11:誰も見ない。②
十一章 ②/2
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それでも先述した通りに、覚えていることが何もないわけではなかった。
ただ、幾つかあるその記憶も声だけであったり、視覚だけであったり、あるいはそのときに感じた感情だけだったり、まるで壊れた映像か夢でも見ていたかのように断片的で判然としないのである。
その中で比較的思い出せるいちばん古い記憶は、
――――『ふぃ、い、ぜ、り、た、す』
と何度も話す、毛むくじゃらで控えめな唇の動きと、それに付随する彼女の幼い声。それを見る俺の、
(喋るうさぎが、自分の名前を、俺に教えに来ている……)
という、感動も恐怖もないのっぺりした疑問だけだった。ただどう見ても無害そうで、顔も人間ではなかったゆえ不快には思わなかった。
そして師匠の方は――――、なぜかその記憶のなかのどこでも、ほとんど人影としてしか形を成さない。それはその後のどの断片でも、最後のひとつの中で言葉を交わした場面以外には変わらなかった。
今はあの人のことも育ての親として、また師として尊敬しているのだが、当時の俺はよほど興味がなかった、のだろうか……? ただあの頃から思えば、俺はそこそこマシにはなった、とは思う。
――――それでもやはり、俺はあの冷たく湿った森の中、記憶が途切れる瞬間に涌き上がって歪んだ感情を、意識の奥底にいまだに沈め続けている。
怒り、殺意。
疑い深いのは身内以外を信用できないからだ。
その更に底を見つめれば、思えば他人を支配したいと願い続ける貪欲さがある。今回のフィーゼリタスとの〈誠宣〉で、それを思い知らされてしまった。
他人への謝罪も感謝も、抗えない力に媚び、あるいは屈服させられるように思え、今も滅多には口に出さない。
フィーゼリタスにさえも本心を隠すのは日常であり、時々己でさえも、なぜその感情を抱いて他人と接しているのか理解できなくなる。ハナトとのことが正にそれだ。
それは人として生きるためのかたちを、全てあの国の、あの家の中で殺ぎ落とされてしまったからなのか――――あるいは元から俺自身が、そんな人間なだけだったのかもしれない。
今となっては分からない、もう分かることもないだろう。
それでも俺はフィーゼリタスの隣で、なにもかもを昏く、澱のように沈めたまま、何とか『人間のふり』を続けているのだ。
――――嗚呼。
俺は目を開けた。
腕を組んで考え、考えながら浅く眠る、目蓋の底の暗闇から抜け出す。
足りない酸素を求めるように深く息を吐いた。
俺はあれから、あの見るからに怪しい獣人女と別れ、フィーとハナトと共に一度 宿へと戻って行った。
臭う全身を執拗に洗い、そうして俺と入れ替わりに風呂に入って出てきたフィーゼリタスにハナトの看病を投げ、今、ここに座っている。
今はハンザの待合室でも壁沿いの、いちばん角隅に置かれた長椅子に座り、ゴリゴリした感触の石壁に頭を預けていた。
真珠瘤を換金するべくここを訪れ、渡された木札に描かれた絵柄を呼ばれるのを大人しく待っているが、相変わらず順番は来ない。
それはそれで癪だが、おかげで一人になってから、ずっと引っ掛かっていたあの言葉と、フィーが連れてきたハナトという存在について、考える時間がたっぷり出来てしまった。
宿を出る最後に見た、眠るハナトの横顔を思い出す。
正直、俺がハナトに微妙な態度を取ることで、ハナトがどのような思いをするかなど、ずっと容易に想像だけはついていた。
知った上で我を通し、あそこまで何もしないでいられたのだ。
それは己の、満ちない半月のごとき精神性が成せる業であり、皮肉にも俺が戦場に立ったところでフィーのようにはならないでいられることへの保証でもあった。
今までは、そうだと思っていた。
俺が心を揺らすに値すると思ってきたのは、その意味を持つのは、師匠とフィーだけだったからだ。
ハナトはフィーゼリタスが勝手に連れてきた、俺の日常に混ざる異物でしかなかった。
動いてしゃべるが『意味を持たない他人』でしかないと、ずっと思っていたのだ。
しかし。
「…………」
じっくり考え続けたおかげでいま、ひとつ、思い至ってしまったことはある。
…………それは俺自身が、ハナトに自分を重ねていたかもしれないということだった。
それは単に意思疎通を取り出した瞬間に、彼女が俺に似た性格をしているかもしれないと感じたから、だけではない。
例えば、同郷の人間がここにいるという事実に喜びながらも、生まれ故郷が滅びずにまだあるということを実感する。
身体に負う、胴体にしかない傷と痣に、同じような暴力を振るわれていたことを思い出す。
『ごめんなさい』と謝り、それでも大人に媚びへつらい、気に入られようと努力するあの態度も。
同族意識など生ぬるい。
……彼女がそこに存在することが、なにもかも、幼かった俺に繋がっていた。
ゆえにアイツが困ったような顔をするたびに、俺は無意識に、彼女の内側を走る感情に幼い俺を追いかけ続けていた。
ひとつ感情を理解するたびに、幼かった俺が彼女を通し、あたかも化身のごとく目の前に立ちはだかる。
俺がなにより憎んで許せなかった『無力なその姿』をして、俺には抱くことさえ許されなかった想いを、ハナトを通してまざまざと囁いてくるのだ。
苦しい。悲しい。
痛い。つらい。
――――……愛してほしい。大事にして。
『ごめんなさい』
「…………」
口を覆う。
ずっと忘れていた何かが溢れ、比喩ではなく本当に吐き気ががしていた。
(思えば出会ったあの場から、俺は一瞬あのクソ男のことを、思い出していたよな……?)
