4月12日 レイン2
2027年4月12日、午後6時30、一般寮102
喧しい目覚まし時計の音で目が覚めた。頭の上で傍若無人に鳴り響く輩を右手で探しつつ、うっすらと目を開ける。蛍光灯の豆電球がぼんやりと照らす部屋の中は地下特有の静けさを伴っている。換気孔から空気が流れていくのを肌で感じ、そこで漸く目覚まし時計を探り当てた。
「……………う」
「ん、お早う」
寝起きの良いテトは既に起きていた。鈴の鳴るような声にざらりと逆撫でされた神経が強烈な不快感と安心感をもたらし、いつも通りの夜が始まった。無論、テトがあのネックレスをつけていれば気分も爽快だろうが、それだとオレが不安なので部屋では外してもらっている。
そう、オレは不安だった。テトと会ってからこの方、まあ大体十年ほどをテトの雑音と共に生きてきた。まだ能力者の存在が世間に完全には受け入れられてるとは言い難い昨今、他人への迷惑を考えればそれも当然なのだが。ずっとテトの雑音を聞いてきたオレに取っては、寧ろ何も聞こえていない方が異常で、だからこそ今は“枷”を外してもらってる。
盛大に欠伸をしてベッドから下りる。とりあえず顔を洗いに行こうと、ふらふらと洗面所に向かった。
学生寮とは言っても、テトのことを考慮して、地下三階の部屋だ。上階と部屋の構造はあまり変わらないらしい。シャワー室トイレ付きの一部屋、二段ベッドが一つと学習机とクローゼットが二つついている。地下室は窓がないため、上階より天井と部屋が広めに作られているとのこと。お隣に誰が入っているのかは知らない。ただ、一般寮は空きが多いので、もしかしたらこの階にはオレ達以外に誰もいないかも知れない。
オレもテトも身支度し終え、委員用の黒い学ランに袖を通す。この学園では九年生迄は一般生徒は白、委員生徒は黒の上衣と学年色のネクタイかスカーフを着ける事が義務付けられている。オレ達の学年色はよりによって橙色だが、死ぬほど似合わないということも無いので我慢しよう。
スカーフを首にゆったりとネクタイ結びしてから時計を確認すると、七時だった。勿論午後だ。白地に黒で“執務委員”の文字が書かれた腕章を左腕に着ける。それからテトの方を振り返ると、似たような格好のテトがオレを見上げていた。
テトは似合ってるよと言ってくれたけど、サイズを大きく作った制服はオレにもテトにもぶかぶかだ。それは仕方が無いこととしても、折角テトがスカートみたいなズボン、ようするにキュロットなのに結局ハイソックスで脚が殆んど見えないというのに一抹の不満を感じなくはない。毎日見ているとは言え。
「さて、ご飯食べに行くか」
「…………」
つん、と服を引っ張られ振り向くと、テトが手のひらに乗せた鈴とネックレスを見せてくる。着けて欲しいのだろう。赤い紐で括った鈴をテトの左手首と腰のベルトに着けてやる。それからネックレスを、後ろに回ってホックを閉じた。途端に頭を覆っていた霧が晴れる。ざらりとしたテトの雑音が聞こえなくなり、視界が澄む代わりに絶大な不安に襲われた。
テトに鈴を着けてもらうことにした理由がそれだった。常に傍にいることが前提のオレ達でも、触れてもいなくて視界にも映らず雑音も聞こえなければ、そんなの傍にいないのと同じだ。だからテトが近くにいるという証に鈴を着けることにした。
嬉しそうに跳ねて小さな鈴が鳴るのを確かめ、テトは何度か咳払いした上でオレを見る。赤黒い瞳を輝かせて、心の底から嬉しそうに笑った。
「おはよう、レイン」
「…………あぁ、お早う、テト」
テトの声がいつも、いつでも、いくらでも聞ける。それが嬉しい。テトもオレと普通に会話出来るということが嬉しいようだ。ぱっと顔を輝かせ、オレの手を取った。
部屋を出て鍵を閉める。階段をえっちらおっちら上り、一般寮の玄関横の管理人さんに鍵を預けて外に出る。同じく夜勤の生徒達がぼちぼちと歩いて行く列に交ざって校舎に向かう。
