ユビキリ ノ拾陸
「日本にくると変な感じがする」
それは正直な気持ちだった。
今まで色とりどりの屋根、髪、視点も違う箇所からいきなり引き戻されたような感覚を覚える。
「たまにはいいじゃろ。この機会に日本縦断でもしてみるとかいいかもしれん」
「亜米利加や露西亜なら横断縦断が分かるが・・・・・・日本は縦断なのか?」
「は?」
「いや、何でもない・・・・・・」
「まあええわ。どうせなら美味しいもん、食べ行こう。『腹が減っては戦が出来ぬ』言うし」
「別に戦をするわけじゃあるまいし」
「ぶつぶつ言うとらんで、ほら」
ほら、の後で手を差し出してくる白梅を見て、露草は顔を覆いたくなった。
やはり白梅は天然なのだ。
それもたちの悪い無自覚な天然で、人好きというか女性受けする人種の一人だ。
何十年も生きているのだから、人一倍寛容で優しく、忍耐強くはある。しかし、それを払拭してしまうほどの幼さが彼には混在しているのだった。
寄せられる好意には驚くほど鈍感。けれど食欲には忠実で、決まった時間になると腹の虫を響かせる。まあ、腹の虫は本人の意思とは関係ないとは思うのだが。
女性を導くようにして手を差し出すこの性格はどうにかならないものだろうか。
「ここは日本だ。第一、必要ない」
「あ、ああ・・・・・・すまんねぇ。つい癖で」
癖!
既に習慣付いているとは、恐るべき鬼だ。
というか、本当にこれが鬼の有るべき姿なのか。いや、目の前で動物を生のまま食べられても確かに困るが・・・・・・。
自分は棚に上げつつ、露草は内心でどこかがっかりしたような、やるせない気持ちを抱えて歩を進めた。
「・・・・・・いやー、困ったねえ」
「どれだけうっかりすれば気が済むんだ」
小言を言いたくはない。ないが、この計画性のなさも問題ではある。
事実日本の金がないせいで飯にすら有りつけない。港についてからというもの、一日中水しか腹に入れていなかった。
その責任は露草にも確かにあるのだが、金は基本的に二人それぞれが持っていて、旅費と着物代を露草の懐から出したせいで、文字通りの一文無しなのだ。
食費は今のところ白梅が持っているはずだが、日本の金などここ暫く見たこともなかった。
銀子などなく外国の硬貨が虚しく場を賑やかすばかりである。どこかの好事家が珍しがって買うことや、もしくは貿易商なら両替を頼む事も出来るかもしれないが、流石に普通の民家や飲み屋が立ち並ぶこの界隈では無理だろう。
「仕方ない。野宿でもするか?」
「ここらは治安がどうなっとるかまだ分からんけえ、即決は避けといたほうがええよ」
「山暮らしをしていたんだから、山では駄目か?」
白梅は困ったように笑いながら、「あれは小屋があったけえ、山に住んでても普通に暮らせたんじゃけど。今の暗さじゃ見つけにくいがね」と言う。
考えてみれば、なるべく外国でも野宿は避けていた。鬼とはいえ避けていた方が問題が少なくていいらしい。
つくづく自分は旅をしなれていないのだと、思い知る。だからこそ白梅に頼っていたのだが、肝心の彼が日本の金を忘れたのであれば、もうどうしようもない。どうにかして誰かの家に泊めてもらう手もあるが、見知らぬ男を二人も泊めようという物好きは滅多にいないだろう。
「腹が減った」
「ほんまじゃね。・・・ええ匂いがまた沁みるなあ」
白梅は腹をさすってみたが、それで膨れるはずもない。刺激されたせいなのか、また鳴きはじめた。
「腹の虫が煩くて今夜は眠れんかもなあ。歩いてみる? 用心棒の仕事とかあるかもしれんし。最悪、川べりの草でも食べてとりあえず寝る場所確保せんとね」
「そうするしかないだろうな」
はたから見れば転落人生、とも言えるのだろう。
しかし、露草は不思議と不幸とは思わず、この生活を楽しんでさえいた。
餓死を覚悟しそうなほどに飢えたことは滅多にないし、白梅は最悪な状況を楽観させる雰囲気を纏っているので、自分もどこか感化されてきたように思えるのだ。それが良いことか悪いかは、まだ分からずじまいだ。
何度目かに二人の腹の虫が合唱した時だった。
たまたま通り過ぎようとしていた男が何事かと思ったのか、くるりと振り返った。