9:フィーゼィ=リタスとお師匠さま①《挿し絵入》
九章 ①/2
読了目安→7~11分
真昼に切り取られた薄暗がりに、瞳がふたつ光っている。
見つめる先で、その獣の、瓶を洗うハケのような太い尾は不機嫌そうに揺れていた。
「サリビノカちゃーん……?」
わたしが呼ぶと、黒く鋭い三角の耳を倒し、顔をゆがめて
《フーー……!》
と吐息のような威嚇で返事を戻してきた。
ゆらゆらと揺れる尾はわたしとお揃いの色をして長い。
けれど茶色い砂のような色をするだけのわたしのしっぽと違って、この子の太い尾には、肩から背すじを伝って黒い縦じまが一本通っていた。
身長3キュビ(※135㎝)と少しの子供のわたしでも、軽くだっこできてしまいそうなくらいの小柄な体つき。
それでも2つの瞳だけは激しく燃えたつように、鋭い金色に輝いている。
顔回りの毛も鼻先から後ろへと、髭と一緒に流れるような鬣となり、後頭部へ伸びる。
本当にきれいな獣だった。
でもとても怖い獣なのを、わたしはここ二週間と半分の間に解らされていた。
明るい森の日射しの下、着ている服が汚れないか気にかけながらも、湿った地面に膝をつく。雨ざらしにされて、みどりの苔色にそまったバルコニーの土台に手をかけた。
頭を下げ、わたしは改めてその下を覗き込む。
昨日降った雨と土の匂いに湿った平たい空間で、やっぱりわたしを睨みつけている獣と目が合った。
バルコニーに渡された古い床板は隙間だらけだ。彼女のいる床下には日差しがいく筋もこぼれ落ち、光と影の縞模様ができている。
その、まっすