9:フィーゼィ=リタスとお師匠さま③
九章 ③/3
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たしかにそこにいるのは人族の男の子のはずだった。
けれどそのこは汚れて傷だらけ。
その目と髪の暗さは夜の闇のようにも思えて、私より小さくて痩せぎすの身体に、変わった絵が描かれたぼろぼろで黒い半袖シャツと、茶色のズボンを着ている。そのすがたは部屋の暗さに沈むように溶けていて――……それなのに、四角いつり目のその瞳だけが、薄闇の中にらんらんと輝いていた。
そして本当に噛みついてくるんじゃないかと思うくらいには、ものすごく怒っている。
《*‡●*▽ダ■#■▼ゾ……》
『触るな』
『近寄るな』
やっぱりわたしの分かる言葉ではなかったけど、きっとそう言っているんだと思う。だってその、触れたら切れる刃のような雰囲気を、わたしはこの家に来てからずっと味わっていたから。
「…………〈刷毛尾猫〉、みたい、だ……」
だから気付いたらポツリとつぶやいていた。
この子は確かに人間なのに、やっぱり頭や腕や脚に生傷を作っているその姿は、まるで傷ついた獣のようだ、って私は思ってしまった。
「ああ、やはりアレにつけられた傷に治癒は効きにくいんだね……」
お師匠さまが残念そうに呟く。
「?」
首をかしげるわたし。
けれど次の瞬間、
《――――ナンデ! ‡レ†◆†▽‡=*ッッ!!》
唐突にその子がこちらに飛びかかってきた。合っていたその視線と痩せた身体をまるで槍みたいに突き立て、
「ひゃひ!?」
「――おっと……?」
それはお師匠さまが身に纏う、脛までの青い衣と長い前垂掛けを掴むか掴まないかの距離。
まるで測ったみたいに届かなかった。
遅れてしっぽの毛を逆立てるわたし。
『――――ガシャンッ!!』
次いでその音で、わたしはいまさら この子とつながる錆びた鎖が、この子の動ける範囲を決めていることに気付いてしまう。
かひゅっ!
と喉が締まるような声をあげて、ふらふらと少し後ろに下がるその子。スッと一歩退いたお師匠さまの陰へ横飛びに隠れていたわたしは、遅ればせながらその光景の異様さが怖くなった。
だってこの子に鎖と、それから今一瞬だけ、弱く青白く光った革の首輪を巻いたのは、きっとお師匠さまだったから。
……けれどそんな風になっても、傷だらけでまだおでこから血が滴っている彼はまだ、お師匠さまをを激しい瞳で睨みつづけている。
わたしのことはぜんぜんみていない。それはただサリビノカが怖がるようには、わたしが怖がられてないだけだったのかもしれない。
それでも思わず、この角度からだとよく見えないお師匠さまの顔を見上げてしまう。
なんでこんなに、この子は怒っているの。お師匠さまは、この子になにをしたの、お師匠さまは……――、
「お師匠さま、なんでこの子、首輪と鎖をつけてるんですか……自分じゃ外せないんですか」
「……もう破られそうだけれども、封じの一部だったからね。意味があるものなのだよ」
また魔法の話をするお師匠さま。
「でもこんなことされたら。苦しいじゃないですか」
すると斜めにうつむいた首から、蒼色をしてすごく冷たい視線が流れてくる。私は思わず身をすくめる。けど口を開くと、そこにはちゃんといつもの優しいお師匠さまが微笑んでいた。
「……こんなにも激しい憎しみを向けられているというのに、きみは本当に優しくて良い子だね」
長い腕でわたしの頭と耳をわしゃわしゃと撫でてくる。
「――――お師匠さま、『にくしみ』って、どんな気持ちなんですか……?」
何冊も読ませてもらった物語の本にでてきたこともあるけど、そういえばよく意味が分からないことばだった。
魔法のことは難しくてあまりに興味を持てないけど、わたしは人の気持ちを知るのは好きだった。知ったらその分、その人に優しく出来る気がするんだ。
それを聞いたお師匠さまは一瞬ほんとうに虚をつかれたように目を見開いたあと、「そうか……」と呟く。
「……きみは本当に優しくて良い子だね……」
「?? ありがとう、ございます……?」
困って吐くため息のような口調で、わたしは誉められたのかわからず首を傾げてしまう。
ダメだったのかな……と耳を下げた。
「ああ、すまないね。いいよ、いいよ、後で吾がこの子になにをしているかは、偽りなく話してあげるからね。
――――けれど兎にも角にも、今は先に彼の『歪み』を封じなければならないのだ。かかっている魔法が完全に破られてしまったら、これはもう戻ってこれないから」
歪み。封じる。
さっきも言っていた気がするそのことば。
「この子になにをするの?」
「化け物として生きないようにするための封じ、かな」
……化け物?
