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ワイングラスが空になったので

掲載日:2026/09/16

 ナディア・マルドは、侯爵令息マルコス・シーバランと結婚した。侯爵家からの打診に断る術を持たなかった。夫は、悪評のある男だった。

 マルコス・シーバラン侯爵令息との婚姻は、ナディアが学園を卒業した翌日に行われた。其々の友人を呼ぶこともなく親族だけが列席する小さな式だった。


 ナディア・マルドは、マルド子爵の長女で三つ違いの兄と年子の妹がいた。学園の成績も上位の末席には名を連ね、優しい性格も相まって友人も多くいた。文官を目指していたナディアにとってシーバラン侯爵家との縁談は、降って湧いたような出来事だった。


 シーバラン侯爵家は、この国の貴族なら知らない者がいない程有名な家であった。但し、あまり良い噂ではない。


 元々、マルコスは、幼なじみの伯爵令嬢サラ・バストゥールと婚約をしていた。サラは国一番と称されるほどの美貌の持ち主であった。また、マルコスとの仲も良好で美男美女の二人は、夜会でも一際目立っていた。


 そんなサラを見初めた男がいた。帝国から留学に来ていた第二皇子ニコラウス・エッセンである。彼は、伯爵家ではなく王家に対して婚姻の打診をした。当時、この国は帝国と協定を結ぶべく協議を重ねている大事な時期であった。この婚姻はこれからの国家間の関係を発展させるに都合が良いと判断された。国益を優先した国王は、サラを帝国に嫁がせるよう伯爵家に王命を下した。


 勿論、王命に逆らうことなど出来ない両家は、速やかに婚約を解消し、伯爵家は新たに第二皇子との婚約を整えた。当初、両家は王命に涙を飲んだ悲劇の家と陰ながら噂されていた。


 しかし、サラが帝国に嫁ぐ日が近づくにつれ、マルコスは見た目は良いが凡庸且つ面白味のない男で、その上かなり金に煩く、幼なじみ故に婚約はしたものの以前からサラに愛想を尽かされていたと言う噂が真しやかに流れた。


 婚約解消後、悪い噂の影響もあり侯爵家嫡男であるにも拘わらず、マルコスの新たな縁談はなかなか纏まらなかった。



 サラの輿入れから一年経ち、噂も下火になった頃、マルコスに恋人が出来た。市井の娘で親の食堂を手伝っているところに偶然立ち寄ったマルコスと出会い恋に落ちたと言う。周囲の猛反対を押し切り、侯爵家別邸に囲っているらしいと。


 新たな醜聞も加わり、彼を取り巻く噂が再炎し、家門を蔑ろにする嫡男という印象が強まった。そんな中、心労からか侯爵が病に倒れた。親族からは、別の後継者を立てるべきだと言う意見が出たが、侯爵夫人の一人息子を擁護する強い意思に阻まれ、マルコスは今だ首の皮一枚のところで後継の座に付いていた。


 親族の動きに焦った夫人は、子爵家の出であることに些か不満もあったが、学園で優秀な成績を修めているにも拘わらずまだ婚約者のいないナディアに目を付けた。子爵家としては、上位の侯爵家からの縁談を断る術を持たなかった。



 マルコスも婚姻からの一月(ひとつき)は、ナディアに対し無口ではあったが普通に夫としての勤めを果たした。侯爵夫人も漸く落ち着いたのかと肩の荷を下ろしかけたのだが、忍耐も尽きたのか、或いは猫を飼被るのに飽きたのか、マルコスの帰宅は次第に二日に一度、五日に一度と数を減らし、終いには全く屋敷に帰らなくなってしまった。


 ナディアは、マルコスに対し元より愛情など持ち合わせていなった事もあり、侯爵家での生活の日々を大切にしようと積極的に家政を手伝う事にした。義父の世話にも心を尽くした。義父は、病床から本来、夫であるマルコスが習うべき侯爵家後継の仕事や領地経営の在り方等を教え込んだ。元々知識欲のあるナディアもそれに答えるように知見を広めて行く事になる。


 二年が経ち、ナディアは、使用人達からの信頼も厚く、侯爵夫人からは家政を、侯爵からは領地経営の一部を任されるほどになっていた。忙しい毎日は、ある意味充実していると言えただろう。義両親は不肖の息子に嫁いで来たナディアを可愛がり、意外にも家自体は上手く回っていた。


 但し、この家の一番の問題は、跡継ぎが出来ない事であった。何しろ、夫が帰って来ないのであるから子が出来る訳がない。義両親と一応ナディアもマルコスに帰って来て欲しいと願ってはいるのだが、手紙にも言付けにも梨の礫であるのだから、手の打ちようがなかった。


 

 ある日、国を揺るがす一報が入った。帝国において第二皇子一派が反旗を翻した。皇太子側も多少の痛手を負ったが、速やかに鎮圧し、第二皇子一派を捕らえたという。捕虜の中には、皇子妃であるサラと生まれて間もない息女も含まれているというものだった。


 その晩、見知らぬ女が必死な様子で侯爵邸を訪ねてきた。マルコスが囲っているという女だった。始め侯爵夫人は、ナディアに気を遣い自分だけで対応すると言ったが、ナディアは『夫の事ですから』と言って同席することになった。