少し距離があるが森の中を突っ切る道を歩いていくと、左手に芸術部棟と委員棟が見えてくる。中等部校舎、第一校舎まではそのまま直進して左手だ。右手には馬鹿みたいに広い第二グラウンドがある。外周が軽く一キロを超えるというから恐ろしい。しかし中等部、高等部校舎の下にはそれより広い体育館があるので、一層冗談みたいだ。
さて、中等部校舎の道に面したカフェテリア『クック・デリ』はテイクアウトのメニューが豊富だ。値段は四つある内の食堂では下から二番、朝食メニューがテイクアウトしかないのは残念だが、おにぎりまで置いてある日系店舗らしい食堂である。
家の朝はパンなので、朝食バスケットを二つ購入。学生証をスキャナーにかざし、バスケットを受けとる。最近ではタッチ式カードも電子マネーも一般化されているが、基本的に現金が使えない学校なんてものはここくらいだろう。おかげでカツアゲや盗難は殆んど無いらしいが、それ以外の風紀は乱れまくっていると思う。頑張れ風紀委員。朝食バスケットはバターロールとクロワッサンが二個ずつ、ジャムとバターと茹で卵と牛乳がついた豪華なものだ。欲を言うなら野菜が欲しいが、それは温野菜のパックでも買って良しとしよう。
木製のバスケットを手に座る場所を探す。新入生はこういう時も困る。とりあえず夕飯を食べている人の邪魔にならないように外の広場の端に空いてたベンチに座った。隣に腰かけたテトにバスケットを一つ渡し、自分も膝の上にバスケットを置いた。
「よう、お二人さん。ご一緒してもよろしいかな?」
両手を合わせていただきますをした直後、声をかけられた。顔を上げるとオレ達と同じく黒い委員服のヴェルディが立っていた。手にはサンドイッチと牛乳、こいつもいつも朝食は玉子サンドとハムサンドだ。
無言でテトの方に寄って場所を空けてやる。ヴェルディはにやにやと笑いつつ、テトとオレを交互に見ながらサンドイッチを口に運ぶ。この一つ歳上の風紀委員は入学式からずっとオレ達にちょっかいをかけてきている。悪気があるわけじゃあないんだろうが、少し邪魔くさい。
「なぁなぁ、キミ達いつも一緒にいるけど、付き合ってんの?」
「ぶっ」
噎せた。気管支に入りそうになったパンの欠片を必死で戻す。いつもは心配してくれるテトは付き合うの意味が分からないのか首を傾げてヴェルディの顔とオレの顔を交互に見ている。良いんだ、テトは知らなくて。
「おや、テトちゃん、知らないのかな。付き合うには一緒にいるの意味が転じて恋人同士の意味がぁっ」
余計なこと言うな、と無言でヴェルディの横っ面を叩いた。テトはしばらくわたわたと慌てていたが、結局気にしないことにしたのかクロワッサンを外側から剥がして食べる作業に戻る。テトは殆んどのパンを外側から剥がして食べるのだが、その所為で食べ終わるのが遅い。
バター(固形)を口に放り込んでからパンを詰め込む。隣でヴェルディが頬を押さえたまま妙な顔をしているが気にしない。テトは剥がした帯状のパンをびろびろと口の中に送り込んでいる。
「なんかさぁ、キミ達は変だよ」
「知ってる」
「兄妹のようにも見えるし恋人のように見えるし家族のようにも見えるし夫婦のようにも見えるし」
「全部一緒だろ」
「一緒じゃない、一緒じゃないよ! 何その雜すぎる区分。兄妹みたいな恋人は許されるけど恋人みたいな兄妹は許されないよ!」
血なら繋がってねぇよ、と返してテトの頭に手を乗せる。パンベルトを流れ作業的に送り込みつつこちらを見て、直ぐにパンをびろびろする作業に戻る。注意が払われないのを良いことにして、テトの髪に指を通す。細くて白い線をそっと掴もうとすると、遊ぶように手の間をすり抜けていった。