確かに獣みたいに、めちゃくちゃ怒ってるけど。でも、
「……この子は、いまもちゃんと人族の子だと思います、お師匠さま……」
首をかしげるわたしを、お師匠さまは微笑みながら少し見る。
「まあ見ておいで。悪いようにはしないからね」
それ以上の答えはもうかえって来なかった。顔をあげると、男の子を見つめるその瞳にはもう、さっきの冷たさと真剣さが戻っていた。
「さてさて今の壊れかけの封じは解いて、新しく魔法式を組まないと、かな……これは骨が折れそうだ……」
呟きながらお師匠さまは、片手で自分のうなじを掴むように触る。
その瞬間、わたしは「あっ」と思った。お師匠さまはこうなると、もう話しかけたって服を引っ張ったって、答えが出るまで返事はしてくれないからだ。
さらに反対の手の人差し指で、空中になにか書き付けるような仕草までしはじめる。
こうしている時のお師匠さまは、頭の中で魔法式を書いているらしかった。
それをみて、嫌でも考えてしまう。
わたしの父さんは、わたしをここに置いていった。
『望むなら、ここでお大師さんから武術を学びなさい』と言っていたし、『お前が望むなら、他の好きなことでも良いから、何かすると良い』とも言っていた。
それから、『住ませてもらうのだからお大師さんの手伝いとしても働くように』とも。
――――けど、時々村にきては私の勉強を見てくれたり、みんなの相談にのってくれたりするお師匠さまの本当の領分は、武人でも師匠でもなくて、魔法使いだった。
だから魔法のできないわたしはお師匠さまの片手間の弟子として家事のお手伝いはできても、きっと何でもできる魔法使いの助手になるなんてことは、きっと一生ない。
悲しかった。
一緒にいるのに、ここでも同じ世界は見れないのだ。
(……父さんのお役目を継げないのと、一緒……)
目の前の男の子にもちゃんと、わたしは警戒の視線を向けている。それでも取りのこされる寂しさに、つい眉と耳をしょんもり下げてしまう。
「……んぇ?」
でもそこでふっと気付く。黒髪のその子はもうだまっていて、今度は私を、表情の読めない目でじっとみつめていた。その暗い瞳の奥には引きずり込まれそうな深さがあって、ちょっと怖い。
…………でもそれはつまり、
(あれ? もしかして今は怒ってない……?)
思わずお師匠さまの物陰から首をかしげながら見つめ返してしまう。
どこからきたのかわからないけど、言葉がわからないのはわかる。それ以上は前に出るなとお師匠さまに言われたから――あとまだ少し怖いから……――近寄れないけど、それでも怒っていないなら、ちょっとくらいなら話も通じるかもしれない。
だから自分を指差して話しかけてみた。どうせお師匠さまには聞こえてないし。
「ねえねえ、わたし、フィーゼィ=リタスだよ?」
《……》
「フィーゼィ=リタス。ふぃいぜィりたす。……ふぃ、い、ぜィ、り、た、す、だよ。よろしくね」
《…………。……ふぃーぜ、いたす……?》
「ふゃ! そうだよ!」
つうじた! 嬉しくなってこくこく頷きながら、わたしは首をのばす。
「あなたはなんて言うの」
今度はその子を指差した。
「―――ああそうか、…………石を…………~~して…………魂に籠目を…………妖魔に…………隠匿の…………魔法族の目………………、うん、うん、その方が安全かな……」
でもそこで、ずっと小さくなにか呟いていたお師匠さまの手がフッと下がった。
「――――ちょっといいかなフィーゼィ?」
「! ひゃい!」
急に話しかけられて、思わず耳が立ってしまう。呼ばれるのが思ったよりはやかった。
男の子に名前を呼んでもらえたことには嬉しくなりつつも、慌ててお師匠さまとの会話に戻る。また動き出したお師匠さまを、やっぱりその子は思い切り警戒しだした。
「……フィーゼィ、そのまま少しだけまえにでて、高く灯りを掲げてくれるかい? そのランタンの魔石を使いたいのだよ」
「? あい!」
「うんうん、それ以上は出なくて良いよ。魔石具の灯りにしなくて良かったね……他のは簡略化のためにそっちにしてしまったけれども」
そういえばこのランタンの魔石も、ここに入るときお師匠さまが魔法をかけてたっけ。
と、いうことはこの魔石は魔石具のものと違って、灯りに使うのをやめたら他のことにも使える、ってことだ。それくらいならわたしも分かる。
(でも灯り用の魔石なんて、何に使うんだろう……)
そんなことを考えながら、わたしは真ん丸のガラスの火屋が被さる、古いランタンを両手で捧げ持った。ランタンもまたお師匠さまに合わせた大きさで、上に持ち上げるほどにわたしの腕にはずっしり重たく感じる。
目線の高さに来た火屋のなかを覗き込めば、わたしの握りこぶしくらいはある透きとおった石の内側には、針のような細かい模様がいくつも埋もれていた。そしてその模様が、黄色い光に薄いまだらの影を作りながら周りをぼんやり照らしている。
