霧子を斬る
〈春曇り草の繫茂もくすみたり 涙次〉
【ⅰ】
結果としてルシフェルは復活した。蘇生に際して、霧子が黑ミサの「祭壇」として呼ばれたのは、むべもない。
「もし、悦美と云ふ女の拐帯が失敗したのなら、霧子を呼べ」棺の中から、ルシフェルは云つた。
霧子は髙圓寺の「バスカー【魔】」と別れた後、また獨り、東京の町をふらふらと彷徨つてゐた。
彼女はルシフェルの呼び出しに應じた。またしても【魔】の世界に足を踏み入れたのである。
【ⅱ】
ルシフェル蘇生後、一回目の黑ミサの「祭壇」となり、彼女(霧子)は何を思つたのか。
彼女は一度ならず【魔】を裏切つた。然し、ルシフェルは、「裏切り」「内通」と云ふやうな、人間の世界では惡徳を示す言葉が、大好きなのだつた。
「ルシフェル様、一つお願ひが」と霧子。ル「何なりと申すがよい」霧「魔界の金庫から、幾許かのおカネを頂戴できませんか?」ル「お安い御用だ。我々にはカネなど、てんで意味を成さない」-これは「はぐれ【魔】」である「愉快【魔】」も云つた通りで、何でも實力行使する彼ら魔物たちに、流通貨幣の山などは叛故同然だつたのだ。
そのカネで、霧子は何を企んだのか。その發心は、カンテラに迷惑料として支払ふ、と云ふ、やゝもするとアンヴィヴァレントな願ひに基づいてゐた。
彼女が魔界に染まつた譯ではない事を、カンテラに示したかつたのである。だが、もう二度と「足拔け」出來ぬやう、ルシフェルは彼女の裸身の眞つ白な尻に、焼き鏝で烙印を押した。
彼女には昏い部分が多過ぎた。もはや人間ではない、その霧子である。烙印も【魔】としての彼女に、云ふなれば「箔をつける」事に過ぎなかつた。
【ⅲ】
魔界の出來事、カンテラがごきぶりの「シュ―・シャイン」から情報を得てゐる事は、前回書いた。当然、霧子復帰のニュースも届いた。
今度こそ霧子を斬らねばならないな、さうカンテラは(自ら翻心がないやう)己れを戒めた。
特に悦美の身を狙つてきた、魔物らである。カンテラは、彼にしては珍しく、「憎しみ」に似た感情を彼らに抱いた。そんなものは、本來彼には邪魔だつた筈であるが。「霧子- 二人の連れ子に免じて、命ばかりは、と思つてゐたが-」
さて、後はだうやつて霧子を人間界に呼び戻すか、だ。
それは、意外な事に、霧子からのアクションにより、實現した...
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〈獨り身は辛いものよの女の脊何をか語るその脊を通じ 平手みき〉
【ⅳ】
霧子は、なんとカンテラの事務所に顔を見せたのである。「どの面下げて、と思はれるでせうね」-さう切り出した。カンテラはそれには答へず、「表に出ろ。結界の中が穢れては困る」と一言。
霧子は素直に應じ、二人は夜の住宅街に立つた。特に通る者などゐない、閑靜な住宅地。
カンテラは、すらり拔刀した。「あんた、斬られに來たのか? 冥途へ行かせる前に、それだけは訊きたい」霧子「貴方様の、悦美さんに寄せる眞心のやうな物は、わたくし、持ち合はせてをりません。わたくし、正直負けたと思つてますの。たゞ、【魔】に身を落とした事を詫びるには、死ぬしかないのです」カ「さうか。目を瞑れ」
「しええええええいつ!!」カンテラの大音聲に驚いた家々に、燈りが付いた。構はず、カンテラ、太刀を振り下ろした- 息絶えつゝある中、霧子は封筒を一つ、彼に差し出した。「こ、これを」
【ⅴ】
霧子は絶命した。その骸は、如何にも魔界の者らしく、ふつと消えた。
遺されたもの- 封筒を手に、カンテラは所内に戻つた。封筒の中身は、カネ、だつた。「カネづくの俺たちの稼業にだけは、氣を遣つたか」そんな時のカンテラは、冷酷そのものである。女ごゝろなど、少しも意に介さない。
と、云ふ譯で、ルシフェルを更に激怒させる事をカンテラはしでかした。「一味の皆には惡いが-」。彼の中では、それも致し方なかつたのである。
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〈さやうなら斯く云ふわたしの不義があり不正なるもの世に罷り通る 平手みき〉
別れは短く書くに越した事はない。粘りを見せぬ文が、一番最適かと思ふ。さらつと書いて、お仕舞ひにしたい。それでは。-作者。