3:投げた砂塵は戻らない ②
三章 ②/4
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フィーゼリタスはそれを見ながら、嬉しそうにそわそわとニヤついてきた。
「ね、ねえ、今ボクの手に触ってくれたよ? 擦っただけだけど」「……だな」「子供なのに文字を書けるって、すごいね?」「ああ……」「ちなみにいま、ボクにはなんて……?」「ありがとう、って言ったな」「ふひっ!?」
フィーゼリタスの喉から変な声が上がる。そこからのコイツは、孫に初めて存在を認知してもらえた時のジジババのようなとろけ具合だった。
「んふふー、さっきからねぇ、ボクちょっと嫌われてるのかなーって思ってちょっと傷ついてたんだよぉー、でもちょっとは好きになって貰えたのかなー? ちょっとでもー! よかったぁー!」
クネクネと体をくゆらせながら小声で言う。
「あー……」
刹那俺は『 お前のそういう、拒絶されても何度でも平気で突っ込んで来る強さに助けられた奴は多いと思うぞ』と言いかけたが、言えば絶対コイツを調子に乗らせる。故に黙って、
「……そうか良かったな?」
投げやりに聞き流すに留めた。
そうしてそんなことをしている間に、ガキは手を止めてこちらを見上げてくる。言いたいことを書き終わったらしい。
《ん……》
「なになになんて?!」
別にそのまま座っていればいいものを、フィーゼリタスは軽やかに背もたれを飛び越えると背後から盤面を覗き込んでくる。その頭を「近い、離れろ」とどうにか押しやりながら、俺は渡された文字に視線を落とした。
『私の名前は椿 花登です。ここはどこですか。お金がないのは、あたしを買ってくれたからですか?』
《?? お前……》
俺は口を半開きにしたまま、とっさに答えを用意できなかった。目に飛び込んできた言葉が、その質問の切り口が、俺は予想もしてしないモノだったからだ。
言い淀んだ俺を前にソイツは再び俺の手から筆記板を引き取ると、余白に、鎖枷の手で今度はさっきよりずっと長い文章を書き込み始める。
枷についた重たい鎖の擦れる音と、カシカシと擦れる指先の爪音が周囲を包みだした。
なんて書いてあったのかとフィーゼリタスも問うてきたが、それはこちらの言葉が解らない、十を越すかどうかといった見目のガキが質問する文章としては あまりに『分かりすぎ』ていた。
やがて、書き終わって渡された続きを覗き込んだ俺は、またわずかな動揺に眉を潜めた。
『あたしを助けてくれたからお金がないんですか? このうさぎさんが、あたしにいっぱい、色んなことをしてきた人に、金色のお金みたいなのをたくさんわたすのを見ました。その人はすごくにこにこしてて、あたしはうさぎさんにつれてこられて、ここに来ました。ここはどこですか? あたしは、うさぎさんに買ってもらったんですか?』
(コイツ……)
……俺は目を円くして、うつむいているガキの、頭のてっぺんを見つめた。
正直俺はコイツのことを 口もきけない、言葉も、自分の置かれている状況も何も分からないガキだと侮っていた。
コイツには「フィーゼリタスのせいで金がない」ということだけを伝えており、「お前のせいだ」とは一言も話していない。
俺が思うより、コイツはずっと敏い。断片から状況を汲み取って整理してくる。もし話せるなら、おそらく大人の俺と同等に渡り合う程度には弁も立つかもしれない。
そしてそう感じた瞬間 俺の中ではこのガキに対する忌避感が、余計に強まっていた。
(……??)
