ユビキリ ノ玖
裏切るなら、完全に憎めるようにしてくれたらよかったのに。
それなら、こんなに痛くはなかった。
あんな目をするから、許したくなる。
「今度こそ死んどるんかの・・・・・・」
「今度、こそ・・・、本気で心配している声だな・・・・・・」
夢うつつの中で、声が聞こえて目が覚めた。
体を動かしたつもりだったが、重たすぎる体は僅かに身じろいただけで、全体に鋭い痛みが走った。
「川に流されて来とったよ、どこもかしこも血だらけじゃ」
痛ましそうな声で、鬼が頭を撫でた。この感触だと血が出ているのだろう。
そういえばいつもよりも景色が赤い。
鬼の指が鮮血にまみれた。白い肌と銀の髪に、それはよく映えていて、素直に美しいと感じる。
「おんし、どうしてこんなところにおるんじゃ。屋敷でしたくもない仕事をやっとるんじゃなかったんか」
「お前に会いに来た・・・・・・けどな。雨宿りをする途中で崖から落ちたんだ」
格好悪いだろう、と栄雅は無理やり笑った。
けれど鬼は騙されずに首をふる。
「お前の仲間がいたんじゃないんか? 必ず一人は付いて来とったんに」
「なんだ、知ってたのか・・・・・・俺は全然知らなかった」
今の今まで。
何にも自分は気づけやしない。
「兼良っていうオッサンがいてな・・・・・・」
どんどん体が冷えていくのが分かった。
「自分の一文字をとって名付けた妾の子が大層好きで。とっくに亡くなった妻の息子から栄雅の地位を奪って、そいつに与えたがってた」
それは分かっていた。明良は自分も好きだったし、権力なんてものは自分にとって厄介な荷物でしかなかったから、明良に栄雅を譲るために今まで根回しをしてきたというのに。
その動きは父にとって、自分が栄雅としての地位を磐石なものとしているようにしか見えなかったのだろう。
あながち間違っちゃいない。固めたかったのは自分のためではないけれど。
「だから、俺を殺せと命じたらしい」
もしかしたら、もっと前からその命は下っていたのかもしれない。
ならばもう、どうでも良かった。
元々生まれた時から、おざなりに扱われてきた命だ。結婚もせずに一人身で生きてきたのも、誰かに執着を持たせないためだった。いつ自分がいなくなってもいいように。
「だから、崖に掴まっていた俺の手を外すために、あんなに悲しそうな顔までして見せて・・・・・・」
らしくなく、何を言っているのか分からなかったが、自分は弱音を言っているらしい。
鬼は構わずに呼吸が苦しそうな栄雅の体を起こしてやった。着物が汚れると思ったが、そんな事を気にしている様子ではなかった。
「もしかして・・・栄雅っちゅうんは、位の名前なんか?」
「・・・・・・? ああ、藩主を務める川本家に代々受け継がれてきた、大層ご立派な通り名よ」
「なら、おぬしの名前はなんと言う?」
息子に愛情を持たなかった兼良は、奥方が男子を産んだという知らせが入ってきた時に、ふと目についた草の名前をつけたという。
「つゆくさ・・・・・・」
元服の時と同時に栄雅になった。生まれて初めて自分に名付けられたのが「つゆくさ」。
透影も栄雅が落ちる寸前に、自分が幼い頃の呼称で「つゆさま」と呼んだ。
その響きが好きで、何度も何度も困らせては、名前を呼ばせた。
「綺麗な名前じゃね・・・・・・澄み切った濃い青。ぴったりな名前じゃ」
鬼は嬉しそうにその名前を繰り返した。まるで宝物を扱うような、丁寧な仕草だった。
「なあ、露草。俺はおんしに死んでほしくないんよ」
無茶を言うな、と思った。
全身打撲の上に骨折、内臓もいってるかもしれないし、血だってどれだけ流れたと思っているのか。
第一、足先の感覚はとうに無くなっている。
今話しているのだって一杯一杯で、それこそ奇跡だ。
「みんな、みんな・・・・・・置いていくんじゃ。これ以上人が死ぬのは見とうない」
少し前自分が、「人のしがらみという奴から解放されている」と鬼に言った時の顔が思い出された。
脳裏に深く刻まれた、なんともいえない悲しい顔。それは、人との繋がりがほしいという願いだったのか。
とても人間くさい。
少し自分と似たようなものを感じ取り、照れくさくなって憎まれ口を叩く。
「勝手だな、寂しいだけだろうが」
けれどそこまで自分を必要としてくれるのが、ただ素直に嬉しかった。
寂しがりやなこの鬼は、長く生きてきたと思えないほどに純粋で、自分を慕ってくれているという。
体は冷えていったが、心は温かかった。
「勝手よ。勝手じゃろうけど、でも・・・・・・」
「生まれ変わったら、一緒にいてやるよ」
「輪廻なぞ信じとらん。もしあったとしても、おんしじゃあない」
「・・・・・・・・・・・・じゃあ、お終いだ」
「露草・・・・・・」
泣きそうな顔をされてしまった。一体自分に如何しろというのだろう。
透影も同じような顔をこちらに向けていた。一体如何すればよかったのだろう。
「一緒に、鬼として生きちゃあくれんか」
「・・・・・・・・・は?」
息も絶え絶えだった。声も段々遠くなっていく。
けど、鬼の顔があまりにも必死だったから、何だか可笑しくなって――
「いいよ」
とは言ったものの、恐らく鬼には届いていないだろうなと思いながら、栄雅は眠りについた。