表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無職日記  作者: 松茸
18/110

7/21 猫とガリレオ

 猫飼いたい。


 でも飼えない。マンションがペット禁止だからだ。


 なので猫の動画を観る。私のオススメは『まんまるとらまる』だ。とらまるとももちという二匹のよく鳴く美猫が出てくる。猫の鳴き声というのはなぜあんなにも可愛いのだろうか。でも可愛い声を出すのは人間の前だけという噂もある。なんかそういう動画も観たことがある。だみ声で鳴き続けている猫が、人間を認めた瞬間にいきなり可愛い声を出す動画だ。あいつらは猫を被っているのかもしれない。さすがは本物の猫だ。


 ネットフリックスでガリレオの第一話を観た。


 福山雅治はなぜあんなにもかっこいいのだろう。本当に私と同じ中年男性なのだろうか? 福山雅治と私でなぜこんなにも違いがあるのだろう。世の中は実に理不尽だ。


 福山雅治演じる湯川先生は柴咲コウ演じる内海刑事から捜査協力を求められる。若者の頭に急に火がついて、そのまま焼死してしまったという事件で。湯川先生は事件を調査し、その現象に興味を持ち、実に面白いと発言する。するとなぜか内海刑事にキレられる。


「何が面白いんですか、人が死んでるんですよ!」


 いや、頼まれたから協力しているのに、興味持ったらキレられるってどういうこと? めちゃめちゃ理不尽だ。しかもそのあと湯川先生はなぜか反省する。あんなに怒られたのは初めてだ……などと言い出す。そして誤解を解くために歩み寄ろうとする。原作そんなキャラじゃないよね? 


 これはドラマあるあるだが、物語は女性の理不尽さによって進んでいくことが多い。感情に任せた身勝手な行動や言動によって。男性はそれに巻き込まれるが、なぜか「自分が悪いんだ、なんとかしなきゃ」みたいな考えになって事件を解決しようとする。論理的ではまったくない。


 でもこれが多くのドラマで採用されている手法だということは、視聴者は物語の整合性よりも感情の動きに重きを置いているということなのだろう。そのほうが共感が得られる。共感は論理を駆逐するのである。あるいはドラマの脚本家はこのパターンをやりすぎてこの手法でしか物語を動かせないのかもしれない。


 内海薫はもともと原作には登場しないテレビのオリジナルキャラクター。だから脚本もフジテレビの脚本家が書いたのだろう。ネタバレになるが、犯人は金属加工工場に勤めている人間で、レーザーの機械を使って被害者の頭部を燃やした。いつもは携帯で遠隔操作していたのに、内海刑事に見つかるときだけ工場にいて、鍵もかけていないというのもご都合主義のドラマあるあるだ。


 湯川先生は実証実験を行う。なかなか成功しない。内海刑事が「もういいですよ、事件は解決したんだし」と短絡的なことを言うが、湯川先生は実験を続ける。こういう描き方では、普通は別に真相があることを示唆している場合がほとんどだ。「おっとまだ何かどんでん返しがあるのか」と私は期待したが、別にそんなこともなく43回目で実験は成功する。そして湯川先生はこんなことを言う。


「犯人も同じだけ失敗したということだ」


 いや、実験でこれなら現実では43回では済まんやろ。永遠に成功しない可能性もあるし、そもそもその間に工場の誰かが機械の履歴で気づくだろう。「レーザーは金かかる」みたいなことも言われていたし、その発言を出しておいてとんでもない数の試行錯誤があったんだ、というのは整合性が取れない気がする。これは犯人の隠された残虐性を示すものだから、物語的には重要ではあるのだが。


 内海刑事の過去の話もひどい。何の脈絡もなくいきなり自分からしゃべりだす。過去に家族を殺されて……みたいな明らかな嘘話は、仮説を話してくれない湯川先生に話させるための手段として用いられるのだが、当然最後にそれが嘘であることが明かされるのだろうと思っていた。そうでなくては物語が締まらないからだ。


 案の定、それは明かされるのだが、その手法がひどい。湯川先生がたまたまテレビで見た海外ドラマの一場面が内海刑事の語った話と同じだった、という明かされ方なのだ。


 これでは偶発的にすぎるし、湯川先生がテレビドラマの内容に興味を持つのもキャラクター的に違和感がある。そしてこんな風にして明かされた嘘をあっさり許してしまうのも変だ。


 どう考えてもこれは内海刑事が自分から明かしたほうがいい。


「ああ、あれ嘘ですよ」


 こんな感じでサラッと明かしたほうが誠実だし、キャラが立つ。「騙されましたね」みたいな一言があってもいい。そのほうが湯川先生にも「こいつやるな」と思わせられるし、今後の二人の関係性を暗示することもできる。テレビの終わり方では内海刑事はただ嘘をついていただけの女になってしまう。刑事というキャラクターに必要な誠実さを示すことができておらず、逆に不誠実な人間という印象が強くなる。


 おそらく脚本家は湯川先生と内海刑事を「論理」と「感情」で対比させたいのだろうが、内海刑事のバックボーンの作り込みが甘いために対比も薄っぺらく見えてしまう。


 こんな感じで物語の構成的にはまったく褒めるところのないガリレオ第一話だが、そんなことは福山雅治の魅力の前には大した問題ではない。ドラマというのは俳優で成り立っているのだな、ということがよくわかる。このドラマのヒットの要因は間違いなく福山雅治個人の魅力である。


 香港かどこかにガリレオのイベントで行ったときに、現地での熱狂ぶりがすごくて、柴咲コウが福山雅治に「さすがスターですね」と言ったら、「スターじゃない。スーパースターだ」と返したという逸話がある。本人は冗談のつもりかもしれないが、事実だから困る。まったくすごい人間だ。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