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無職日記  作者: 松茸
99/106

10/10 オモイデガリ

「あなたの思い出を借りたいのです」


 毛場と名乗った老人はそう言った。今日初めて会ったばかりである。以前はそれなりに大きな会社の社長だったらしいが、いまは引退して隠居の身であるらしい。


「思い出を借りる?」

「あなたのような若い方は、まだ昔の思い出が鮮明に思い出せるでしょう。でも歳を取るとそうもいかない。昔のことはもうおぼろげにしか思い出せないのです」

「はあ……」


 老人が何を言っているのかはよくわからなかった。僕はお金になるバイトがあると聞いてここを紹介されたのだ。ギャンブルの借金がかなりかさんでいる。知り合いに借りた分はともかく、消費者金融に借りた金は早いうちに返さないとまずいことになる。そのために焦っていたのだ。


「僕はバイトということで伺っているんですが」

「ええ、ええ、承知しています。あなたの思い出を貸して下されば、5万円を差し上げましょう」

「5万円!」

「思い出というのは誰にとっても大事なものですからね。そのくらいのお支払いはさせてもらいますよ」

「そ、そういうことなら……でもどうやって思い出を貸せばいいんです」

「簡単なことです。私に語ってくれればいいのです。できるだけ細部まで鮮明に思い出せるものを」

「じゃあ……」


 僕は中学校時代の初恋の思い出を語った。多少の恥ずかしさはあったが5万円のためだ。できるだけ細かく思い出した。初恋の相手の名前は柚月順子。おさげの髪の純朴な雰囲気の子だった。そんなに美人というわけではなかったが、笑顔が魅力的だった。同じクラスだったが接点はなかった。だが夏祭りの日、クラスのみんなで連れ立って行こうということになり、そのなかに彼女がいた。浴衣姿の彼女はとても綺麗に見えた。僕たちは自然と仲良くなり、付き合うようになった。


「いい思い出ですね、実に初々しい」


 老人は満足したようだった。


「この思い出を私に貸してくれますか」

「ええ、いいですよ。こんなものでよかったら……」


 老人は5万円を財布から取り出し、茶封筒に入れて僕にくれた。


「ではありがたくお借りします。もし返してほしくなったらおっしゃってください。ただ、その場合は半額を返金していただくことになりますがよろしいですか」


「は、はあ、なるほど」


 半額を返すだって? 冗談じゃない。思い出なんて何の腹の足しにもならないものを返してもらってもしょうがない。待てよ。貸すだけでその値段ということは、ひょっとして……


「あの、もしその思い出をお譲りするとしたら、なんというか、その、値段のほうも上がったりするんでしょうか」


 老人はその言葉を待っていたかのようににっこりと微笑んだ。


「もちろんです。買取の場合は追加でさらに5万円差し上げましょう」

「本当ですか! じゃあ売ります売ります!」

「では買取ということでよろしいですね」


 僕は壊れた人形みたいに頷いた。こんなことで10万円が手に入るなんて夢みたいだ。


「もし他にも思い出をお持ちでしたら、明日もお越しください。同じ額をお支払いしますよ」


 僕は10万円を手にして老人の家を出た。久しぶりに懐が温かくなった。消費者金融には13万円の借金がある。この10万円を返済にあててもいいが、それでは1円も残らない。僕は迷うことなくパチンコ店に入った。この10万円を15万円にすれば、借金を完済してもお釣りがくる。これだけの軍資金があるのだ。そのくらいの夢は見てもいいだろう。


 だが思ったように当たりが来なかった。軍資金の10万円はみるみるうちに溶けて消えた。手元に残ったのは千円ばかり。それで帰りに牛丼を食べた。まあいいか。あの老人は明日も同じように思い出に金を払うと言っていた。明日また10万円をもらってそれでもう一勝負すればいい。


 しかし変な老人だ。他人の思い出に金を払うなんて。あんな昔の……あれ? いつの話だっただろう。今日、僕が彼に売った思い出は。思い出そうとしたが、頭に白いもやがかかったみたいに何も出てこない。小学校……いや高校か? そもそも何の話だったかも思い出せない。まあいいか。どうせそんなに大した思い出というわけでもない。過去なんて何の意味もない。大切なのはいまだ。


 僕は翌日も老人の家を訪ねた。老人は快く僕を迎えてくれた。


「今日はどんな思い出をお売りいただけるのですかな」

「それなんですが……実は何個かあって。いくらでも買い取ってくれるんですか」

「それはもう、いくらでも。ただし、本当の思い出にかぎりますよ。なかにはお金が欲しいばかりに嘘の思い出を語る者もいますからね。そういう方とは取引できません」


 老人はそう言って僕の目をじっと見つめた。その目に一瞬鋭い光が走ったように見えた。僕は釘を刺された気分だった。いざとなったら嘘っぱちの思い出話をでっち上げようと思っていたのだ。