恋人、か。そう言われて悪い気はしないが、その関係は間違っている。物語にあるように姫の最愛が近衛兵長や側付きの騎士とは限らないし、幼馴染みは想い伝えられずヒーローヒロインに鳶に油揚げ。テトの傍に居続けたオレだから、いつかは本当に傍にいるべき人が来るのだと、いつかはオレはお役御免なんだとそう理解して、テトの傍にいる。
でも今のところテトとまともに関係を作れた奴はいないし、テトはまだオレを見てくれている。オレもテトの手を離したくない。だから理解とは別に、正規主人公なんかは一生現れないでくれと願うばかりだ。簡単に取られる心算は無いけど、テトの気持ちには反したくないから。
「…………ちぃっ」
「ん、どうしたのかな?」
「何でもねぇよ、馬鹿ヴェルディ」
馬鹿はないだろ、と怒るヴェルディをあしらいつつ、夜空を仰いでため息を吐いた。
午後8時半、中等部校舎二階1‐C教室
「はーいお前らー、今日で1週間が経ったことになるがー、この学園にも少しは慣れたかー?」
柄の悪い声が教室に響く。一クラス約二十八人のわりとゆとりのある教室には最新式のタブレット一体型の机が並んでおり、無論黒板は真っ白の画面だった。高等部や大学から学園に来た生徒は最早ジェネレーションギャップと呼べる程のテクノロジー格差に喘ぐ羽目になるらしい。確かにそれも頷ける。国から助成金を貰っているらしいこの学園はそういうのに手が早かった。
「せんせー、正直全然なんですけど」
「全然オッケー? なんだ頼もしーなー」
教壇で馬鹿丸出しな感じの喋り方をしているのはポーランド出身だという担任の教師だ。ジョークのようなボケをやらかすために生徒の人気が高いという不名誉を甘受している。悪い人でないことは確かだが、ちょっと単純過ぎる。
隣のテトは持ち運びできる電子ノートに絵を描いていた。風船に掴まった白い少女が雲の上の少年に会いに行く絵のようだ。ペン先で濃淡を付けつつ線を引いていくテトは、中々楽しそうだ。
「ん、まーそんなんでなー、今日はクラスでレクリエーションをやることになってるんだー。お前らちょっと話し合って今日1日何すんのか決めてくれー、おれは寝るー」
教師のやる気の無さには皆閉口したようだが、直ぐに仕切りたい連中中心にレクリエーションを何をするのか予定を立てることになった。運動系がいいか室内遊戯系がいいか、グラウンドか体育館は空いているのか、そういう話をするようだ。
俄に騒がしくなった教室で、テトは変わらずに絵を描いている。ダウンロードしたお絵描きソフトを使っているのか絵の具で色を付けているようだ。描き終わったらオレに見せてくれるだろう。余計なちょっかいは出さないことにして、オレはやりかけのゲームを密かにやろうと同じく持ち運びできるタブレットを取り出してゲームのアプリを起動した。
今やっているのは、昔フリーソフトとして作られたゲームのリメイクのものだ。何度もリメイクしているらしく、ネット上では結構有名な部類に入る。話としてはありがちなホラーで、異空間に建つ何十年前に廃校になった筈の小学校が舞台だ。迷い込んだ少年少女達は悪霊に閉じ込められ、逃げられないことを知り、仲間と協力し、同じく閉じ込められ死んでしまった生徒の残した書き置きなどを手がかりに小学校で昔あった事件の謎に挑んでいく、そんな話だ。
画面では丁度、主人公が妹の不安を取り除いてやるために優しく話しかけているところだ。オレには兄弟はいないが、もしオレに妹や弟がいたら今テトにそう接しているように優しくしてやるかと聞かれたら、答えは否だろう。多分オレがテトにこうして接しているのはテトだからだろうし、妹や弟がいたとしてもオレは今のようなオレにはなっていないだろうと思うのだ。テトとは物心ついた時から一緒にいるからそれも当然と言えば当然のことだが。
「それじゃあ、机は後ろに下げて、椅子だけ前に出そうか」
「よくわかんねーけど、その『何でもバスケット』っていうのはイス取りゲームと何が違うんだよ」
「今説明するから、ちゃんと聞いて」
