい。
「何でですか、僕はあくまでも気になっただけで、別に、謎を解き明かさなくても困らないんですけど」
余計なお世話もいいところだ。生徒会長さんだって探られたくないだろう。だがそういう一般常識は先輩には通じない。先輩は僕の腕を掴むと、出口に向けて猛然と歩き出す。
「私が行くんだからバル君も行くの! ほら、そのポテチ口に入れちゃいなさい、目指すは時計塔よ!」
「いや先輩にあげますよ」
『七味』まみれになってしまった所為で食べれない。つまり、先輩の姦計に嵌まってしまったわけだけど、悔やんでも無駄だから気にしない。タコ口をしてみせる先輩の口の中に、残りのポテチを流し込み、僕は背後の、煌々と点灯しているディスプレイを振り返る。プログラムのエラーチェックは、残りを4時間と表示していた。
---16:07---ClockTower---
時計塔は第2グラウンドの西、少し奥まった林の中にある。第1、第3校舎と寮からは、この時計塔が常に見えるようになっている。四角く頂点が尖った影が、ロンドン塔に外見が似ているのは、この学園の本校がイギリスにあるからだろう。
林の真ん中を通る道を歩いて行くと、白っぽい煉瓦造りの壁が見えてくる。林があるおかげか校舎の喧騒は届かず、とても静かだ。塔の重厚な扉には、一度鎖を巻いた形跡があり、しかし肝心の鎖は千切れて地面に落ちていた。
「……………………バル君、これを見て」
自称超カリスマ探偵は扉の横に屈み、扉の周りの石畳を指差した。先輩に習って気を付けながら近寄って見ると、石畳には埃は積もってはいなかったが、獣が引っ掻いたみたいな、細かい傷跡が幾つも出来ている。間隔が広すぎるが誰の爪跡だろう。
「ほら、こんなところに誰かの捨てた青いクリップがあるわよ」
先輩が拾い上げたのは、青く塗装さるたクリップだ。生徒会長が承認した書類には、必ずこの青いクリップが付けられている。それがここに落ちているということは、どういうことだろう。
時計塔の周りは静まりかえっている。喧騒どころか虫の声すら遠い。それはまるで、塔の中のモノを恐れているようでもあった。
「…………先輩、何か嫌な予感がします。ビビっていると言われるかもしれませんが、一度部室に…………」
「お邪魔しまーすっ!」
ばーんっ、と両手で勢い良く重い筈の扉を開けて、先輩は時計塔の中に踏み込んだ。僕の言葉なんて聞いちゃいない。清々しい程いつも通りに、先輩は少し足を進めて振り返った。
「バルくーん、先輩一人を先に進ませないでよー。お化けでも出たらどうするのよー」
お化けは知らないが、確実に幽霊は出るだろう。しかし確かに、先輩一人を先に行かせる訳にはいかない。先輩だし。仕方なく僕も時計塔の中に入る。
開け放された扉から差し込んだ午後の光が、頼りなく塔の内部を照らしている。四角い塔の内部には、壁に沿って階段が螺旋に這っている。最上階まで何段あるのだろうか、昇ることを考えると目眩がするが。手摺の無い階段は、昇る人の事を考えているとは言い難かった。
流石に大分埃っぽい。虫が舞うみたいに埃が飛んでいる。その向こう、奥の壁、入って直ぐに目に入るそこには、赤いスプレーで書かれた文字が威圧的に、来訪者を待ち受けていた。
『今直ぐ出ていけ』
「せ、先輩? 前の壁に「っきゃぁーーーーっ! バル君見て、血文字よっ!」
「あ、はい、そうですね」
誰かがはっきり怯えてくれると、寧ろ落ち着けるの法則。僕は、叫び声をあげて目を瞑ったまま走り出した先輩の、白服の襟を掴んで押さえつつ、ぐるりと辺りを見回す。よく見ると壁のあちこちに、呟くように字が残されている。ただ、何と書いてあるかは知らないが、そちらの字は白い。
「おばけなんていないおばけなんていないおばけなんていないおばけなんていないおばけなんていない」
ふと螺旋階段を辿って上を見上げると、一番上の踊り場に、誰か脚をぶらつかせて座っているのが見えた。黒いズボンに黒いブーツは、ぶらぶらと前後に揺れ、赤い瞳がじっとこちらを見下ろしていた。
「おばけなんていないおばけなんていないおばけなんていないおばけなんていないおばけなんていないおばけなんて」
「先輩、あれただのスプレーですから。落ち着いて下さい」
