第二部:巨大な渦と繋がる仲間
新道診療所の日常は、嵐の前の静けさに似ていた。
『海』と名付けられた男は、穏やかに回復していく身体とは裏腹に、記憶の霧は晴れることなく、ただ無為な日々を過ごしていた。
彼の過去を示すものは何一つなく、その存在は、この小さな港町にとって、優しくも厄介な謎となっていた。
その日の午後、海は病室のベッドに腰掛け、つけっぱなしになっていた、テレビのワイドショーをぼんやりと眺めていた。
『……連日お伝えしている、武藤俊之、厚生労働副大臣の、贈収賄疑惑です。武藤副大臣は、アステリア製薬が開発した、新薬の承認プロセスに、不当な介入を行った見返りに、多額の資金を受け取っていたと、みられています……』
それに群がる報道陣が映し出されている。
「アステリア製薬」その単語が耳に届いた瞬間、海の頭の奥で、錆びついた何かが軋むような音がした。
ズキン、と鋭い痛みがこめかみを走る。
目の前が白く点滅し、脳裏に一瞬だけ、意味をなさない映像が浮かんだ。
-----顕微鏡のレンズが映し出す、細胞の羅列。
-----パソコンのモニターに並ぶ、膨大な臨床データのグラフ。
-----誰かが羽織らせてくれた、白衣の感触。
それはほんの刹那のフラッシュバック。
映像はそれ以上具体化することなく、すぐに深い霧の中へと掻き消えていく。
しかし、確かに何かの「感覚」だけが、彼の心にざらりとした感触を残した。
「う……っ」
海は頭を押さえ、苦痛に顔を歪めた。
そして、乾いた唇から、自分でも意識しないままに、記憶の欠片が言葉となってこぼれ落ちた。
「……アステリア……のデータは……おかしい……」
その呟きは、か細く、ほとんど吐息に近かった。
だが、ちょうど薬を持って部屋に入ってきた新道の耳は、その不穏な響きを正確に捉えていた。
「海さん、どうした。大丈夫か」
新道が駆け寄ると、海はハッとしたように顔を上げた。
今の呟きを覚えていないのか、ただ激しい頭痛に耐えるように眉をひそめている。
その夜、診療所のすべての業務を終えた新道は、一人、院長室のデスクでパソコンに向かっていた。
静かな部屋に、キーボードを叩く音だけが響く。
検索窓に、彼は二つの単語を打ち込んだ。
【アステリア製薬 新薬 データ】
エンターキーを押した瞬間、画面に表示された、専門的な記事や論文のタイトルを、新道は氷のように冷静な目で見つめていた。
表層的なニュースの裏に隠された、医学的な不正の可能性。
海がこぼした無意識の言葉が、この巨大な闇の奥へと続く、唯一の道しるべだった。
東京の巨大な疑獄事件と、北の港町に流れ着いた一人の男。
その二つを繋ぐ細い糸を、新道は静かに手繰り寄せようとしていた。
新道が、アステリア製薬の、黒い噂を調べ始めて数日後の深夜。
診療所が静寂に包まれる中、その均衡は無遠慮に破られた。
裏口の鍵が特殊な工具でこじ開けられ、音もなく侵入してくる一つの影。
先日取り逃がした男とは違う、さらに大柄で冷徹な目をした男だった。
目的はただ一つ、海のいる病室だ。
物音に気づいた海が身を起こしたのと、男がドアを開けて、飛び込んできたのはほぼ同時だった。
男の手には、薬剤が充填された注射器が握られている。永遠に口を封じるための最終手段だ。
「!」
海は恐怖に駆られてベッドから転がり落ちる。
男が振りかざした腕を、咄嗟によけたが、その勢いでベッドの硬いフレームに、側頭部を強かに打ち付けてしまった。
「うっ…」
短い呻き声を上げ、海はその場に崩れ落ち、意識を失う。
男が気絶した海に再び向き直った、その時。
「そこまでだな」
地を這うような低い声と共に、院長室から現れた新道が男の前に立ちはだかった。
「医者が邪魔をするな」
男は殴りかかってきた。しかし、次の瞬間、男は天井を見上げていた。
新道は男を投げ飛ばした。巨体の体が軽々と。
相手の力を利用した、合気道のような武術で、最短の動きで男を翻弄していく。
その一連の動きは、ただの町医者のものとは到底思えなかった。