どうやらとりあえずは無難に何でもバスケットで時間を潰すらしい。しかし主導を取っていたのが積極的な日本人で助かった。私は誰でしょうとかツイスターゲームとかクイズ大会とかそんなのだとルールもよく分からないし。
オレとテトの席は教室の一番後ろ、窓際だ。椅子を横によけて机を下げる。話を聞いていなかったらしいテトがオレを見上げるが、周囲を見て何をしているのか察したらしい。椅子とタブレットを持ってとことこと窓際に歩いて行った。オレもその隣に立つ。今はお絵描きに夢中なテトはレクに参加するのだろうか。
ぼんやりと中等部校舎前の第一グラウンドを見下ろしてみると、気の早い体操着姿の生徒達が授業前に誰かの作った火の玉でドッジボールを始めて教師に怒られているのが目に入った。最先端を行く異種混合の学校でもあまり生徒の行動パターンは変わらないのか。組体操の練習をしているようだが、何人かは宙に浮いたりズルをしている。
「えっと、レイン君だっけ?」
控えめな呼びかけに振り向くと、先ほど教壇の上で一時間目は何をする二時間目は何をすると黒板、じゃないスクリーンに書き出していた女子生徒が切り出しづらそうにオレを見ていた。
「君、達はどうするのかな? 何でもバスケットでもやろうと思うんだけど、やらないならやらないでもいいんだけど」
日本人らしい気遣いの仕方だな。そう思いながらテトを見ると、タブレットを閉じて仲間に入りたそうな目でオレを見上げていた。ふむと一つ頷き、椅子を持って輪に入ろうとする。テトも椅子を重そうに引きずってオレの隣に座ろうとした。あまりにも椅子を置くのに手間取っているので、手を貸してやろうと思ったが、
「手、貸すよ」
爽やかな声と共に椅子が軽々と持ち上げられテトが釣られて視線を上げると、その男子生徒は爽やかに笑ってみせた。オレには出来そうにない胡散臭さを伴わない笑みだ。きっと女子にモテるだろうし、中学一年生なんてまだ小学生の延長気分が抜けない生徒の中ではその落ち着いた物腰は目立つだろう。
爽やか君はテトの椅子を置いて座らせてあげると、それを見つめるオレに気付いてこちらを見ると、やはり爽やかに笑ってみせた。手を出したのは余計かな、と言わんばかりの苦笑に少し苛立ちを覚えたのは、オレの心が狭いからか。
どうでもいいが誰だこいつ。
午後12時54分、第一食堂『クック・デリ』
真夜中の昼時、真昼に比べたら流石に少ないがそれでも結構の人が行き来している。確か全校生徒は三千いないらしいがその半分より少ない人数が夜勤ということになる。食堂は四つあるが大部分の生徒はここと地下の第二食堂に集中しているとのことで、席はほとんど埋まり、広場の方もかなりの人だった。
隣のテトがうどんの麺を一本ずつ箸で詰まんでは食べている。このカフェテリアにはファストフード的な物が多いのだ。ホットドッグやサンドイッチ、惣菜パンやハンバーガーなど、外で食べることを予想しているからだろう。そう言えば日本的ジャンクフードは第二食堂の方が美味しい。ラーメンやうどんも第二の方が種類も豊富だ。日本人生徒がわりと多いことへの配慮だろう。
と色々考えながら、オレは操作していたタブレットを机の上に投げ出した。先ほどまでやっていたゲームをクリアしたのだが、随分なエンディングを迎えてしまった。なんと、ヒロインも妹も死んだのだ。ヒロインが死んだのも納得いかないが妹が死んだのは最早理不尽とも言える。最後はホラーゲームらしく誰もいない筈の妹の部屋からノックの音がして、お兄ちゃんさびしいよと声が…………。
怖い。後半からホラーゲームだということを忘れていたが怖い。そしてなによりテトがそんなオレを興味深そうな目で見つめてくる視線が気になる。オレの渋面なんて見ていて楽しいのだろうか。楽しいようだ。
