7/14 退職代行と不登校
退職代行が流行っているという。
GW明けとかよく騒がれてたよね。五月病で会社行きたくないな→退職代行という安易な流れ。ひどいのになると1日2日で辞めるらしい。Z世代は見極めが速い、というが1日2日で何がわかるというのだろうか。
昨今はコンプライアンスが非常に厳しくなっているから、昔よりも新人というのは楽だと思うのだが、それでもすぐに辞めてしまうというのはどういうことなんだろうと私のような無職でも不思議に思う。退職自体は悪いことではない。辞めたければ辞めればいいわけだが、それにしたって判断が性急すぎるし、代行というのもどうかなと思う。
人間は易きに流れていく生き物であるという。嫌なことがあればすぐに逃げてしまう。でも逃げ続けた先に何があるのだろう。それは自ら選択肢を狭めていく行為なのではないだろうか。自分の価値を落とし続けていく行為なのではないだろうか。そういうことに彼らは気づいているのだろうか。
何の経験もない人間が優遇されるのは新人の間だけ。スキルもなく、諦めも速い人間を誰が必要とするだろう。退職代行は便利なものではあるだろう。だが便利であるからこその落とし穴というものもあるのだ。安易な選択のツケはいずれ自分自身に返ってくる。手遅れにならないうちにそのことに気づけばいいと思う。
昨今、「つらかったら逃げてもいいんだよ」という考えが一般的になっている。
学校に行きたくなければ行かなくてもいい。不登校を支援する団体などもあるという。テレビで特集されているのを見たことがある。支援団体の人間は優しそうな笑顔を浮かべている。「逃げることは悪いことじゃないんですよ」と彼らは言う。「自分を責めないでください。逃げたっていいんです」
いや、責任とれんのか?
彼らは一生面倒見てくれるわけではない。不登校が引きこもりになって一生部屋から出ないようになったらどうするんだろう。つらかったら逃げていい、やりたくなかったらやらなくていい、そういう風に育てられた人間はどうなってしまうのだろう。何も身につけられないまま大人になって、親の庇護がなければ生きていけない。そんな自分を人は肯定できるだろうか。私はできないと思う。
恐らく、そういう風に育てられた人間は、最終的には親を恨むようになるだろう。「自分がこうなってしまったのはおまえたちのせいだ」と言うだろう。逃げたっていい、という言葉は一見いいことを言っているように思う。その安易な響きにつられそうになる。だがやっていることはただ問題から目を背けているだけなのだ。思考停止で諦めてしまっているだけなのだ。その先は行き止まりだ。道はない。そんなことは誰しもわかっているはずだが、逃げるほうが楽だから人は流されてしまうのだ。
教育が何のためにあるかというと、これは可能性を広げるためだ。学校や教育がすべてではないが、それは自身の可能性を広げてくれる。将来の選択肢を増やしてくれる。だから大切なのだ。それを他人がやらなくていい、などと言うのは無責任でしかない。教育の機会を奪うことは将来の可能性をも奪うこと。そんな罪深いことが他にあるだろうか?
現在、日本には引きこもりが推定150万人近くいるという。推定だから、あるいはもっと多いかもしれない。とんでもない数字だ。大人になってから引きこもるのは自己責任ということで仕方ないが、不登校からの引きこもりというのは防げるはずだし、防ぐべきだと思う。
ただ私もいざ自分の子供が不登校になってしまったら何もできないかもしれない。おろおろするばかりで、最終的には諦めてしまうかもしれない。子供を育てるのは大変だと思う。でも作ってしまった以上は責任があるだろうから、世のお父さんお母さんは頑張ってもらいたい。
無職も陰ながら応援している。




