モノクロの血作
姉の部屋の扉を開けたとき、世界が変わった気がした。
色と光、匂い、そして静寂。すべてが姉の「絵」となって、目の前に広がっていた。
俺はただの傍観者だった。
でも、これからは、俺の目で、姉の世界を、そして家族の歪みを見ていく。
姉はよく絵を描いていた。
それはただの絵じゃない。誰もが足を止め、吸い寄せられるような、繊細で、恐ろしいほど目が眩む世界だ。特に、『星の瞬き』と言う絵は、雲一つない夜空と、暗闇に蕩け輝く無数の星々が、まるで銀河を切りとったようだ。
俺は全くの素人だけれど、これだけは分かる。姉は、天才だった。
コンクールに出せば毎回金賞。リビングには賞賛の声が額に収められていた。これを誇らしげに見つめる姉の姿が好きだった。
そんな姉が誇らしかったし、心から尊敬していた。
一時は、姉のような絵が描きたくて、真似もしてみたけれど、俺にはそんな才能がなかったらしい。少し悔しかったが、何度観ても俺の絵は落書きでしか無かった。
だからこそ、彼女が絵を描けなくなったらどうしようと、心配でたまらなかった。
うちの家系には、芸術に興味を持っている人が全くと言っていいほど誰もいない。
どうして姉は絵を描くようになったのか、尋ねたことがある。
曰く、「誰にも描けないような絵が描きたい」と、そう思ったとの事だ。
なんだか随分と姉らしい動機だなと思い、それからは陰ながら応援するようになった。
彼女は一度熱が入ると、周りの声がまるで聞こえていなかった。
一日中、飲まず食わずの日もあった。何日も寝ずに描き続けた日もあった。本当は、なにか食べ物でも持っていきたかったし、ちゃんと睡眠をとって欲しかったけれど、部屋には鍵がかかっていて、連絡もつかないから、ただひたすらに鍵が開くのを待っていた。
連絡手段はメールだけで、返信なければ出てくるのをひたすら待つしかなかったけど、その時間すら楽しかった。今度はどんな絵を見せてくれるんだろうって。
親父たちもきっと心配していたと思う。でも「邪魔をしてはいけない」と、誰も何も言わなかった。
正直に言って、親父たちは彼女のことを「自分たちの育児のすばらしさを自慢するための道具」としか見ていなかったと思う。特に母さんは世間体を人一倍気にする人だから、ママ友たちとのお茶会で、「うちの娘はこんなに素晴らしい賞を沢山とったのよ」と、言いふらしていた。
どんな絵を描いたかより、どんな賞を取ったのかしか気にしていない。
そんな両親を、俺は好きになれなかった。
それでも、描き終わった後、部屋から出てきた姉の笑顔を見ると、胸がいっぱいになり、笑みがこぼれた。
ああ、この人は本当に、絵が好きなんだなって思った。
それなのに、いつからだろう。姉は絵が描けなくなった。いや、正確には、描く絵が“模写”になった。青く煌めく太陽は、赤い太陽になってしまった。
俺から見れば、十分に上手だったけれど、それでも以前のように惹きつけられることはなくなった。
姉の世界が壊れてしまった。
素人の俺にすら分かるくらいだ。姉にとっては、相当辛かったに違いない。
自分の世界が壊れてなくなってしまったのだから。
そこから、姉は少しずつおかしくなっていった。
一心不乱に筆を動かすようになり、笑顔が消え、部屋から出てくることも減った。
あの時、もっと違う言葉をかけられていたら。
どうして俺は寄り添おうとしなかったんだろう。
あんなに頼ってくれてたのに。
俺しかいなかったはずなのに。
腕の傷にも気付いていたのに。
ただ心配なだけだったのに。
無理をしてまで描かなくてもいいと思ったのも、本当だ。
でも、それでも、俺はまだ、姉の絵が見たかったんだ。
もう遅い。
何もかもが間違っていたんだ。
あの時の、絶望に満ちた姉の顔を、俺は一生忘れられない。
後から聞いた話では、両親も姉に酷い言葉をぶつけていたらしい。「あんなことを言うんじゃなかった」なんて、俺と同じ事を言っていた。
澄んだ青に、太陽が天高く輝く昼下がり。謝りたくて、姉の部屋に行った。
珍しく鍵が開いていた。
深呼吸をして、ドアノブを握る。ギシギシと軋むドアが、いつもより重く感じた。
徐々に開いていくドアの隙間から、微かに絵の具とは違う、鉄のような匂いがツンと刺す。
走馬灯のように早まる鼓動とは裏腹に、ドアはゆっくりと開く。
色とりどりのキャンバスと、眠剤の殻が足の踏み場をなくす部屋の真ん中に
ペーパーナイフで胸を刺した姉が、横たわっていた。
時計の針はゆっくりと進み、ドクン、ドクンと、心臓がやかましいほどに音を立て、走る。
呼吸をしているはずなのに、酸素が肺から漏れていく。
人体から肺という臓器が消えてしまったようだ。
視界が白から黒い絵の具で塗りつぶされていく。
それは、成人式に着るはずの振袖を纏い、華やかな化粧を施していた。
その姿はまるで、美しい日本人形のようだった。
何もない真っ白な部屋に、ひび割れた画材に姉の“すべて”が広がっていた。
いや、違う、そうじゃない。
ここにあるのは姉ではない。姉が創り出した、最高傑作だ。
これが……。
こんなものが姉の願いだったのか。姉という世界でただ一人の人間にしかできない、1度見たら絶対に忘れられない。
今の俺は、この光景から目が離せない。
今だけじゃない。この先も、一生。
これが姉の「誰にも描けない絵」の行き着く先だったなんて、信じたくなかった。でも信じるしかない。
ああ、そうか…。やっと分かった。
姉の絵は綺麗すぎたんだ。
だから見慣れちゃって、面白くなくなっちゃったんだ。
だから、あの死がキレイに見えたんだね。
でも、姉ちゃんは最後までこれに気付かなかったんだね。
天才なんかじゃなかったんだね。
なんか、すごく残念だけど嬉しいよ。
普通の人間だったんだね。
あはは
ダメだと分かっているけれど、笑いが溢れてしまう。
ダメなのにな……。
このあとのことは、よく覚えていない。
気がついた時には葬儀が終わり、姉の部屋は閉ざされていた。
あの日から、色の無い世界が始まった。
モネの絵を見ても雪舟の墨画のようにしか
見えないし、何を食べても味がしないし、どんなにキツい香水を使っても、姉だったモノの匂いしかしなくなった。なのに、姉の描いた絵からは、匂いがした。それは、春風と桜だったり、6月の雨と夏草の匂いだったり。
庭に咲くミヤコワスレの鮮やかな紫色も。
この時だけは、姉を感じることが出きた。
——あの日の作品は、とても汚くて、綺麗だったな。
俺の世界から例え全ての色が消えても、キャンバスの彩りだけは消えない。