と思考がそちらに行った所為で余計なことを思い出した。朝に突然テトにちょっかいをかけてきた爽やか君だが、彼がずっとテトにちょっかいをかけ続けているのだ。隣に座って話しかけたり困っていると手を貸したりほとんど無理矢理に輪の中に入れたり絵を覗き見たり。とんだ奴もいたものである。近付こうという心が透けて見えるようだったが、しかしそれ自体は悪いこととは思わない。オレもそこまで狭量じゃない。
少々と言うかかなり人見知りの気があるテトは初対面の人に対する警戒が強い。それと今までクラスメイト達とは上手くやれなかったのもあって、まあそれについては巡り合わせが悪かったんだろうが、テトは同年代年下に対する苦手意識が根強いのだ。なので爽やか君の一方的な喋りを黙って聞いていたのだが、爽やか君が髪について触れたときだけテトは嬉しそうな顔をした。
『アルビノって言うのかな、本当に真っ白なんだね。髪長いと真っ白なのが映えて良いね』
『…………ンが…………』
『ん、何々?』
『レインが、好きだって、いってくれた、から』
勝った。そう思った。何に勝ったのかも分からないがとりあえず勝ち誇った。それから全くフェアじゃないことに気付いた。とても卑怯な奴だと自分でも思った。でも直ぐにアンフェアだからと引け目を感じる必要は無いと気付いた。というかテトの声をそんなよくわかんない奴に聞かせていいのかと無為に怒った。オレは何様のつもりだと反省した。何の話だか忘れた。
「だから、その話は絶対にしないでって言ってるじゃん。姉さんのは食べたんじゃなくて封じ込めただけで、いつ戻っちゃうかは私にも分からないのっ」
「然し、エンデ、俺やカインツが何もしなかったとしても思い出す可能性は有るだろう? それこそ何が切っ掛けに成るのかは分からないんだし」
左側一つ席を挟んだところで向かい合って揃って中華定食を食べていた二人の、女子の方がそう控え目に声を上げた。肩まで伸ばした色合いの薄い金髪に碧の眼をした少女は北欧の生まれだろうか。活発ではないが強気な質なのか、静かな物言いにはどこか迫力がある。肩にマントのようにかけたスカーフの色は深い緑、オレの二個上ということになる。アジア訛りの強い英語は中国系の印象が強く、不思議に思ったが、向かいの黒服の風紀委員が口を開くとそれも頷けた。
こちらは藍色のスカーフを首に巻いている、背の高い男だ。毛足の長い短黒髪に色素の薄い黒目、顔付きからしてアジア系だろう。不機嫌そうな顔つきで行儀悪くチャーハンを口に運んでいる。背筋の真っ直ぐな軍人気質に見えるだけ、その行儀の悪さは目についた。眉を寄せているのは何か気に入らないことがあるのだろうか。黒服の上から裾の長いカーキのジャンパーを羽織っているが、裾の方は刃物で裂かれたようにぼろぼろで解れた糸が無造作に引きずられていた。
「それとこれとは話が違うでしょ。可能性があるから、姉さんに全部話して聞かせるの? そんなことしたらどうなるのかなんて簡単に想像付くよね。姉さんがまた壊れたら、どうするのよ」
「この場合は壊れると言うか元に戻る丈だがな、それにその言い方は狡いぞ。…………そう言えば、俺の事は都合良く解釈しているとは言え底の所は無視出来ないんじゃないのか? 学園長に会った時の事とかも彼奴は覚えてないんだろ?」
「それとなく確認してみたけど、あまり気にしてないみたいだよ。覚えてないからどうでもいい、みたいだし。そもそも姉さんって過ぎた事を気に病む性格じゃないし、先のことは悩むのにね」
「悩み過ぎる気も有るがな」
「兄さんが悩まなさすぎなんだよ」
「悩んでたら死ぬからな」
「そーですか、悩めとは言わないけれど、兄さんはカインツさんの馬鹿を少しは見習うべきね」
「あの馬鹿は見習いたくはないが…………未だ、呼んで遣らないのか?」
「まだ、ね、ちょっと頑張りが足りないかな。兄さんと呼ぶにはまだ頼りないもの、兄だって自覚もあんまないみたいだし」
「竜は寿命が長い分精神的な成長が他寄り遅れるらしい、一気に成長するだろうからそれ迄は愛想尽かさず居て遣ってくれよ」