無視し続けたかったのも、思えばコレが理由だったのだろう。
最悪の気分だった。
しかしここには、俺になど一瞥も寄越さない役人どもがカウンターの向こうにいる外、周囲にはほとんど人はいない。
心配する者もいない……宿に置いてきた。
そして俺が口をついて吐いたあの言葉さえ、俺自身が『思い出せない半年間』の間の記憶のなかで師匠から聞かされた言葉だったと気付くと、俺はもう考えることをやめられなかった。
それは今まさに、記憶をたどる中で拾えたものだった。師匠を師匠として記憶している、唯一にして最初で最後の断片の中の話だ。
『ねえイチヘイ。こんなことをしていて、きみは幸せになれるのかい……?』
暴れまわった俺は、フィーの身体に傷を付けていた。
あの頃の他の記憶と同じく、この記憶の中もまた、情報があちこち欠け落ちている。特に、フィーに対して何故そんなことをしたのか、その前後の経緯と感情が記憶からきれいに抜け落ちているため判らない。
映像としての記憶は、驚いたように怯えるフィーを後ろに庇いながら、師匠がじっと俺の目をみているところから情報が始まっていた。
『ねえイチヘイ、吾を見なさい』
渋い顔で何か長い長い詠唱をした直後だったように思う。唐突に師匠は、俺に解る言葉で話しかけてきた。
その衝撃だけが、感情としてははっきり残っている。
思えばあれは念話やテレパシーなどと言われる部類の何かだった。正直、魔法を通して人の意識に介入してくる魔法使いなぞ、俺はあの人ぐらいしか出遇ったことがない。
こちらの字を多少読めるようになってから解ったことだが、師匠は魔法使いとしては呪いと人の魂、生命、感情と意識、心の重なりを理解し、魔法に組み込むような分野の研究をしているらしかった。
良くも悪くも人の心の内を知る、そんな物語と魔法の専門書ばかりが、あの家の書庫にはあった。
『イチヘイ。こんなことをしていて、きみは今幸せかい……??』
『……。◯◯◯◯……』
なんと思って、なんと答えたのか。覚えてはいないが、師匠の次の言葉からして『うるさい』などとでも言ったのかもしれない。
『……そうだね。耳に痛いだろう。すまないね。腹が立つのであれば、吾のことならば幾らでも傷付けてくれて構わない。相手になるよ。
……けれどねイチヘイ、頼むからこの、フィーゼィの好意にだけは、きみも好意で返してやっておくれ。ずっときみのことを想って、きみに色々教えようとするこの子にすら牙を剥くのならば、きみは言葉も意味も持たない、自分のためだけに生きる獣と同じだよ』
初めてまともに意思が通じた衝撃と共に感じたのは、その穏やかな話し方の奥に潜む妙な威圧と威容だった。思えば当時、今より研ぎ澄まされていた野生の感覚も、一瞬で『コレは強い、付き従うべきだ』と判断した。
すっかり忘れていたが、確かにそんな経緯でそんなことを言われ、俺は師匠に従い、懐いていった。
――――そしてそのとき、どこか警告のようにも告げられたその言葉の一部を、俺はハナトを通じ俺自身に対してまた口にしていたのである。
―――……なあおまえ、こんなことしてて幸せか?
