9/24 小生が赤いからでしょうか
なんか最近急に涼しくなったなあと思う。
過ごしやすい季節が到来してしまった。
でもずっとサーキュレーターをつけていたから、それがないとなんか落ち着かないような気がして、結局夜中とかもつけたままにして朝方寒い寒いと震えている。私はつまりそういう無職なのだ。ホント無職って何の価値があるのかしら。
文芸誌のGOATを読んでるけど、ちょっと量が多すぎるな。それに私はそもそもそんな活字中毒というわけではない。それなりに小説は読むが、実のところは漫画のほうが好きだ。絵があったほうが読みやすいじゃないか。文章だけというのはなかなかにハードルが高い。
自分が好きな作家であれば安心して読めるのだが、こういう雑誌では知らない作家がほとんどだから、ちょっと身構えてしまう。尾崎世界観とか麻布競馬場とかふざけた名前の作家もいる。そういう作家の作品は大抵つまらない。ペンネームからすでにセンスが問われているのだ。そう考えると私の松茸というのはどうなんだろう。なめことかしいたけにしたほうがよかったかもしれない。
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ところで、この文芸誌のなかで、加藤シゲアキが「手紙」をテーマにした短編文学賞の選考委員長を務めていた。写真が載っている。すごいカメラ目線で、目力がすごい。こっちみんな。なんか自分にすごい自信持ってそうだなあと感じる。アイドルで作家ときたらそれも無理のない話なのかもしれない。
みんなそうかもしれないけど、私は芸能人が小説を書くということには懐疑的である。本当にいいものを書いているのだろうか。評論家が褒めているのも、商業的な思惑が働いているのではないだろうか。そのように感じてしまう。かつては水嶋ヒロなんかもとんでもない作品で文学賞を取ったことがある。あれは完全に出来レースだっただろう。
でも加藤シゲアキについてはそうでもないらしい。小説もいくつか発表してるしね。何作も始まりと終わりのある物語を書けるというだけでも才能のある証拠である。いい出来かどうかは知らないが。私は読んだことがないのでその点についてはわからない。恐らく今後読むこともないだろう。
ただ彼は自分ではすごく自信を持っちゃってるみたいだ。選考のコメントで、一線級の作家よりも作家みたいな顔をして上から目線で偉そうなことを言っている。選考に関しては「自分だったらこうする」みたいなことをずっと話していたらしい。
それ選考でする必要ある?
選考ってすでに出来上がったものを選ぶ作業じゃないのかしら。「おれだったらこうするよ」って言われて応募したやつはどう思えばいいのだろう。「そうなんですね、勉強になります」と言わせたいのだろうか。自己中が炸裂しちゃってる。写真を見て感じたんだけど雰囲気が私の知り合いのトリイさんに似てるんだよね。やっぱりおれがおれがって感じなんだろうか。性格は顔や雰囲気に現れるからね。それは隠そうと思ってもなかなか隠し通せるものではない。
その文学賞のテーマは「手紙の味」らしい。
大賞は「手紙に味なんていらない」という女生徒ふたりによる掛け合いが味がある小説。
私が気になったのは「水曜の蟹」という隣の空き地に蟹が引っ越してきて挨拶にくるというもの。でもこれは加藤シゲアキは気に入らなかったみたいだ。手紙が蟹のところに誤配されるのだが、そこで蟹が「小生が赤いからでしょうか」と言う。なかなか面白いじゃないかと思うのだが、加藤シゲアキはそれがおかしいと噛みつく。ポストと間違えられるんだったら、他にもいろんなものが届くはずじゃないかと。
何言ってんの?
これはシュールギャグの話ではないのだろうか。そもそも蟹が引っ越してくることがありえないわけだから、そこに文句を言うなら最初から成立しないことになってしまう。批判するなら独自性の薄さを指摘すべきだろう。村上春樹の『あしか祭り』を容易に連想してしまうからね、もう少し差別化を図るべきだろうと私は思うが。
しかし加藤シゲアキは「こういうアクロバティックなものこそ、ディテールのリアリティが大事だと思うんです」なんていっぱしの作家ぶって見当はずれなことを言っている。他の選考員も大変そうだ。他のふたりはちゃんと褒めてる。作品の性質を正しく理解し評価している。選考委員長が加藤シゲアキじゃなかったら大賞だったかもね。まあ運が悪かったということでしょうがない。そういうこともある。
世の中にはいろいろと理不尽なことがある。納得のいかないことがある。でもそれはしょうがない。そういうものなんだから。何もかもが自分に都合よく作られているわけじゃない。
私も無職のおっさんになってようやくそういうことがわかってきた。