部室から持ってきた懐中電灯を点けて、階段を昇ることにする。置いていかれそうになった先輩は、階下でおろおろしていたが、追いかけてくる。一人でいるよりはいいと思ったのだろう。わりと一段が高い石段は、二人分の体重が乗っても、びくともしなかったので、大分安心した。
「待ってよー、バル君私を一人にしないでー」
階段を少し昇って直ぐの壁には、小さな白い文字が残されていた。マジックで書いたらしい文字は日本語で、流石に僕には読めない。ちらりと先輩を見ると、ひょっこり顔を出して文字を認め、顔をしかめた。
「『お客さんかな?』、だって。こんなところに誰が書いたんだろ。落書きはいけないのよ?」
「まあ、客と言えば客ですけど」
「あ、こっちにも書いてあるわ。『今日は兄さんの機嫌も良いから会いたければどうぞ。兄さんは一番上にいるよ』」
ちらりと上を見ると、相変わらず黒いブーツの底が、前後にぶらぶらと揺れている。確かに兎君は上にいるらしいが、この落書きを書いたのは誰なのだろう。日によっては、彼が上にいないかもしれないのに。それとも人が来たら、彼は所定の位置に戻るのだろうか。
考えながら階段を昇る。階段の壁の、丁度先輩の目の高さに書かれた白い文字は、階段と平行に伸びていた。
「『それにしても、会長さん以外のお客さんって久し振りだなー。お二人さんは何の用で来たのかな? 肝試し?』」
肝試しと言えば肝試しか、と頷きながら石段を昇る。後ろをついてくる先輩の声が、薄暗い塔の中に反響する。
「『あれ、だんまり。なんだろ、危ないことは駄目だからね。いざとなれば私が出張るよ!』、中々元気の良い子ね」
バル君足速い、と文句を言われたので、一度足を止める。先輩は壁の文字を読み上げながら、ゆっくりと昇ってきていた。
「『でも本当に珍しいなぁ、こんなとこ普通の人は来ないのに。やっぱり入り口の帰れコールが効いてるのかな。まあ会長さんには意味無かったけど』、ふむ、やっぱり凛ちゃんは来ていたのね。何しにかしら」
呟く先輩。だけど、妙な違和感を感じて、僕は軽く唸った。
おかしい、先輩が落書きと喋ってる。
「『えっと、凛ちゃんって会長さんのこと? 昨日も来てたよ。多分最近の戦場の報告だろうけど、いつの間に兄さんと知り合ったんだろ。いつも追い出されちゃうから私も知らないんだよね、気になるなー。お二人さん、何か知ってる事があったら教えて欲しいな』…………バル君~」
「先輩、先輩、もう読まなくて良いです。分かりましたから」
目を移した所に、まるで先回りしたようにある白い文字。それはとりもなおさず、時計塔にいるという、ジャパニーズ幽霊の仕業であるからにして、
「いやーーっ、おばけいやーーっ!!」
「先輩、お化けじゃないです。幽霊です。ジャッパニーズゴウストです」
「バル君何でちょっと喜んでるの!?」
残念ながら僕には日本語は分からないため、先輩が不意にどこかに目をやって、悲鳴をあげてる理由は分からない。どんな恐ろしい事が書いてあるのだろう。
「いーやーぁーあー、バル君、早く上まで行きましょう。っていうか行くわよ!」
「え、行くんですか? 無駄な度胸だけはあるんですね」
怖いもの嫌いな割には、イケイケなのは本当に何でだ。先輩は僕の側まで、壁を見ないように気を付けながら来ると、塔の上、光が差し込んでいる所を指差す。見上げると、上にいた黒いブーツの人は、姿が見えなくなっていた。実際嫌な予感はしていた。こんな時の先輩は、見境の無い行動を取るからだ。
先輩は僕を後ろから羽交い締めにすると、
「よいしょー」
「いやいやいやいや先輩ちょっと待っ」
階段の踊り場から、僕もろとも身を投げた。
長い浮遊感の後に、落上。上に向かって落ちていく。胃がひっくり返るような心持ちに、ひきつった声が漏れる。
先輩の能力は重力を操ることだけど、それは本校にいる、重力粒子操作能力者とは根本からして違う。重力、いや万有引力というのは、あくまでも加速度で、先輩はそれのベクトルを操るのである。つまり、厳密に言うと先輩の能力は、『重力加速度の方向を自在に操る』能力、ということになる。大きさを変えることは、出来ないのだ。