「……」
思わず片手で額を覆った。
要は、『自分をちゃんと見ろ』の信号。あるいは、『ハナトを愛せ』かもしれない。
師匠はよく、だれしも人の心は一枚でつくられているのではないと言っていた。善と悪だけで単純に分けられるものでもない、何枚もの「そのときの自分」「そのときの感情」が自我をつくる層として重なりあい、人としての心を作っている、と。
『それでも吾は今のそのままのイチヘイを、『親』としては充分愛しているよ――――』
しかし結局俺は無意識に、彼女を通してずっと過去の、何もできないガキの己を見つめていた。
ハナトが己のようだったがゆえに憎悪し、また、昔の己のようであったからこそ憎悪しながら突き放した。
そのうえでの、
―――『こんなことをしていて幸せか?』
だったのだ。
(…………どんなキチガイじみた冗談なんだよコレは……?)
気付けば俯いた額を覆う掌は2つに増えている。髪に差し込んだ十指で頭を掴みながら、口の端には自嘲するような笑みしか浮かんでこない。
(師匠のことはともかく)要は俺はあんな子供に対して、無意識のうちに
『『自身の過去』という概念と向き合わず、俺自身は幸せになれるのか?』
と、どこをどう切り取ってもエゴの塊でしかない、自己完結の自慰のような問いをして、俺は俺の内側だけをずっと見つめていたのだ。
昨日のフィーの言葉を借りるなら、『全部全部、自分のための都合』、だった。
なんなら追い詰められるフィーゼリタスから、
『ハナトを幸せにしたい』『ボクはどうなってもいいからハナトに向き合って欲しい』
と、懇願されたときでさえ―――ハナトのためにと〈誠宣〉に背いて発されたその言葉さえ俺は――――俺は、無意識のどこかで『己に向き合え』と言われていると、手前勝手に受け取っていたように思う。
頭がおかしいとしか思えない。
昨日フィーゼリタスにあれほど激怒したクセに、これでは、彼女がハナトを買ってきた動機と何も変わらない。――――いや、まだ獣人のアイツの方が、ハナトのことを純粋に考えているぶん数段もマシだ。
本当に、心底腹立たしい。
だから俺は、大人に媚びるガキが嫌い、だった、のだ。
ただ、ハナトと出会った時点で早かれ遅かれ、俺は彼女に刺激され続け、いつかはこの結末にここに帰結していたのかもしれない。
「…………こんな無様な……」
「――――えー、お待たせいたしました、次、『浮き雲』の札をお持ちの方」
……しかしそこにかかった声で、俺は一瞬で無感動な真顔に戻る。スッと顔を上げた。
とりあえず己の感傷にだけ浸っている時間はいったん切り上げねばなるまい。なにせ現実には現実で、腹の立つ問題が残っている。
夕方の気配も色濃い待合室は、閉庁の時間も近いためかもう誰も座ってはいなかった。
呼び出された中では俺が最後の一人である。
隣の隣のカウンターで1人だけ職員と話している、ガタイのいい禿げ男の背中を尻目に、俺は呼ばれた仕切りの方に近づいていく。受付カウンターの向こうに立つのは昨日俺たちの対応をしたヒョロメガネの男ではなく、それよりもう少し年上に見える魔法族の男だった。
耳が尖り、男でも人間の女程度の上背。少し小柄で手足の爪が黒い以外は、特に人間と変わらない姿の種族である。
そのうえ好奇心旺盛な気質の者が多く人間よりも長命なため、歳を重ねるほどに知識が豊富な者が多い傾向にあった。
(……コイツなら『試金石』としてもちょうどいい、か)
ゆえに俺はカウンターの向こう、赤い三角帽子に猛禽のバッジをつけるその職員を見据えつつ気を引き締める。
コテージを出る前にはフィーにも釘を刺されたため『ほどほどにする』つもりではいるが、それでもせめて俺は、この場でこの〈冒険者ハンザ〉がどの程度のものなのか確かめてやろうとは思っていた。
(この組織はこの先も、『仕事相手』として信用して良い相手なのか……?)
ふと足元を見れば日没前の光が、いくつもある幾何学模様の大窓を通してこの〈ハンザ〉の内部にも差し込んでいる。
オレンジの陽は長く伸びながらも、床の上で無数のひし形や多角形に切り分けられていた。
俺は渋く眉をひそめながらもその光と影を踏みしめ、招かれたカウンター前でその壮年の男と対峙した。