何せカインツの事だ、と呻くように付け足して男はレンゲを置く。兄妹というには似てないなと思ったが、二人の間を流れる暗黙の内の了解は正しく家族のそれだった。女子の方も食べ終わったらしくフォークを置いて、ちょっと笑った。
「ラン兄さんのそういうとこ、結構好きだよ。でも大丈夫、私が姉さん達に愛想尽かしたことなんて一度も無いもの。とりあえず、そういう訳だから、十分気をつけて。聞くところによると、また不安定になってるみたいだし」
「彼奴、最近は如何したんだ?」
「なんかエヴァさんが五月の作戦に参加するんだって、それで」
「…………Check、陰ながらの努力はする」
器用に片手でお盆を持ち上げて男は立ち上がる。立って見るとかなり背が高いのが分かった。女子の方も立ち上がり、二人並んで食器返却のカウンターに歩いて行った。
二人の言葉を検分するに、所謂普通の兄弟というのはそんなに深い絆があるわけではないと思う。意見や趣味や考えが会わないなんてことは往々にしてあるだろうし、兄姉がいつでも偉大で優しいなんてのはあり得ない。だから先の二人の会話を聞くに、とても友好な関係を築けているのが良く分かった。一人っ子としては兄弟に対する夢の一つも持っていた方が良いのだろうが、残念ながらオレは兄弟なんていなくて良かったと思っている。それは勿論テトがいるからというのが一番だが、少なくとも今の自分ではなくなるという事への不安もあるのかも知れない。オレはオレにそこそこ満足している。
テトが首を傾げて、何を悩んでいるのかと問うように眼をぱちくりとする。底に残った油揚げを浚い口に運んでから、両手を合わせてごちそうさまをした。オレもごちそうさまをして、空の食器の乗ったお盆を持って立ち上がった。カウンターに食器を返して、教室に戻ろうと食堂から出た。
出て直ぐの廊下、小さな人だかりが出来たそこには掲示板があった筈だが、何か目新しい記事でも載っているのだろうか。人だかりの横を通り抜けようとした時、張り出されている新聞の写真が目に入った。『注目の新入生はこいつらだ!』といった意味の大きく打たれた見出しの下に、五人分の写真が並んでいる。隠し撮られたらしい角度ながらも被写体を生かした場面場面の写真には撮影者の腕が光るがしかし、当事者ともなれば話は別である。
一番左の写真、黒い委員服にスカーフをネクタイ式に首に巻いた二人。右側の少年は中肉中背といったようすで、伸ばしているというより切らないから伸びたと言いたげな髪を横に横に別けもしないで隣を歩く少女を気にしている。何を考えているのかは読めないが少女を見る目は穏やかだ。
隣の少女は肩甲骨まで届く長さの髪を風になびかせて、跳ねるようにして歩いている。隣の少年と比べると頭半個ほど背が低い。白皮症の典型的な症状である色素の全く無い故に真っ白な髪と肌を晒して、目深に下ろしたバイザーの下から見上げるようにして少女は少年を見ている。こちらは少年が傍にいることに安心してるのか笑っている。
そこには、並んで歩くオレとテトの姿があった。記事には以下のようにある。
『…………そして一番気になるのはこの二人組だろう。真っ白な少女と真っ黒な少年のペアはやはり目を引くものだ。アルビノの彼女の方の詳細は弊科の調査でも判明していないが隣の少年の方明白である。入学早々に“名付け親”から“落雷注意”の名を貰った彼は、能力行使の目標を強制的に自分にするという能力者だ。知っての通り感応系は能力の行使時及び結果が目に見えないものをそう言うが、物質系でも干渉系でもなければこれに分類される。よって彼の能力は能力者の能力を対象にして干渉していると考える事が出来るにも関わらず、能力は対象として考える事が出来ないというのが通説であるために未分類型の感応系と言うことになるだろう。未分類型に良くあることとして恐らく彼も“枷”が聞いていないと思われ、彼の近くで能力を使おうとすると大変なことになる。そんな彼とずっと一緒にいる彼女も登録では感応系の能力者らしい。外見としてもさることながら能力的にも注目される。…………』