そのため、塔を半分まで落ちたところで、重力加速度の方向が真下に戻った。一番上までそのままのスピードで落ちたら、まあ潰れてしまうだろう。途中で加速度を逆にすれば、一番上に着く頃には、速度は随分落ちているだろうがしかし、同行者のことは一切考慮していなかった。
時計塔の内部を真っ直ぐに落ちて、僕が色々と思う間に、一番上の踊り場まで着いていた。と言っても、着地は悲惨なものだったのだけど。
二人折り重なるようにして、床に叩き付けられた。先輩が僕の上に乗っているが、先輩だからどきどき出来ないし、そもそも先輩は横になってるので僕の腹がぐえ。
「……………………先輩、退いて下さい」
「う、ーん、着地に失敗したわ。以外と重いのね、バル君。なんとなくひょろひょろのイメージあるけど」
一応、一般兵として積極的に戦闘に参加している。特別講義も受けてるし、結構筋肉は付いてる筈なのだが、細く見られるのは何故だろう。
「でもダーリンに比べたら全然よ! もっと肉を付けなさい!」
「いいから退いて下さいってば」
先輩のダーリンと比べたら、大概の人は細いことになる。
上に乗っていた先輩を転がして、立ち上がる。ちらりと目に入った所に、白字で『|足元気を付けて《WatchYourStep》!』と書かれていたので足元を見ると、手摺も無い踊り場のぎりぎりで、危険だったので一歩下がった。
「ふっ、おばけなんて怖くないわ。私は藤城ヤヤよ、って、きぃやぁああああぁ!!」
元気に先輩が落ちていったが、どうせ死にはしないので放っておく。ズボンの埃を払い、顔を上げると、息を軽く吐いた。
「……………………貴方が、“|首狩り兎《Merrygoround》”ですか?」
正面、黒服の男が無表情でこちらを見返す。袖の無い黒いシャツに長いズボン、アサルトブーツ。赤い首輪から繋がるドッグタグと、床に擦りそうなほど長い黒のマフラー、変な耳と顔の付いたニット帽で目を隠している。男は文字盤へ通じる通用坑に腰をかけて、無言でこちらを見ていた。
「……………………確かに、俺は“首狩り兎”だが」
予想に反して、声はまだ青年然としたものだった。彼が死んだと言うのが高等部の時らしいから、それから年は取っていないのだろう。幽霊が年を取るなんて、あまり聞かない。
高校生にしては、低い声だけども。
「何の用だ?」
「え、えっと」
何の用だったんだろう。助けを求めて後ろを振り返るが、先輩はまだ上がって来ていない。そもそも僕はついてきただけだから、先輩が何を意図してここに来たのか知らない。
兎は軽く首を傾げるようにして、ブーツの踵で壁を蹴る。ゴン、と鈍い音が、石の壁から響いた。
「用も無いのに来たのか? 変な奴だな」
変な奴認定されてしまった、実に心外である。変な奴とは、先輩とか、イェーガーとかの事を言うのだ。
しかし、僕は首を傾げた。目の前の男は、噂によれば第4期生らしい。つまり、今から16年ほど前の話になる。死亡時、5、6年生だったことを考えると、生きていれば37歳ほどの計算になる。がしかし目の前の彼は、そんなに年を取っているようにも見えないし、かと言い17歳にも見えない。
今僕の目の前にいる男は、果たして本当に、時計塔にいると言う黒兎なのだろうか。もしかしたら、全く関係の無い赤の他人なのではないか。
その可能性は大いにある。そもそも『時計塔の黒兎』という話は、色々と話を曲解してあって、わざと怪談らしくしてあるのだ。怪談というのは、往々にしてそういうものだろうが、それでも誰かが意図的に歪めたとしか思えない。
「バル君ー、私を一人に、しーなーいーでーっ!」
先輩の間抜けな声が聞こえる。一度感じた違和感は論証されるまで、つきまとい続ける。目眩に似たものを感じて思わず視線を落とすと、そこには白字で『|一歩前へ出て《TakeAnotherStepForword》』と書かれていた。
「…………なぁ、お前」
瞬間的に嫌な予感に突き動かされて、一歩前に出る。同時に、ぐらりと視界が歪んで目の前の景色が捻れる。
「お前、白い狼を知らないか?」
視界が暗転した。
---16:41---
気が付くと、僕は地面に転がされていた。どうやら時計塔の外らしい、地面のまだ冷たい土を背中に感じる。
