1日目_
白波澪は、古いものが好きだ。
色あせた看板やポスター。角が丸くなった木の棚。背表紙の焼けた文庫本。少しだけ歪んだガラス戸。
古本屋や純喫茶は特に好きだ。
だからやたら詳しい。
ページをめくる乾いた音とか、古い紙とインクが混ざった匂い。コーヒーミルの低い回転音が、店の奥からかすかに響く感じとか。
理由はうまく言えない。
たぶん、時間が積もっている感じが好きなのだ。
なんだか、そういうのが安心する。
一回目はいつもの帰り道。
通り過ぎるだけの分かれ道の奥に、橙色の灯りが見えた。
「あ」
低い建物。深い藍色の屋根。小さなショーウィンドウ。赤いレトロ文字の看板。
本屋だ。
こんなところに?
澪は立ち止まった。
なぜか胸の奥が、すっと軽くなる。
ガラス越しに、本棚が見えた。
オレンジ色のランプが、背表紙を柔らかく照らしている。
紙の匂いが、風に混ざった気がした。
ああいう場所に行きたいと思う。
1、2年はもう行けていない。
静かな店で、誰にも邪魔されずに、ただ本を開いて、その世界に入り浸り、時間を溶かす。
想像するだけでも楽しい。
今度、絶対行こう。
今日は疲れてるし。また今度。
澪は通り過ぎた。
その夜、ベッドの上でスマホを開く。
地図アプリに、場所を打ち込む。
何も出ない。
店名も、ピンも、口コミもない。白い空白。
「え?」
拡大する。縮小する。ストリートビュー。
その場所には、ただのコインパーキングしか映っていない。
見間違い?
でも、たしかにはっきり覚えている。
次の日、確認しに行った。
何もなかった。本当に、駐車場。
澪はしばらく立ち尽くす。
まあ……見間違えか。
最近ちょっと、疲れてるし。
そして今日が二回目。
またあった。
今度は遠くからでもわかった。
橙色の灯りが、夜の空間ににじんでいる。
前見かけたときと同じ日付。同じ帰り道。
分かれ道の奥に、本棚の影が揺れる。
今度は、前よりはっきり見えているような気がする。何だか逃げ道みたいに。
澪は立ち止まる。スマホを開く。
やっぱり、何もない。白い空白。
本屋は、地図に存在しない。でも、目の前にある。
扉の上の小さなベルが、かすかに揺れる。
風は、ないのに。
紙の匂い。インク。古い木。
そして、なんだか胸の奥が、ざわつくような匂い。
(……同じだ)
3ヶ月の、あの夜。湿った空気。スマホの画面の光。鳴り続けた、着信音。
そして、この日付。
偶然。きっと、偶然。
澪は首を振る。
考えすぎ。
でも、足は止まらない。
レトロな本屋。地図に載らない。怪しい。
それでも、時間が積もった場所は嘘をつかない気がしてしまう。
古いものは、ちゃんとそこにある気がしてしまう。
根拠はない。
ただ、そう思いたいだけかもしれない。
「……一回だけ」
誰に言うでもなく、呟く。
分かれ道を曲がる。
砂利を踏む音が、やけに大きく響く。
ガラス戸に手をかける。冷たい。
その瞬間、店内の灯りが、ふっと揺れた気がした。
背後の通りが、妙に静かになる。
澪は、そっと扉を引いた。