「ははは、まさかそんな嘘だなんて。僕の思い出は正真正銘、本物ですよ」

「ええ、もちろんそうでしょう。昨日もそうでした。今日のお話も楽しみですな」


 僕はふたつの思い出話を語った。


 ひとつは小学生のとき、飼っていた犬を逃がしてしまって、慌てて捜しにいったとき、山の中に入ってしまって迷子になったこと。父に見つけられるまで心細くて暗い山の中で泣いていた。犬は結局戻ってこなかった。僕は父に怒られるかと思ったが、父は僕を一言も叱りはしなかった。ただ黙って抱きしめてくれた。その温もりをいまでも覚えている。


 もうひとつは高校生のとき、悪い友人たちと付き合っていた。隠れて煙草を吸ったり、深夜にゲームセンターに行ったり、そういうのがカッコいいと思っていた。だが本当は無理をしていたのだ。悪い友人たちは僕をパシリのように扱っていた。ある日、コンビニで酒を万引きしてこいと言われた。僕は震えながらウイスキーの瓶に手を伸ばした。でも背後から「やめなよ」という声が響いた。振り向くと同じクラスの田中だった。ほとんどしゃべったことはなかったが、名前は知っていた。勉強のできるやつだった。「つまんないことで人生を無駄にするなよ」僕はその日以来、悪い友人たちとは縁を切った。代わりに田中が一番の友人になった。


「どちらもいい思い出ですな」


 老人は満足そうに頷いた。そして20万円をくれた。


「またお待ちしていますよ」


 そう言った老人の瞳には何か奇妙な光が灯っているように思えた。


 20万円を手に入れた僕はホクホクだった。大きく増やそうと思って競艇にその金を突っ込んだ。一時的に増えることもあったが、結局はすべてなくなった。だが構わなかった。僕には打ち出の小槌があるのだ。思い出をまたあの老人に売ればいい。それでいくらでも金が手に入るのだから。軍資金は永久になくなることはないのだ。


 僕は毎日あの老人の家に足を運んだ。そして思い出を語った。老人は快くそれを買い取ってくれた。そんな日々が何日……何週間続いただろう。僕は老人の家を訪れて言った。


「もう……何もないんです。思い出が……僕にはもう思い出せるものが何ひとつないんです」


 何も思い出せない。僕の頭の中は空っぽだった。それはまるで白い空白だった。僕は震えていた。歯がカチカチと音を立てていた。思い出を切り売りしていった結果、僕にはもう何も残ってはいなかった。そこに至って僕はようやく気付いた。自分がとんでもない過ちを犯してしまっていたことに。


 老人はそんな僕の姿を見て、実に満足そうに笑った。口の端を、にい、と釣り上げて。それは心の底からの笑みだった。歓喜と愉悦とが開かれた口から邪悪に漏れ出ていた。


「ようやくすべてを出し尽くしましたね。あなたの思い出のすべてを。私はそれを待っていたのです」


「お願いです。思い出を返してくれませんか」


 僕は懇願した。財布を取り出して、ありったけの金をぶちまけた。もう金なんてどうでもいい。何もないということに耐えられない。記憶を探っても何もないということ、それは他のどんな苦痛よりも苦しいことなのだ。心を病むことなのだ。そのことを僕は身をもって知った。知ってしまった。


 ふふふふふ、と老人は笑った。


「理解しましたか。ひとは思い出によって生かされているのです。思い出とは現在の自分を形作る過去そのもの。その集積によってひとはできています。それがなければ、ひとは宙ぶらりんになってしまう。存在する意味を見失ってしまう。当然です、あなたの現在も未来も、すべては過去の延長にあるのですから。それがなければ、あなたは何の意味もない人間になるのです」


「あなたはなぜこんなことを」


「言ったはずです。私はあなたの思い出を()()()()のだと。あなたのような未来ある若者から思い出を狩りつくすことが、老いた私に残された唯一の娯楽なのです。私はあなたを破滅させたかったのです。時間と思い出の価値を理解しない、愚かな若者のあなたをね」


 老人の哄笑が響き渡る。だが僕の耳はもはやその声を捉えてはいなかった。僕は空白の世界にその身を委ねていた。そこには何もなかった。僕がこれから生きていく上で寄る辺とすべきもの――いまの僕を形作り、これからの僕を導いてくれる何よりも大切なものが。かつては確かにそこにあったはずなのにいまはもう、どこにもない。


 やがて白い光が僕を飲み込んで、僕の目には何も映らなくなった。




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