未分類型、と口の中で呟いて、オレやテトの顔をちらちら見てくる周りの人に気付いた。記事が貼り出されているから悪目立ちしているのだろうと思いテトの肩を軽く叩いた。
テトは何か言いたげにオレを見上げたけど雑音が無い所為でその気持ちはやはり読めず、鈴が小さく音を立てた。
午後3時41分、委員棟
この学園には五つの委員会があり、各々が委員棟の一フロアを与えられている。下から保健委員、美化委員、実行委員、風紀委員、執務委員だ。執務委員の部屋は五階にあり、一番奥に生徒会長執務室がある。委員会というのも、生徒会長は三月の全校選挙で決まるが、生徒会は存在しない。そんなものは要らないという判断らしい。
基本的に委員会か部活かどこかには所属しなければいけないということになっているが、勿論オレやテトのような奴は簡単には部活に入れない。オレは周りに迷惑かけるし、テトは集団行動が苦手だ。行き場の無い連中の行き着く先は風紀委員、半数近い生徒が仕事もしないのだと言う。幸いにもオレは風紀委員に入っても足手まといになるからやはり安全牌を取るべきなのは明白だが、能力者がガンガン能力使わない安全な所と言うと実際あまり無い。
ヴェルディいわく『学園の中で一番安全で一番地味な仕事』をしているという執務委員会に入ったのは、そんな訳だった。テトには一応オレになんかついて来ないで美術部に入ったらどうかと言ってはみたが無言で拒否されてしまった。だから二人揃って新入の執務委員として委員棟の五階までえっちらおっちら上る、と。
「それで、テト新入事務員とレイン新入事務員は仕事は一通り終わったのかね?」
「あ、いえ、もう少しです」
執務委員長にそう返して意見書を要約したものをメモに書く。一々全部に目を通すのは面倒なので他の人が読んでも分かりやすいように要約しておくのだ。したっぱの事務員というのは体のいい雑用がかりのことだが、慢性的に人手の少ない執務委員会では結構仕事があるものだ。
当たり前だがどれもこれも英語だ。どの国の人も、日本人でも、公文書は英語で書く事が義務づけられている。オレの両親は二人ともこの学園のOGで家でも英語だったから会話は慣れてはいるけど、筆記の方はどうも苦手だ。文句を言っても仕方ないので黙ってメモをテトに渡す。テトは一生懸命な感じで書類の右上にそれを貼っていく。最後に機械開発科からの制作物の高さ制限を十メートルにして欲しいという趣旨をメモにまとめ、それを貼って作業は一旦終了。委員長にまとめたそれらを渡して、とりあえずのOKをもらった。
委員長は縫い合わせてある目を並んで立っているオレとテトに向けて軽く唸った。白い机に書類を広げて指で表面をなぞりながら、何か考え込むように首を捻る。
「ふむ、私には見えないが、白化個体というのはそれは白いものだろうと想像することは出来るよ。しかし、テト新入事務員は他の人とそれほど変わり無いように見える。寧ろ、……………………レイン新入事務員の方が形も色も異質に見えるね」
「そう、見えますか?」
「ああ、この学園では結構そういう人を見かけるが、レイン新入事務員はその中でも異質な方だと、思うがね」
異種、という言葉がある。能力者が、どこか人間とは違う異能を持つ者が頻繁に表れるという謎に満ちた現象が世界的に広まって久しいが、異種というのは最近よく使われるようになった言葉だ。能力が本来定義される枠から外れて本人の有り様を大きく変えてしまうことがある。変わりきってしまった者は最早人間とは呼べない。それは人間の理から解離した何か別のものだ。そういう考えを下にして、変わりきってしまった奴を異種と呼ぶ。
