8/12 ババヤガの夜についての書評
※ネタバレを含みます。
『ババヤガの夜』を読んだ。
帯には日本人作家初!ダガー賞受賞作とあり、世界でも評価されているということが書き連ねてあったので少し期待して読んだのだが、中身は何ということもないポリコレに寄せ切っただけのものだった。恐らく純粋に内容を評価されているわけではないのだろう。
ポリコレとは、「ポリティカルコレクトネス(Political Correctness)」の略で、人種、性別、年齢、障害の有無など、あらゆる差別や偏見をなくし、マイノリティや社会的弱者を守るための考え方や対策のこと。日本語では「政治的正しさ」や「政治的妥当性」と訳されるらしい。
昨今、あらゆる文化を破壊しつくしている諸悪の根源である。
思想自体は立派なもののように思えるが、現実的には新たな差別と弾圧を生み出しているだけのこと。多様性を尊重しようと言いながらひとつの思想を強制し、不寛容な社会を創り上げている。ポリコレを絶賛しなければ差別主義者として批判され、社会的生命を断たれることになる。だからみんなポリコレの顔色を窺って生きている。
黒人差別とLGBTQをテーマにした『頬に哀しみを刻め』でも感じたが、最近では文学もポリコレを意識しないと評価の対象にならないらしい。なろうのテンプレと何が違うのだろうか。結局は流行があり、それに乗っかっているだけのことだ。
最近の流行は女性差別だろうか。『ババヤガの夜』はそれに合わせて作り上げたもの、という印象を受けた。特に新規性があるわけでもない。現実的でもない。文章はもちろん巧いが、キャラクターは記号的だ。
主人公は混血で不細工で大柄な女性。腕っぷしが強く、気も強い。男相手にも屈することはない、というテンプレそのものの設定。ヤクザの屋敷にさらわれてきてお嬢様のボディガードをやらされることになる。まずこの時点で現代日本の話とは思えないが、そこは置いておいたとしても、お嬢様というのがまた現実離れした古い因習に縛られる女性という設定である。
昨今、「女性は生き方を強制されている」という考え方がポリコレ界隈では大流行りだが、こんなものを世界で持ち上げては日本が誤解されかねない。一体日本のどこに、決められた許嫁がいて、ひとりの友達とも遊ばず、毎日決められた稽古事を文句ひとつ言わずにこなす高校生がいるというのか。
空想小説でもないのに、まったく現実に即していないこんな話を読まされて、私たちはそこから何を受け取ればいいのだろう。何を教訓とすればいいのだろう。ありもしない差別から存在しないはずの差別主義者が生み出されるというこの世界の悲劇を婉曲的に皮肉っているのだろうか。
「もうスカートとかネグリジェとかは着たないわ」
お嬢様は結局、屋敷を逃げ出すことになる。髪を切って、女らしい格好を拒否するようになる。このあたりはもう時代遅れのテンプレ感があるが、文学の世界は現実よりも一周くらい遅れているみたいなので、いまでもこんな描写が持てはやされるのだろう。男性的になることがなぜ女性の解放になるのか、まったく意味がわからない。男性なんかそんないいものじゃないよ。
読後感は正直、不快の一言。
主人公とお嬢様には逃げ続けるだけの救いのない人生が待ってるし、それをまるでいいことのように描くのは本当に小手先だけで物語を描いているという印象を受ける。
解説がまたひどい。
「自分はLGBTQに理解があり、我が国のジェンダーギャップ指数の絶望的な順位の低さに腹を立てている。社会的公平性や多様性を重んじるなかなかのリベラルだと思っていた」
などと臆面もなく述べるような人間が解説をしている。
私はこういうことを言い出す人間こそが本物の差別主義者だと思っている。彼らは差別のない世界に差別を持ち込み、他人にレッテル貼りしてマウンティングを始める。彼らは別に寛容でもないし、高潔でもない。ただ自分が気持ちよくなりたいだけの偽善者なのである。
本当に差別のない世界というのは、それがあることすら意識させない世界のことだ。昔の日本は限りなくそれに近かったと思う。「同性愛? 勝手にやれば?」「人種差別? なにそれ?」という社会だった。それは日本が世界に誇るべき寛容性だったはずなのに、ポリコレが浸透して日本も様変わりした。無関心が差別を助長するのだ、などというねじ曲がった論調が支配的になり、誰も彼もが「差別は許さない!」などという攻撃的な意思表示をしないと差別主義者とみなされるようになった。
このようにして世界はどんどん不寛容になっていく。
『ババヤガの夜』を読んで私は改めてそのことを思った。
世界は確実に終焉に向かっている。
無職ですらそう思うよ。