意味が解らず戸惑いながらも、その動揺を誤魔化すように、思わず口調も強いモノにして返してしまう。
《――…あ、ああ、そーだ。お前はこのバカうさぎカンガルーが奴隷市場から買ってきやがった。おかげでウチにはもう金はねえ。3日後にここを出たらもう宿に泊まる金なんかねえし、しばらくは飯なしでずっと野宿かもしれん。マジで俺は迷惑してんだぞ》
《…………》
しかしガキは、そうされてももう怯んだり困ったりしなかった。それどころか游ぐ俺の目をじっと見、それから、先ほど1回しか説明もしていないのに教えた通りに器用に字を消して、
《……んう…》『ごめんなさい…。でも、ありがとうございます。助けてくれて』
そう書き込んだ。見上げてくる、申し訳なさそうな表情。
《俺は別に、助けたわけじゃ》
たじろぐ俺。
確かに同郷ではあるはずのコイツだが、俺は正直なところ、コイツの存在をやはり歓迎することができなかった。そもそもコイツは、存在するだけで俺たちの仕事の邪魔になる。
もう少し大人なら少し違った……かもしれないが。
『おまえをここに置いているのは、おまえにいて欲しいからじゃない、全部フィーのためだ。』
だから本当ならそう言えば良いのだ、遠回しに『お前を歓迎などしていない』と。しかしそれを言ってしまうのが、どうしてか俺には躊躇われた。
そんな俺をよそに、ガキは机に向かって書き続けていた文字を、再び俺へと掲げてきた。
『あたしをあのこわい所から、助けてくれてありがとう。イチヘイさんも、うさぎさんも、あたしを打ったりしない。優しい。もうこわくないです。良かったです。ありがとう。』
(優しい、だと……? 良かっただと?)
それは、傭兵をこそ天職として生きる俺には、よっぽど不似合いな言葉だ。この場所に滞在するための—―—―結局はこのガキを買うのにフィーゼリタスが使ってしまった――——その金でさえ、自分以外の血と命で贖って稼いできた俺には。
フィーと違ってそれをなんとも思わず生きていける、こんな異常者には。
そしてこのガキの、俺にすり寄ってくるようなこの態
度もずっと不愉快だった。そのクセに、本当に厳しくは振り払えない。
なんだこの、中途半端な気持ち悪い感情は。
《まあ……その、なんだ……》
その思いに戸惑う内に、気付くと俺はくしゃくしゃと前髪を掻き、もごついた口調で応えてしまっている。
《勘違いすんなよ。だが、お前がこのままココにいたいなら、好きにしろ………》
おい待てなんでこんな無責任なこと口走ってんだ俺は。
《! ……――ん!》
その言葉にガキは目を円くする。そして一瞬の間のあと、安心したように強ばっていた表情を少し緩めた。笑うべきか迷っているようにも見えた。
『ありがとう、ございます』
「あー、まあ…………」
ちがう、フィーと交わした約束があるから、お前はここに居れるんだ。俺は絶対お前が嫌いだ。
……やはり言えない。
俺はその、こちらの葛藤などなにも知らない無邪気さに心底 居心地が悪くなり、「水が飲みたい」と〈ルマジア〉の言葉で口にすると、そそくさと席を立った。
「……え、ちょっと待って、なんて話してたの? おしえてよう!」
その様子を後ろから見ていたフィーゼリタスが声を跳ね上げる。視界の端で長い耳と頭が、俺とガキの挙動をキョロキョロと見比べているのが映った。
キッチンに向かう俺は、フィーゼリタスはもちろんガキがどんな顔をしているかなんぞ、気にして振り向くこともしなかった。
――❀✣❀✣❀――
「ん、よし、こんなもんよね!」
ボクはツヤツヤした石壁に囲われた脱衣場で、ハナトの濡れた髪を拭いてあげていた。彼女の体はお世辞にも清潔だなんて言えなかったから、街に行く前にコテージのお風呂へ入って貰うことになったんだ。
手足に嵌った鎖枷は、彼女の身柄を引き受けるときに鍵を受け取っていたので、それで外して池に捨てた。