「白い、狼……………………?」
一体誰の事を指して言っているのだろう。狼なら何匹か心当たりがあるが、残念ながら白いのはいない。そもそも、その白い狼というのは実在する人物なのか、それすら分からない。
寝転がったまま唸っていると、視界の端にひょっこりと先輩が顔を出した。
「ヴぁるぐ~ん」
「顔、お化けみたいですよ」
「せっかく上に登ったのにバル君いないんだもん、どこ行ったのかと思ったじゃない」
身体を起こして頭を振る。搭の入り口の方に視線を向けると、鉄の扉は来訪者を拒む様に閉じられていた。
「…………先輩、最上階に、誰かいましたか?」
「え、誰もいなかったけど? そういえば“兄さん”ってのがいる筈だったんだっけ。でも誰もいなかったよ、本当に。嘘吐いてないよ」
それは分かる。先輩は出鱈目は言うけど嘘は吐かない人だ。しかしそうなると、僕の見たものは何だったのだろうか。
---18:36---SecondDiningRoom, at Area/K9---
今日1日ずっと、白い狼とはなんのことかと頭を悩ませ続けたが、結局解らなかった。考えても仕方のないこと、だったのかもしれない。
図書館にある記録をひっくり返してみたが、10数年前の事件のあった頃の記録だけ、ごっそりと抜けていた。学園の記録書類は、一般生徒持ち出し禁止なのでつまり、委員の誰かが借りているのだろう。
となると、当時の事を知っている人に聞くのが、一番手っ取り早いか。しかし当時の学生となると学校長が適任だが、あの先生が簡単に口を滑らせるとは思えない。あの人はぼんやりしているようでいて、意外としっかり者なのだ。
まあそれはとにかく、僕は夕飯を軽く食べに来ていた。今日はこの後は大した用は無いので、自室の掃除とか洗濯でもして、トレーニングして寝よう。今日は…………第2週水曜日だからメニューはハード。プレスアップとプルアップと、シットアップを3セットずつ。それから8kmのヒル・ランニング。ロープクライムと、完全装備でのスクワットを3セットずつ。その後、時間があればスプリント5本と、ストレッチをして終わりにして、帰って晩飯を食べて寝よう。
と言うわけで、砂糖無しの揚げパンとフルーツジュース、ビターチョコレートを手に、一度部屋に帰ろうと、食堂を後にしようとしたのだが、
「バリアムさんはちょっと栄養バランスを考えてご飯を食べるべきだと思います。炭水化物だけ摂取していて体を作れると思ってるんですかぁ?」
「…………こんばんは、ディジーさん」
目の前に立って、こちらに指を突きつけてくる彼女を、流石に無視出来なくて、返事をしてから思わず頭を抱えかけた。厄介な人に捕まってしまった。
10年生のディジタス・バンデージは、この学園生徒の体調管理を一手に引き受ける、保健委員長だ。保健委員というのは、大きな怪我や病気は医学部が担当するが、それ以外の小さな傷や体調管理、衛生兵としても仕事をしている。ちなみに彼女自身は保健委員長のくせに、授業にも出ない、指定された委員服の上着を羽織らない、夜更かしに薬漬け、等々と不良街道まっしぐらである。
「良いですかぁ? 兵士たるもの、一に炭水化物、二に野菜と果物、最後に乳製品やナッツ類です。あなたの場合炭水化物やタンパク質はそこそこに取れていますが、ビタミンが不足していますねぇ。大丈夫ですかぁ? 口の中ビロビロとかしてませんかぁ? よって、果物をもっと食べるべきです。更に言えば少しカロリーが足りてません。昨日なんてたったの二千しか取ってないじゃないですかぁ。一回のトレーニングで筋肉からグリコーゲンがどれくらい失われるか知っていますかぁ? ナッツ類や魚もちゃんと食べないと駄目ですよぉ?」
ディジーは手にしたタブレットを弄りながら、間延びした声でそう言う。僕は話なんて聞かずに、毎月の始めに身体測定があるが、その数値がまずかったのだろうか、と頭を悩ませる。まあこの人は、他人の生活に関して、ことあるごとにアドバイスするのが趣味だから、あまり気にしなくていいとは思うけど。
「じゃあ、今日の晩には日本定食Aでも、頼むことにしますよ」
「カ~ロ~リ~」
何やら恨めしげな声を後ろに、そそくさとその場を後にする。あまり長々と相手したくない。