男が体勢を立て直す間もなく、新道は関節を的確に決め、あっという間に男を取り押さえる。
ほぼ同時に、パトカーのサイレンが、けたたましく近づいてきた。
新道が応戦してる時に、美園が警察へ通報していた。
駆け付けたのは、栄慎之助ではなく、余市警察署の私服刑事だった。
恰幅のいいベテラン刑事は、取り押さえられた男と、その上に冷静に佇む新道を見て、驚きもせず言った。
「久しぶりだな、新道。こっちの田舎に来てまで、厄介事を引き寄せる体質は変わらんな」
「豊水さん……。こいつは殺人未遂の現行犯だ。引き取ってくれ」
刑事の豊水は、新道の過去を知る数少ない人間の一人だった。
信頼できる仲間の一人だ。
豊水は手際よく男に手錠をかけながら、新道に小声で尋ねた。
「で、今度の厄介事の種は、そこの気絶してる男か?」
「話したいことがある」
意識のない海が処置室に運ばれ、美園が付き添う中、新道は院長室で豊水にすべてを話した。
海が流れ着いたこと、アステリア製薬の名前を呟いたこと、そして今回の襲撃。
豊水の表情がみるみる険しくなっていく。
「アステリアと武藤…か。東京じゃ、きな臭い噂が絶えん。わかった、この男の身元と合わせて、裏から探ってみる」
口は堅いし、仕事は確実な男だった。
翌朝。
陽の光が差し込む病室で、海は、ゆっくりと目を開けた。
「………」
徐々に意識がはっきりしてくる。
頭を打った衝撃が、閉ざされていた記憶の最後の扉を破壊したのだ。
ベッドの脇で心配そうに見守っていた新道と美園に、彼は言った。
その瞳は、もう記憶を失った男のものではなかった。
「……思い出した。すべて」
そして、海は自分の失われた過去を、すべて語り始めた。
福住渉41歳。東京の大学病院に勤める優秀な外科医だったこと。
武藤副大臣とアステリア製薬の、癒着の現場を偶然目撃してしまったこと。
正義感から癒着の一部始終の音声を録音し、内部告発を決意したが、その動きを察知され、命を狙われたこと。
「身の危険を感じ、ある場所にデータを隠し、友人の助けで一時的にロシアに身を隠していた。そこで、日銭を稼ぐために闇医者のような事もしていた。だが、武藤の手先はそこまで追ってきた。追い詰められ、貨物船から海に飛び込んで…気づいたら、先生の前に」
すべてのピースが、今、繋がった。
これは、国家を揺るがす巨大な不正の真実をめぐる、命を懸けた戦いだった。
福住は、新道に向かって深々と頭を下げた。
「先生、俺はもう逃げない。あいつらの不正を、この手で白日の下に晒したい。力を貸してくれないか」
新道は、静かに頷いた。
彼の瞳にもまた、医師として、一人の人間としての、闘いの炎が燃え上がっていた。
積丹の小さな診療所が、巨大な権力に立ち向かう最前線基地となった瞬間だった。
余市警察署の取調室は、重い沈黙に支配されていた。
豊水が、新道診療所で捕らえられた男と対峙している。
「名前は。所属は。誰の指示だ」
豊水の鋭い問いかけに、男は顔に浮かべた無数の傷跡を歪め、せせら笑うだけ。
その道のプロであり、決して口を割らないという強い意志が感じられた。
取調室を出た豊水は、待機していた若手刑事に指示を飛ばす。
「こいつはハズレだ。何も話さん。それより、"海"と名乗っていた男の行方不明者届と、黒い車をもう一度洗い直せ。奴らは必ずまた来るぞ」
「はっ!」
敬礼し、走り出す。
豊水は苦々しく呟いた。敵は、警察組織の内部にまで影響力を持つ巨大な存在なのだ。
その時、豊水の携帯が鳴った。新道からだった。
「豊水さんか。海の記憶が完全に戻った。すべて聞いた」
新道は、電話口で福住渉の告白のすべてを、冷静かつ正確に伝えた。
それは、武藤俊之の不正を立証する上で、あまりにも生々しく、決定的な証言だった。
「…わかった。そいつは国家をひっくり返す爆弾だ。福住さんを絶対に外に出すな。すぐに警備を増員させる」
受話器を置いた豊水は、迷わず電話を手に取り、東京の警視庁にいる特定の人物に回線を繋がせた。
相手は、警察キャリアである本郷静香管理官。
豊水が若手時代から、共に数々の難事件を解決してきた、
