ユビキリ ノ拾弐
知らせを受けたのは、爽やかな朝の事だった。
「・・・・・・今、何と仰られたのです父上。・・・・・・兄上が、崖から落ちた!?」
「そう言った。つまり今から全権をお前に移すことになる。これからは明良ではなく栄雅と名乗れ」
「そんな――そんなことが・・・」
とても信じられなかった。
兄は強かった。体も心も強かった。よき藩主であるために常に周りに目を配っていたあの兄が、崖から落ちるだろうか。
第一、川本家には全員に影が付けられていたはずだ。
「影は・・・・・・影はいなかったのですか?」
「その影が報告してきたのだ。二人ついていたようだが、一方はあいつを引き上げようとしているところを獣に襲われたらしい。残った方の影が命からがら逃げてきた、と」
「そんな・・・」
起きた出来事があまりに自分の許容量を越えていて、うわ言のように何度も「そんな」と呟くばかり。
嘘であってほしい。
そう思ったが、今の時点で帰ってこない兄は明らかにおかしく、何かあったのだと結論せざるを得なかった。
「でも影は・・・・・・獣に対する術も心得ているはずでしょう? もう一人の影は、今如何しているのですか」
「死んだ」
「えっ」
目の前にいる父の眼差しは、いつものような温かみを感じられなかった。
まるで兄と接している時のように、冷え冷えとした目をしている。
「命からがら逃げてきて、事の次第を告げると事切れてしまった。私の元部下で、優秀な奴だったんだがな、残念だ」
物が壊れてしまったような、痛みを感じていない目だった。
しかし、嘘を言っているようには思えない。
栄雅は本当に死んだのだ。
「仕事は山ほどある。悲しむのはせいぜい三日程度にしておけ。それまでに気持ちの整理を付けろ」
明良はふらふらと部屋に戻ると、一杯の熱い茶を運ばせた。
本当なら自棄酒でも飲みたいところだ。ぐいと煽ると、熱い茶が喉を通って、空き腹に染みるのが分かる。
兄は意外と猫舌で、明良が茶を飲んでいる様子を「よくそんな熱い茶が飲めるな」と感心したように眺めながら、茶を冷ましている事がしばしばあった。
「・・・・・・兄上、兄上」
屋敷の中はいつもどおりに機能している。栄雅としての兄がいなくなって一時期支障が出るものの、代わりに自分でも父親でもその仕事をすればいいだけのこと。
民のことをいつも考えていた。自分のことも気遣ってくれた。素晴らしい藩主だったのに。
そんな兄が居なくなったことで、世界が揺るがないのが不思議でならないほどだった。
兄の死を悼み悲しめる人がいないことが、明良を一層悲しくさせる。
妾腹の自分が、誰かの死を共に悲しめるほど親しくしていたのは、やはり兄だったということに気づいて、こらえていた涙が止まらなくなる。
涙が乾くまでには、もう少しだけ時間がかかりそうだった。
「そういえば・・・・・・」
ひとしきり涙を流すと、明良は以前、兄が冗談のように「遺言だ」と渡した手紙の存在を思い出した。
あの時は、これを開くのは何十年後の事だろうかと思ったけれど、兄は自分に何かがあることを予測していたのだろうか。
折りたたまれている紙を開く時間すらもどかしかったが、強張った指はなかなか上手く開けない。
苦労して開いた手紙には、出だしに「明良へ」と書かれていた。
明良へ
お前がこれを開く時、俺は死んでいるか病に伏しているか、いずれにせよ何らかの理由があって、お前に藩主を譲っている事だろう。
良い藩主になれ。
人の意見をよく聞き、それでも決定を人に委ねず、責任をしっかりと負える賢い藩主となれ。
利得ではなく未来と、人の益を見据えて行動しろ。
お前は飾りではなく、人を治めていく器を持った男だ。自信を持てよ。
そこで、過去の俺からの土産として、これを残していく。
同封してある他の紙には、お前の力になってくれるであろう人脈が書いてある。
くれぐれも漏らすな。
これは弟ではなく藩主としてのお前に譲るもので、たとえ父上にも渡すべきではない。
書かれてあるその者たちに、必ず信頼に足る人物である事をお前自らが直に示しに行くように。
あと、こまごまとした仕事があるだろうがあまり背負い込むなよ。
無理やり笑う必要もない。機嫌が悪かったら俺のように仏頂面でいろ。
俺のへそくりの隠し場所も書いてあるから、それは甘味にでも何でも好きに使え。
じゃあ、後を頼む。
兄より
「兄上・・・・・・」
驚く事にもう涙が出る気配はなかった。
初めのほうはそれらしかったというのに、最後の文で台無しだ。全く遺言らしくない。どこか旅に出るから帰るまでよろしく、とでもいうかのような軽い文面である。
これでは幾年かしたらひょっこり帰ってきそうな気配までするではないか。
「後は、お任せください。九代目栄雅、必ずや務めを立派に果たして見せます」
すらりと障子を開けた。
忌々しいほどに澄み切った青空に、笑顔を作ろうとしてふと止める。
無理やり笑う必要がない。そう兄の手紙には書いてあったが、自分の笑顔の中には、そんなに不自然さが感じられていたのだろうか。
考えても分からなかったので、とりあえず兄のような仏頂面をしながら庭に出て、兄の好きだった白椿を手に取る。
夕方になるまでそのまま椿を眺めていたが、心配した影に促される頃には、柔和な笑顔が宿っていた。