 女の名前は、エマと言った。赤毛の極普通の何処にでもいるような女だった。最初、名前を言うのがやっというほど泣いていて話の内容が伝わらなかった。ナディアは茶を勧め、女が落ち着くのを待った。


「マルコスが出て行ったんです」

「何処へ?」

「サラっていう人のところです」

「マルコスが、帝国に行ったというの?」

「今度こそ助けなくちゃいけないって。私と子供を置いて行っちゃったんです」


 ナディアは、この時初めて、マルコスに子がいることを知った。義母の顔を見ると焦ったように目を逸らした。


――ああ、知っていたんだ。だから、直接、別邸には行かないように言われていたのね。


「あの人、サラって人に見切りを付けたら、出鱈目な噂を巻き散らかして嫁いで行ったんだって、酒が進むと愚痴を言ってたのにさ。今度こそ助けなくちゃって、そんなの変でしょ。ねぇ、お願い。連れ戻して!」


――この人は、何を言ってるんだろう。自分が置いていかれたからって、本妻の私に連れ戻して欲しいって頼んでるの?


「帝国に入ることなんて出来ないわよ。内乱が起きたばかりなんだから、今頃、検問所で止められてるわ」

「えっ、帰って来るってこと? じゃあ、家で待ってた方がいいのかな。じゃあ、帰らなくちゃ」


――あの人の家はここではないのね。


「いま、お子さんはどうしてるの?」

「えっ? メイドが面倒見てるわよ。侯爵家の跡継ぎなんだから。あんた、あの子に何かしたら承知しないから」

「無礼な事を言わないで。ナディアは、マルコスの正妻なのですよ。第一、平民の子は只の庶子よ。その子がこの家を継ぐことなんて有り得ないのよ」

「ハハハ、侯爵家の唯一の息子よ。マルコスが、形だけの奥さんさえいなくなれば私をこの家に入れてくれるって言ってたもの」


――形だけの奥さんって、言い得て妙だわね。


「早く帰ったら。もしかすると、あの人が帰って来てるかもよ」

「あんたに言われなくても帰るわよ」


――この人の何処が気に入ったのかしら。サラ様みたいにとびきり美人とは言えないし、話し方からしてがさつそうだし……。フフッ私、あの人の好みなんて知らなかったわね。


 エマが大騒ぎした割には、すぐにマルコスは帰宅したと家令からの報告があった。やはり、検問所で止められてすごすごと別邸に帰って来たらしい。


――渦中のサラ様は、どう話をつけたのか皇太子の側室に収まったのだとか。なかなか強かな方だったみたいね。お子様も皇女殿下であったことが、功を奏しご無事だとの事だし。女の子は政略に使えるものね……。



 その月の末、侯爵が亡くなった。長く患った割に意識はしっかりしていた為、正式な遺言書を残していた。


一、侯爵家の家督は、一度我が弟カリオン・シーバラン子爵に譲り、後継は彼の息子達の中から適材と思われる者を選ぶ事。


一、妻ユリア・シーバランには、侯爵領コルグにある屋敷と隣接する温室を与える。静かに余生を送ることを心より願う。


一、マルコス・シーバランは、侯爵家に多大な損害を与えた。故に侯爵家の籍から抜き、一切の権利、財産を没収するものとする。除籍後は、侯爵家とは無縁の者とし別邸からも即刻退去させる事。


一、ナディア・シーバランはマルコス・シーバランの除籍に伴い、離縁とする。但し、慰謝料として、五百ギルマンを与え、侯爵家からの正式な謝罪を本人、並びに生家であるマルド子爵家に対し申し入れる事とする。


 葬儀はしめやかに行われた。侯爵家を継いだカリオンによってマルコスの列席は許されなかった。侯爵夫人は、マルコスの除籍という衝撃に耐えきれず寝込んでいる。



 ナディアは、明朝、侯爵邸を出る予定だ。

最後の晩餐にいつもは好まない白ワインを注いでもらった。蜂蜜色の液体は、燭台の揺らめきに伴ってきらきらと光っていた。


『赤は渋い。白の方がいい』


――私、あの人の好み知ってたのね。顔は朧気なのに。


 ナディアは、一気にグラスの中身を飲み干した。


「やっぱり、私は赤の方が好きだわ」



 侯爵家から出た慰謝料は、数年は楽に暮らせるだけの金額だった。ナディアは子爵家を継いだ兄に全て渡そうとした。しかし、兄は自分の為に使うべきだと受け取ろうとはしなかった。兄の『好きに生きてみればいい』という一言で彼女は決心する。


――遅くなんてないわ。自分のやりたいことをしよう。私にあるのはブランクじゃない。侯爵家での実践があるんだもの。『好きに生きてみればいい』お兄様から頂いた言葉。なんて素敵な響きなんでしょう。これからの人生は私だけのものなのよね。




 マルコスは平民となり市井に下った。エマと一緒になるものと思われたが出奔したらしい。エマは、侯爵家に何度も訪れては養育費やら生活費やらを請求したそうだが、その度にカリオンに追い返されていた。


 ある日、門前に籠に入った赤子が置き去りにされていた。マルコスに良く似たその子を不憫に思った元侯爵夫人が、コルグの屋敷に一緒に連れていく事にした。但し、あくまでも只の捨て子として。


 ナディア・マルドに戻った彼女は、もう一度文官を目指すことにした。次の採用試験までは日がなかったが、見事に合格を果たしたのは、また別の話。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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