ユビキリ ノ肆拾肆
「どうした?」
「いいえ、ただ――」
露草が首を僅かに傾げると、明良は黙ってしまった。その沈黙がどうにも居心地が悪く、なかなか自分からも切り出すことが出来ない。
白梅にしても助けてくれる様子はなく、傍観者に徹するつもりらしかった。
「ただ、兄上が『露草』と呼ばれていたので。今はそう名乗っていらっしゃるのですか?」
「それか・・・流石に栄雅と名乗るわけにはいかないからな」
「そうですね」
明良の名を呼ばれることなど、絶えて久しい。
個々の存在としての自分が段々希薄になるようで、最初は誇らしくもあり悲しくもありと、呼ばれるたびに違った感情が胸によぎったものだったが、すでにそんなものは過ぎ去ってしまった。
けれどその感情を覚えているからこそ、目の前の人物が名前を持っていることが嬉しかった。兄、として呼ぶばかりでどう語りかければいいか分からない状況は、どうにも寂しい。
それに名が呼ばれるたびに、ここに唯一無二の存在としているのだという安心感がじわりじわりと押し寄せ、嬉しかった。その名を呼んだことが自分じゃない事の悔しさを差し引いてもだ。
「目に入ったものを、あの人が適当に名付けたらしいが・・・・・・今となってはいいと思う」
個人を識別する記号ではなく、それ以上のものをのせて名を呼ばれる。
そんな単純な事で嬉しそうな顔をする露草に、弟ながらさらに喜ばせたくなって、初めてその響きを口で転がしてみた。
「つゆくさ兄上・・・・・・いい感じです。平凡なようなのに、非凡さが隠されているようで、ぴったりです」
「お前は俺を買いかぶりすぎだ」
「まさか」
とんでもない、といったように明良は肩をすくめて大げさに否定して見せた。そんな動きが子どもの頃の無邪気な笑顔とどこか重なる。
一方で露草は、名前をすっかり気に入った様子の明良を苦笑しながら眺め、ため息をついた。その仕草は毎日公務で疲れていたかつての栄雅が一休みする時の癖に似ていた。
そんな二人の向こうで、白梅はにやにやと笑った。彼はやっぱりそれまでと何も変わらないようだったけれど、いつも凪いでいた彼のまわりには、確実に波跡が増えているようだった。
「やはり、偶然はあるものですね。必然と私は言いたいところですが」
「・・・・・・?」
揃って首をかしげた二人に、明良は続けた。
「私の子どもです。白露と名付けました。つゆという響きではありませんが、本当にこの名前でよかったと今思いました。川本露草のように、真っ直ぐ育ってくれることでしょう」
「はくろ、か。純粋さが表れている」
「露草に似たら性格捻じ曲がるんとちゃう?」
「言ってくれるな。それをいうならお前の名前も入ってるぞ。『しら』と読むわけではないけどな」
「あ、ほんとじゃ! ならやっぱり素直で優しい子に育つよ。いやー、安心じゃねえ」
そのままぎゃあぎゃあと言い争いを始める二人を見て、若干不安になったことは秘密だが、こんな気が置けない友がきっと出来るのだろうと、明良は我が子の未来を思い描いた。