「ではいくよ。短縮のしかたを決めていない詠唱だから少し長いものになるけれども……、頑張って動かないでいてくれるかな?」
「あい! まかせてください!」
いつもなら、朝ごはんのあと、森を駆け回って鍛練。
午後はお部屋のおそうじ、水汲み、お皿洗い。料理は、火の使い方がわたし向けではないので、それ以外。
お手伝いさんのするようなことは教えてもらって覚えたけど、魔法使いの助手らしいことなんてするのは、これが初めてかもしれない。
わたしは誇らしさに尻尾を毛先の一本ずつまでそびやかしながら、なるべくかっこよく見えるように爪先立ちした。背筋を伸ばして、お師匠さまを見上げる。
その視線の先では、長い長い人差し指が宙になにか文字を書き始めていた。
するとその書き跡は、今度は白っぽい青に光る角ばった文字と、濃い緑の、曲線と点の混じる文字を交互に描いて、なにかの言葉になる。どちらもわたしの知らない言葉、知らない字。
『何もかも詛う者、其が歯牙を匿せ
何もかも繋ぐ物、此が角を覆え』
そしてお師匠さまがそう詠唱を始めたところで、わたしの顔のまえに下がるガラス球のなか、魔石がとつぜん、放つ光をぐるりと変える。
まぶしい夏の庭と空と同じ、緑と青色の輝きだった。
二色の光はまるで水面が描く波紋みたいにゆらゆらと光って混ざり合い、辺りに綺麗な縞模様を投げかけはじめる。
『封じよ。汝此より先に堕つる事、吾は能わず
繋ぐもの、流るるものの司りし御許に汝游ぎ、息を継げ』
やがてお師匠さまの指先から生まれた文字が、舞う花びらのように部屋のなかへ散りばめられだした。
詠唱の内容はわたしにはよく分からない。
それでもわたしは、その光と光景には息をのんでしまう。
それはまるで透き通る水の中に潜り込んで水面と空を見上げ、水中にちりばめられる言葉の宝石を眺めているみたいだったから。
魔法って、こんなに綺麗なものなんだ……。
チラリと男の子を見ると、やっぱり怖いかおをしてお師匠さまを睨み付けていた。けどなんだかさっきより目が游いでいるから、もしかしたら何をされるか分からなくて怖いのかもかもしれない。
あと、これは気のせいかもしれなかったけど、目を戻したランタンの魔石にあった『輪郭』が、なんだかぼんやりとにじみはじめている気がした。
「??」
思わず眉をしかめ、難しい顔をして見つめなおしてしまう。
『こころは意思、意思は御魂、御魂は河
尊く廻り、繋がり留めよ、此の理に』
……でもやっぱり気のせいな気がしない。
『――――おまえは みつけなさい たいせつな ものを
あいしなさい それを とわに おまえの しあわせは そこから』
「――――うひゃっ!」
けどその瞬間、青と緑の光はいっそう眩しくなり、わたしは反射的に目を瞑って顔を逸らしてしまっていた。
腕まで動かさないようにするだけで精一杯。
でもさいごの詠唱だけは、わたしにも意味が伝わるくらいには急に難しくなかった。
――――『たいせつなものを見つけて愛しなさい』って、
(それって、呪文、なの……?)
と、思っている間に、まぶたの裏の眩しさはすっかり消える。
そしてすぐ側で、ふわりと森と土の匂いのする風が巻いたかと思うと、どさり、という鈍い音、じゃらり、という鎖の音がした。
なにが起きたんだろうと目を開く。
風は、どうやらお師匠さまが動いた空気の流れみたいだった。急に倒れた男の子を、お師匠さまがかがんで受けとめていた。
わたしはお師匠さまの、ゆるく捻れながらもスッと生える角からその鼻筋まで、柔らかい曲線を描く横顔をぼんやり見る。その両目は、今はなにかを確かめるようにじっと男の子を見つめている。
頭の左側に一本だけ編まれた灰色の三つ編みが、その先端へ結わえられた金の飾り輪が、お師匠さまの肩からほろりと外れて男の子の胸に落ちた。
「……うんうん、よしよし。ちゃんとできた。
すべて呪う子。きみはまだ戻れるかもしれない」
そう満足そうに話すお師匠さまの雰囲気は、とてもつめたいのにどこかあたたかい、不思議な色をしていた。
そしてふとその瞳をわたしのほうに向けると、クスリと笑う。
「……フィーゼィありがとう、もう動いても良いよ」
「んぇっ?」
長い長い指で手にもっているものを指され、ピョコリと耳が跳ねる。言われてやっと、そういえば自分がまだずっと同じ姿勢でいたことに気付いた。
えへへ、と笑いながら腕を下ろす。でも、ふとさっきまで覗き込んでいたその場所に目を戻してみれば、
「え、あれ……??」
カンテラの中にあったはずの石が、どこにもなくなっている。
わたしはいつの間にか、少し軽くなって部屋の暗さに同じように沈む、空っぽのカンテラだけを手にしていた。




