ユビキリ ノ拾参
『あんたも難儀な人じゃね』
『宿命、のようなものです。私のような、闇を生きる者にとっては』
『闇か。ほうじゃね』
『けれども、鬼さまも栄雅さまも闇とは離れていらっしゃると私は思います。栄雅さまの先の姿を見ることはもう叶いませんが、どうか、お二人ともお幸せに・・・・・・』
『待って。その・・・・・・透影さん。私が前、名を捨てたと言ったのを覚えとる?』
『はい』
『けど、あんたに覚えてほしくなった。――月影。私は昔、そう呼ばれとったんじゃ』
『月影さま』
『うん。・・・・・・なんか、久しぶりに呼ばれたら恥ずかしいなあ。有難う、透影さん』
『ではお元気で、月影さま。栄雅さまのことを、よろしくお願いします――』
物悲しい風に髪を弄ばれながら、透影との最後の別れを思い出していた。
あの時何故、彼に名前を教えようと思ったのかは、自分でも分からなかった。潔く散る彼の生き方を羨みでもしたのだろうか。それとも、誰かの中でその名を芽吹かせておきたかったのだろうか。
近隣の村でそれとなく様子を伺ってみると、屋敷の近くで大きな音がしたらしいと噂されていた。
彼の懐から火薬の匂いがしたから、恐らくそれなのだろう。
それならば、無事に屋敷にはたどり着けたのだ。きっと露草の死も公然の秘密となっている。
あの後でひっそりと屋敷を探ってみると、庭の一角で少年がぼんやりと白椿を見つめていた。きっと彼が明良で、これから栄雅になる人物のはずだった。あれならば、いい方向に藩を導くだろうと言った露草の言葉にも頷くことができた。
真珠のような涙の光を思い出していたせいで、落ち葉と枯れ草を踏みしめる音が途切れたことに鬼は気づかなかった。
「鬼・・・・・・か」
「何か言うた?」
「いや、いつまでも鬼というのは味気ないと思ってな」
露草は自由に歩けるようになるまで回復していた。傷は快癒しているし、内臓や骨など体の内部も大分回復されてきている。
そんな中、食料採集に出かけていた露草たちだったが、木の実を拾ったままぼんやりと考え込んでいる様子の露草を見て、鬼は眉を顰めた。
「・・・・・・鬼になったこと、やっぱ後悔して」
「それは違う」
「本当に?」
「誰も恨んでいないと前言ったろう? それは俺も含めての話だ。後悔したところで何の得にもなりやしない。――俺が言いたかったのは、お前の話だよ」
「私? ふうん。で、どがあした?」
「・・・・・・すでに口調をどうにかするというのは諦めたんだが。お前を呼ぶときに『鬼』だと、俺も同じだから呼びにくいんだ」
「なるほど。とは言ってもなあ、名なんぞありゃせんし」
口調を改めさせる気はとうに費えたと思っていたのに、まだ気になっていたのかと露草の頑固さに苦笑した鬼だったが、確かにどちらも鬼となった今では、なるほど。一方が「露草」という名を持っているだけに呼びにくいというものかもしれない。
なにしろ、ここ何十年も同胞に会った事がない。人間からは「鬼」と呼ばれるだけで判別できるだろうし、自分は目前の男を「露草」と呼ぶことで済ませられるから気にした事はなかったのだ。
「どうせなら、おんしが呼びやすい名前をつけるといい」
「俺が?」
「そう。太郎でもたまでも、何でもええよ」
「・・・・・・美学とか、こだわりというものがないのか」
「え?」
「いや、何でもない・・・」
この鬼はどこか抜けている。
今更な事実にため息をついた露草だったが、気づけばお互いに籠いっぱいに木の実や茸が詰まっていて、とりあえず小屋へと帰ることにした。
香ばしい匂いをさせながら焼けた木の実を手に取り、葉で包んだ鹿の肉を頬張る。
腹が膨れた露草と鬼はめいめい好きなように過ごしていたが、どこから手に入れてきたのか、鬼は外国の本を読み、露草は草紙を読みすすめていた。そんなしんとしている中でも、どこか心細くなるのか、自然と背中合わせになっている事が多く、当たり前のように鬼が淹れてくれた茶をすすったあとで、露草は鬼の背後でぽんと手を打った。
「思いついた」
「なんじゃ?」
「お前の名前だ」
「へえ? どんな名前よ」
「白梅」
「花の名前ね」
「お前の白い髪から、『月白』でもいいかとは思ったんだが、けれどどうにも鬼には赤が似合うと思って」
「なるほど? 血の色やね」
梅の花を支えるがくの部分には濃い赤が混じっている。
そう言うと、露草は目に見えて渋い顔をした。
「そうなんだが、残酷だと言いたいわけじゃなくて、目の色も赤になるときがあるし・・・・・・」
ぼそぼそと言い訳する露草が珍しくて鬼は笑みを浮かべたが、むっとした露草に機嫌を直してくれるように頼みながら、礼を言った。
「馬鹿にしてるわけじゃのうて、嬉しいんじゃ。ありがとうな、露草」
「気に入ったのならよかった、白梅」
「しかし、どうにも梅干を食べたくなる名前だな」と真面目くさった露草が言うので、噴き出してしまいそうになるのをこらえながら、名前のお礼にいずれ梅干を漬けてやろうと白梅は心に刻んだ。