食堂を出て直ぐ前の掲示板には、しあさっての大会のエントリー表と、優勝予想のオッズが掲示されていた。一番優勝に近い位置にいるのは、『男版ヤヤ』と一部で言われている吉良孝徳だ。5年戦闘系自由型の感応系能力者で、ここ数年の大会では負け無しの、“校内最強”である。次点は生徒会長、宮本凛。その後にイェーガー・フライハイト、何青嵐、ユーリー・ストリュコーザ、等と続く。高学年が多いのは仕方がない。
まあ大会なんて、参加者自体少ないのだけど、実際中継を見ていると、毎年手に汗握る闘いが繰り広げられるので、校内行事の中では一番、他人事でいられて楽しいイベントだ。なので、僕もそれなりに楽しみである。先輩の悪戯を阻止しなきゃいけないのだけど。
「お前は何故それを俺に言う! 喧嘩を売ってるのか!」
食べ歩きは良くないので、パンとジュースを手に階段を登っていると、上階から一人の男子生徒が、怒声と共に落ちてきた。弾き飛ばされたのか、綺麗な放物線をの軌跡だ。だらしなく前を開けた委員服は、袖や裾がぼろぼろで、また生徒は小さな破砕音を伴いつつ、軽やかに着地してみせたため、一瞬布切れが落ちてきたのかと思った。
「はっ、誰がだ。貴様が先にいちゃもん付けてきたんだろう、鼠。威勢が良いのは別に構わんが、自分の主人を忘れてるんじゃないだろうな」
上から見下ろすような高慢な口調。低く唸るような落ち着いた喋り方は、まさしくイェーガーのものだった。階下の男子生徒を無感情に見下ろして、灰色の瞳を細めた。男子生徒は不機嫌そうな顔の眉を更に寄せて、鋭く睨む。
「主人だと? お前が俺の主人? 笑わせるなよ西の犬。お前もリヒャルトの奴と同じだ、何奴も此奴も俺の周りを徘徊すんじゃ無ぇよ煩ぇ!」
中国人の英語は早口でいけない。しかも相当頭にきているのか、端々に混ざる単語が理解できない。男子生徒は憎々しげに息を吐き、低く叫ぶ。良く見ると、右の腕には黄色の腕章を付けていた。
「俺がいつ貴様の周りを彷徨いたかは知らんが、やはり貴様には少し調教が必要らしい。蛇でも教えれば技を覚えるというが、さて鼠はどうだろうか」
「やって見晒せ犬畜生。本国らしく捌いて食らってやる!」
一歩踏み出した男子生徒の右袖からは、殆ど透明な刃が覗いていた。それを無造作に背後に向かって振ると、金属同士の噛み合う耳障りな音が響いたが、そこには大振りのナイフを構えた、イェーガーの姿があった。
イェーガー・フライハイトという、ドイツ生まれの気難しい友人について、僕が知っている事はそんなに多くない。どうして人狼になったのかとか、以前何をしていたのかとか、僕は聞いたことがない。
ただ、あいつが昔に相当の事をしていたのだと、想像が付く程度だ。イェーガーは5年生の夏に転入してきた。その時の騒動は今でも覚えている。ドイツ警察が、学園への編入を阻止しようとしたのだ。理由は未だに分からない、が学園長直々の引き抜きだということで、結局は警察も口をつぐんだのだ。
噂を聞くに、実はイギリスの諜報員だったとか、若くして傭兵団の一員だったとか、巷を騒がせた殺人鬼だったとか、暗殺者の一族だとかそんな話ばかりだ。的を射たようで要領を得ない噂だが、それら物騒な話には理由がある。瞬間移動の能力者かつ後天性人狼という、まれな境遇にあるイェーガーは、感応系の癖に能力連発の、トリッキーな戦い方をするのだが、背後から首を掻き斬るなんてのは、一般人のやり方ではないだろう。強ち噂全部が嘘というわけではないらしい。
「Fahr'zur Holle」
くたばれと噛み付くように吐いて、灰色狼は、構えたナイフを男子生徒に叩き付ける。片腕だけの制御の筈なのに、その動きは正確で速い。尽く急所を狙って放たれる斬撃は、残像すら見えるようだった。
対して男子生徒は銀色の輝きを散らしながら、少し遅い動きでナイフを払う。明らかに、イェーガーに追い付くものではないが、何故かイェーガーのナイフは彼に届かない。イェーガーが得物を振る度に、軽い破砕音が響いた。
速さではイェーガーに軍配が挙がるが、男子生徒はアクロバティックな動きで、彼のナイフをいなす。背が高い割には体の使い方の分かった動きで、空間を立体的に跳び回る。イェーガーが半身抉る気で、位相を合わせて跳んでしてくるから、それを避ける為だろう。