例えば執務委員長がその例だ。目を塞ぐことで魔力を高めるという話は小説から知っていたが、委員長は人の魂を見たから目が潰れてしまったと聞いた。人の魂というのがどういうものかは分からないけど、見たら目が潰れるというならきっとろくなものじゃないのだろう。しかも潰れた結果そんなものしか見えなくなったというから笑えない。もう潰れる目も無いとなればろくでもないものでも受け入れるしかなく、結果として委員長は人間から解離してしまったわけだ。
そして本題はここから。どうやら委員長はオレが近くにいる現状でもちゃんと周りの人間の魂だとか物体の持つ本質だとかが見えているらしい。端的に言えば、オレの能力が効いていない。異種というのは呼び方でしかなく、その実はただの能力者と変わらないはずなのに、異種と呼ばれる奴にはオレの能力が効かないとなると、それはどういうことだろうか。突き詰めていくと踏み込んじゃいけない所に辿り着きそうだが、まあ能力の効かない人間の一人や二人いるだろうと思考を放棄することにする。オレには関係ない話だ。
「さて、しかし他に仕事と言えば……………………じゃあテト新入事務員にお茶汲みを頼もう。出来るかね?」
「っ、っ」
こくこくと二つ頷いてテトは奥に置いてある電気ポットに飛び付く。並べられた机に座ったり突っ伏したりしている生徒の数分のコップに、珈琲とか緑茶とかをインスタントに注ぎお盆に載せ、部屋中央にお盆を置いて、それで満足気に鼻を鳴らして見せた。実に自慢気だ。予想はしていたが配るとかそういうのは考えにないらしい。とりあえず気付いた人達は取りに来たので手渡しで丁寧さを演出しておいて、珈琲を委員長に渡した。
執務委員が具体的に何をするのかと言うと、まあ名前通りのもので、各部各委員会から寄せられる企画書や報告書や依頼書を一括して纏め、整理検討をし、各所に差し戻したりしている。生徒会長の承認が必要なもの以外、細々とした事務仕事を延々とやっているのだが、数理科ばりに紙の無駄使いが目について仕様がない。バックログはディスク保存らしいが、判子をつくには紙でないといけないそうだ。因みに、会長は封蝋まで持っているらしい。封蝋というと映画とかでしか中々見ないが流石本校英国。
「ああ、そうだ、この書類を開発科と加工科に届けに行って欲しいんだった。誰でもいいんだが、君達暇ならちょっくら行ってきてくれ」
委員長は珈琲を一口飲んで一息吐くと、思い出したように側に置いてあった書類を取り上げてこちらに渡してきた。分厚い書類には巨大なロボットに人を乗せて戦わせるとか米国の自動人形の技術を応用して着込み式の戦闘補助スーツを確立させるなどと、荒唐無稽な話が載っているようだ。恐ろしいことに、判子つきの会長の厚い意見書がくっついていた。
「ぼちぼち、彼等は修羅場だろうからレイン新入事務員は十二分に気を付けたまえ。巻き込まれて怪我はしないように」
「いや…………あの、オレ、出来れば外は出たくないんですけど」
部活動中のみなさんから攻撃受けまくりになるんですけど。と抗議の意味で言ったのだが、委員長は特に気に留める様子もなく引きこもりのようなことを言うオレに向かって手を振った。
「そうだね、ついでに君の“枷”が上手くいっているかどうか見てきてもいいだろう。“枷”があれば兎のように怯える必要はないのだから。…………おっと、兎だなんて比喩を使うのは正しくなかったな。あれは怖い生き物だ」
どうやら行かないといけないらしい。肩を落としてそのことについては諦めることにして、書類を受けとる。しぶしぶと部屋の出口に向かったが、少し気になることがあって振り返った。
「委員長、“首狩り兎”って、何のことですか?」
意外なことに、答えは直ぐに返ってきた。
「第4期の頭のおかしい黒兎のことさ。兎の癖に凶暴だから二人供気を付けたまえ、気を抜いていると、首をすっぱり刈られるよ」