風呂場は玄関の隣、湖とは反対側の庭に面しているため、歪みガラスの窓越しからは庭の草木を反射した緑の光が忍び込んでいる。
辺りに満ちる心地よい薄暗さ、大きな風呂盥からあがる温い湿気と花石鹸の香りの中、タオルの下から覗いたハナトの目はじっとボクを見つめていた。なにを考えているんだろう。でも、さっきとは打って変わってちゃんと身を任せてくれているみたいで、ボクはホッとしていた。
とその時、小さく絞り出す息の根が、ことばとして聞こえた。
《 ぁい、がと……》
「! わあ! っ! あ、あの、《アイガートー》!」
話してくれるとは思わなかったからびっくりした。
尻尾の毛までムズムズするくらい嬉しくなる。そして(やっぱり少し発音が特殊で戸惑ったけど)あわてて同じ単語で返した。
するとハナトは一瞬だけど、風呂場に漂う花石鹸の香りにも負けないような柔らかさでふわっと笑ってくれた。それから受け取ったタオルで、残りの濡れた部分を拭き始める。
あまりの可愛さに、ボクまでつられてちょっと気持ちのわるい笑顔になる。……けど、持ち上がったタオルの隙間からふと彼女の素肌が目に入ってしまうと、やっぱりその気持ちも風船みたいに萎んでしまった。
「…………本当に酷い目に遭わされたんだね……」
思わず口の中で呟いてしまった。
だって服を脱がせたハナトの身体は、ドレスで隠されていた処を中心に、あちこち傷だらけだったんだもの。
胸の焼印以外にも、赤く腫れて裂けたムチの痕、あちこち散らばる青あざ、何をされたのか、お腹には何か円いものを押しつけられたような火傷の水ぶくれまである。
初めて見た時よりちょっとは馴れたけど、それでもやっぱり痛々しくてたまらない。ハナトは痛みを感じる場所を拭く時は眉を顰めながら、そっとタオルを押し当てては水気を拭き取っている。石鹸は傷に滲みただろうに、体を洗っている間だって唇を引き結ぶだけで全然泣きも喚きもしなかった。
それでもこの子は、きっとイチヘイとは全然違う。
ハナトは、イチヘイがこちらに『お迎え』されたときと同じかもう少し上ぐらいの歳に見える。
けど結局イチヘイの方は、お師匠さまにもボクにも寂しさなんて微塵も見せなかった。
一度お師匠さまと仲良くなってしまったら、あとはただ自分の身に起こった出来事を、まるで毎日のご飯を血肉に変えるような自然さでさっさと受け入れてしまった。
もう帰る術はないと言われても、ほんとうに眉ひとつうごかさなかった。きっと本当に故郷に未練がなかったんだと思う。
言葉だってびっくりするぐらいすぐ覚えたし。
でも、ハナトは違うように見えた。本当に怖くなったときに泣いて呼ぶのはお父さんとお母さんだなんて、あの人とは正反対だ。
この子は、急に大好きな居場所から引き離されて、言葉の通じないところに飛ばされて、奴隷商からこんなに痣と傷を付けられて、一体どんな恐ろしい目に遇ったんだろう。
だからきっとこの、声がうまく出てこない病気も、今までの事で心が傷を負ってしまったからに違いないんだ。『音』としての声は出せるのに、『単語』を言おうとすると急に掠れて咳き込むなんて、身体の病気では説明なんてできない事だから。
《 …ぜ……?》
しわがれた声と、不安そうな視線。
出ない声で呼ばれたんだと気づいて、ボクはハッと顔を上げた。いけない、いつの間にか鼻筋に皺が寄ってしまっていた。難しいことを考えるとこうなるボクの顔は、イチにすら妖獣が威嚇してるみたいで怖いと言われるんだから、子供のハナトにはちょっと刺激が強すぎたかも。
ボクは慌てて彼女と目を合わせると、
「ごめんね、大丈夫だから」
そう言ってまた笑顔に戻った。言葉は分からなくても、こうすればきっと身振りで伝わる。ハナトは、思った通りよく分からなさそうだったけど、それでもぎこちない感じに笑い返してくれた。




