ユビキリ ノ参拾陸
「さて、あとはあいつだけだな」
「あいつ?」
「隆吉殿たちには悪いが、これを聞いたら真っ赤になって飛び出してきそうな狸親父が隣にいるだろう」
ぐ、と言葉に詰まった年下勢を見て、不敵な笑みを浮かべた塔十郎が見ていた先は、栗町家との境だった。そう、こちらがもし賢しい狐と称されるならば、あちらは狸。そんな恰幅のいい姿をした、隆吉とお良の父親梅太郎のことである。
「親父殿、ですか」
「父様、絶対許してくれなさそう・・・」
しゅんと俯いたお良に感化されたのか、雰囲気も若干落ち込む。
「なあに。何年かかっても説き伏せてやるさ。私を甘く見るなよ、坊主ども」
「父上・・・」
にやりと笑った笑いが、まるで芝居のようにさまになる、嫌な笑い方だった。頼もしい悪の大親分のごとき笑いに、清一郎でさえ本人の目の前で父親の顔を笑ってしまいそうなほどだった。
そして白梅と露草が彼らを見たのは、その笑いが最後となる。
いずれ、清治郎とお良の結婚式が開かれるだろう。その時にまだこの地にいたなら様子を見に寄ってみてもいい。
しかし短い逗留だったが、彼らとは深く関わりすぎた。特に塔十郎には最大の秘密まで明かしてしまった。いくら信用がおけるとはいえ、秘密を抱えさせたまま長く近くにいることは負担をかけるだろう。それにそろそろ二人の放浪の虫も焦れていた。
「お待ちください――お館さま。外出されるときは誰かをお付けくださいと、何度申し上げたらお分かりいただけるのですか」
「私は先人の教えに従っているだけだ。ついてこれないならお前だけ帰ってもいいぞ?」
男が一人、歩いていた。
口が開いているか開いていないのか、はっきり分からないくらいの角度で、しかし確実に話していた。周りですれ違う人々は、その呟きに気づいていないようで、不審の目を向けることなく男の隣を通り過ぎていく。
その光景を見て、白梅はぽつりと感想を漏らした。
「密やかすぎるねえ」
「なんだ、お前にも聞こえるのか? あれは特殊な発声法だぞ」
「そういう露草にも聞こえてるんじゃろ」
「当たり前だ。あれは川本家と各々の影との連絡手段の一つだからな」
「影? ああ、透影さんみたいな――」
言ってから露草の視線を受け、白梅は珍しく内心で焦っていた。動揺と同時に、小指が神経質な速さで動く。
古傷、と世間では言われる年数が経っていようと、露草の中では未だ新しい傷かもしれない。なるべく塩を塗りこまないように、川本家の話を持ち出すようなことがあっても、透影の話は持ち出さなかったのだが。
そんな気遣いを察したのか、露草は何を考えているか分からないような目でじっと白梅を見つめていた後、ふと口の端をあげた。
「お前は無神経だと思っていたけれど――」
やはりまずかったらしい。ひどい言われようだ。困った笑みを浮かべようとした白梅の顔から視線を外して、そのまま続ける。
「変に気遣い屋だな」
「変は、余計と違う?」
「そうか?」
「そうよ。そうとしか言わん」
くすくす、と笑いまじりに言葉を交わす道端の二人に、男はふと目を向けた。僅かな焦りが顔によぎる。
感情の揺れを隠すようにして俯くと、男は再び歩き出した。