数少ない盟友だった。
「静香か、俺だ。北海道でとんでもない大物が釣れた」
豊水から事の次第を聞いた本郷の判断は早かった。
「証人保護が最優先事項。だけど、こちらからでは時間がかかりすぎる。札幌中央署の轟巡査部長を至急、そちらへ向かわせる。彼は私の息のかかった男。腕は確かよ」
その指令は、すぐに札幌中央警察署、組織犯罪対策課の轟春馬巡査部長へと飛んだ。
電話口で多くを語らず、事の次第を簡潔に伝えた。
「了解」とだけ答えた轟の目には、獲物を見つけた狩人のような鋭い光が宿っていた。
その頃、新道診療所は物々しい雰囲気に包まれていた。慎之助に加え、
余市署から派遣された複数の制服警官が、固い表情で周囲を固めている。
病室で、窓の外に立つ警官たちを見ながら、福住が新道に呟いた。
「俺のせいで…皆さんを危険な渦に巻き込んでしまった」
その言葉に、新道は静かに首を振った。
「あんただけの問題じゃない。人の命を金儲けの道具にする奴らを、医者として許しておけない。
これはもう、『俺たちの戦い』だ」
東京の巨大な闇と、北の小さな診療所。
点と点が線で結ばれ、今、反撃の狼煙が上がろうとしていた。
札幌から積丹へ向かう海岸線を、一台のセダンが静かに疾走していた。
ハンドルを握るのは、札幌中央署の轟春馬巡査部長。
警視庁本郷静香管理官の札幌における片腕である。
彼はあくまで「非番を利用して釣りに来た男」として、この町に降り立った。
轟はまず、余市署で豊水刑事と合流し、新道診療所へと向かった。
「札幌中央署の轟だ。非番で来ている。気にしないでくれ」
彼はそう言うと、福住、新道、そしてその場にいた、栄と美園を値踏みするように見渡した。
その目は、一瞬でそれぞれの人間性を見抜こうとするかのように鋭い。
「豊水さんから話は聞いた。この件、公式には動けん。武藤ほどのタマになると、どこに内通者がいるか分かったもんじゃない」
轟の言葉に、部屋の空気が一層引き締まる。
「警察が動けば、情報が敵に筒抜けになる可能性がある。だから、別の手を使う」
轟は携帯電話を取り出し、登録された番号の中から一つを選び、電話をかけた。
「俺だ。頼みたい事がある、隼人。厄介な案件だが、頼む」
その電話の相手は、札幌にある小料理屋を構える店主、雅宗隼人。
轟とは幼馴染、彼の手助けで探偵チックな事を常連仲間とやっている。
「調査対象は『アステリア製薬』。金の流れ、反社との繋がり、役員の女関係まで、根こそぎ洗ってほしい」
電話口の向こうで、雅宗が静かに笑う気配がした。
「わかったよ、春馬、待ってろ」
翌日、新道診療所の院長室に、新道、福住、そして轟が集まっていた。
そこへ、轟の携帯が短く振動する。画面には「雅宗」という名前。
「春馬さん、諒平です。大将からの指示で、第一報を」
(諒平小料理屋「雅宗」常連で在宅SE、信頼できる仲間の一人だ。)
スピーカーフォンから聞こえてきたのは、若いが落ち着いた声だった。
「アステリア製薬、やはり真っ黒です。経理担当役員の一人が、都内の広域暴力団『北辰会』の幹部と姻戚関係にあります。武藤への裏金の一部が、この北辰会に流れている可能性が極めて高い。さらに、北辰会は『トラブル処理』…非合法な手段での揉み消しを得意としており、過去に複数の企業恐喝や証人脅迫に関与した疑いが濃厚です」
報告を聞き終えた一同は、言葉を失った。
敵の姿が、より具体的に、そしてより凶暴な形で浮かび上がってきた。
政治家だけでなく、その裏には巨大な暴力組織が控えている。
福住渉が命を狙われたのも、この北辰会の仕業である可能性が高い。
轟が、まるで楽しむかのように口の端を上げた。
「面倒なことになってきたな。だが、尻尾は掴んだ。これからが本番だ」
福住渉は、自分が足を踏み入れた闇の深さを改めて思い知らされた。
だが、彼の心に宿った炎は、もはや消えることはない。隣に立つ新道も、同じ目をしていた。
反撃の駒は、盤上に揃った。あとは、誰が、いつ、どこに「王手」をかけるかだけだった。




