10/9 ナモナキマン
私が変身しなくなってからもうじき10年になる。
昔はヒーローとして、街で暴れている悪者を倒していた。名もなきヒーロー、ナモナキマンと言えばヒーロー界隈でもちょっとは知られた存在だった。私は悪者をなぎ倒し、人々に感謝されていた。それが私の生きがいだった。あの頃は本当に毎日が充実していた。
じゃあどうしてそれをやめてしまったのかというと、それは変身ベルトをなくしてしまったからだ。無敵のヒーロー、ナモナキマンに変身するためのナモナキベルト。それがなければ私は変身することはできない。ただの無力な一般人にすぎない。
なぜベルトをなくしてしまったのかはわからない。いつの間にかなくなっていたのだ。妻に洗濯物を出すように言われて、ヒーロースーツと一緒にベルトを渡した。ような気がする。記憶は曖昧だ。悪者と戦って疲れていたのだ。当時私は35歳で、変身しても思うように身体が動かないことが増えてきていた。腹も出ていたし、髪も薄くなっていた。記憶力も衰えていた。だから私の勘違いだったのかもしれない。妻はベルトなど受け取ってないと言った。彼女は洗濯して乾かしたヒーロースーツにアイロンをかけながらいった。
「ベルトなんてもういいじゃない。こんなのいつまで続けるの」
私たちはしばらく見つめ合った。アイロンはそのときずっと同じ場所にあり、私のヒーロースーツにわずかな焦げ目を作った。私は頷いた。そうだな、と言った。そろそろ潮時かもしれない。私の顔は腫れていた。青あざができて、まぶたが垂れ下がって片目は上手く見えなかった。視界の片隅で妻が泣いているように見えた。私はベルトのことは忘れることにした。私のヒーロー活動は終わったのだ。
それから10年が経とうとしている。
時代は変わった。
昔活躍していたヒーローたちも歳を取った。私と同じように。彼らは老体に鞭を打って悪者に挑んで返り討ちにされることも増えてきた。悪者は近代的な武器を持つようになった。ヒーローたちは相変わらずパンチやキックで戦っている。それではもう勝ち目はない。いまは悪者の相手をするのは警察や軍隊の仕事だ。ヒーローはもう必要とされていないのだ。
「あなたの同期のマサキチ仮面いたじゃない。あのひと、警察に捕まったらしいわよ」
新聞を見ながら妻が言う。マサキチ仮面は私と同い年のヒーローだ。まだ現役で活躍していた。彼の荒々しい戦闘スタイルは昔はとても評判だった。悪者を倒す際に街の住居や店などに被害が及ぶこともあった。昔はそれが許されていた。だがいまはもう誰もそれを許してくれない。暴行罪や器物損壊罪など様々な罪名で検挙されることになる。いまではもう、ヒーローも悪者も世間からしてみたら同じ扱いなのだ。
多くのヒーローたちが廃業していくなか、マサキチ仮面は私と同世代のヒーローの最後の砦だった。
「おれにはこれしかできない」
彼は飲むといつもそう言った。
「おれは死ぬまでヒーローだ。それしかできないんだから」
ヒーローをやめた私には彼がとてもまぶしく見えた。
「この道より我を生かす道なし。この道を歩く」
作家の武者小路実篤の言葉だ。私も昔はこの言葉を胸に抱いていた。だがいつの間にか私はそれをなくしていた。恐らくは、ナモナキマンの変身ベルトをなくすよりもずっと前に。
私は世界の平和よりもささやかな幸せを選んだ。穏やかで、平凡な日常を選んだ。それは不実だろうか。私はヒーローとしての責任から逃げただけではないのか。時折そのような疑問が私のうちに湧いてくる。会社でデスクワークをしたり、外回りをしたり、部長に頭を下げたりしているとき、そして、夜中にひとり目が覚めたときなどに。
私は夜の闇を見つめる。目を凝らしてもそこには何も見えない。その深い闇は人の心の奥底のように暗く、何も映し出してはくれない。私はそのことに恐怖を覚える。身体が震える。心が叫ぶ。だが声は出ない。私は闇の中にひとり取り残されたように感じる。深い闇に吸い込まれそうに感じる。だがそんな私の手を握るものがある。いつの間にか妻が目を覚まし、私の手を取ってくれている。彼女は言う。
「戦うことだけが戦うことじゃない」
まるで禅問答のような言葉だが、その言葉は私のなかにすっと入っていく。やさしい雨が大地に染み込むように。戦うことだけが戦うことじゃない。そう、ヒーローだけが戦う道というわけではない。ひとはみな戦っている。いつの瞬間も。絶えることなく。傷つきながら、それでも立ち向かっている。
「ヒーローはどこにでもいるんだな」
私は言う。妻は微笑む。
「あなたはヒーローをやめたわけじゃない。あなたはずっとヒーローだったのよ」
私は安心して眠りに就く。
私の平穏な日々は続く。やがて引っ越しの日がやってくる。私は課長となり、子供も生まれようとしている。郊外の小さな家をローンで購入した。いまのアパートからそこへ引っ越すのだ。押入れを整理していると奥の方からあるものを見つける。見慣れていたはずのそれは、いまはなぜか初めて見るように思えた。私はそれを「不用品」のラベルが貼られた段ボール箱のなかに入れた。