等と壁際に立ってパンをかじりながら、観戦する。階段なんかで喧嘩するなよと、その場にいた誰もが思っただろうが、口を出せる者はおらず、皆遠回りしたり無責任に囃し立てたりしている。なにせ、風紀委員の中でも、1、2を争う危険人物同士の喧嘩である。男子生徒の方は良く知らないが、確か去年の大会で4位になっていた。
風紀委員が2人、やって来て交通整理を始めた。ポンプ式水鉄砲を帯びた現役日本軍君が、ライターと煙草を手にしているのが目に入った。それからもう1人の風紀委員が周囲の人に、危ないから階段から15m離れろと言っていた。日本軍君が煙草10本に火を点けようとしている。僕は直ぐにその場を離れた。
けたたましい火災ベルの音が響き、スプリンクラーが作動する。喧嘩中の二人がびしょ濡れになったのを見計らい、日本軍君は同じくびしょ濡れのまま、指を伸ばして二人を指し、綺麗な発音で言った。
「電撃的急襲」
バヅン、いや、音的にはズガンだっただろうか。雷が落ちたかのようなそんな音がして、高電圧をかけられた空気が、オゾンの臭いを運んできた。
電気ショックを食らった、イェーガーと男子生徒は、服の端から煙を上げながらひっくり返っている。逃げ遅れたのか近くにいた生徒何人かも、見事に気絶して死屍累々。風紀委員にあるまじき風紀の乱れた鎮圧方法に、観客達が息を飲んでぐぅと言った時、
異常電磁波を感知したセンサーが、エリアK9の電気を落として、地下の廊下は暗闇に閉ざされた。
---23:45---ResurchClub's Dormitory---
やることを一通り終えて、疲れた体を引きずって階段を登る。最上階だろうが、エレベーターなんて軟弱なものは使わない。今日はヒル・ランニングをしていたら、武道部の“洗濯機”に因縁を付けられ、結局全力疾走してしまった。足腰に大分キテるが、なんとか最上階まで上がった。
「だから、歩いてる時にくっついてくるなって!」
聞き覚えのある声に足を止める。最上階には屋上への階段が別にあるが、そこから降りて来た二人が、何やら言い合いをしつつこちらへ歩いてきていた。
「シーナがぁ、速く歩くのがぁ、いけないんだと思いまぁす」
茶髪に綺麗な碧眼の男子生徒はそう応えて、足早に歩を進めていた谷口の肩を掴み、引き戻した。体格に差がある為簡単に引き戻された谷口は、肩の手を割りと大袈裟に払い退け、下から睨み付けて低く唸る。
「オレはお前と並んで歩きたくないんだよ。分かんねぇかな、サン」
「え、何で?」
心底分からない、という顔をするサンという名の生徒に、谷口は指を一本立てて突き付ける。
「まず、オレの背の低さが露呈する。あとお前の肩がぶつかって来て超ウザい。それから…………」
「それから?」
谷口は言いかけて、しばらく口をパクパクしていた。何と言うべきか悩んだ結果、小さな声で吐き捨てるように言った。
「…………アホが移る」
「そっかぁ、俺はてっきり、腰に手回したり耳に息かけたり項眺めたりしてるのが嫌がられたのかと思ったぜ」
「…………っち」
言いながらまた肩に手をかけてきたサンに、盛大に舌打ちをしてみせて、また手を払う。日本人特有の婉曲表現は、サンには伝わらなかったらしい。
「それを止めろって言ってんの」
「え、そんなこと言ってたのか? はっきり言ってくんないと分からないぞー」
サンは谷口にがばっと抱きついた。頭の上に顎をのせて腕を軽く首に回す。そのままぐるぐる回りだす。
大変仲が宜しいようで。
「くっつくな! くそ、調子にのるなよっ!」
そうだ、谷口の顔を見たら思い出した。そういえばアプリのテストをしていたんだった。忘れてたけど、流石にもう終わっている筈だ。しかし今日はもう疲れてしまったし、明日でいいか。
「まだ仕事あるんだからこんなとこで遊んでる場合じゃねぇの! お前も帰れっつの!」
「いーじゃんいーじゃん、休憩休憩ー」
二人の元気な声を後ろに、僕は扉を閉じた。結局今日は噂の解明は出来なかったわけで、多分明日になれば、先輩は別の事に夢中になるだろうし、僕も忘れてしまうのだろう。所詮その程度の噂だと、僕は思っていた。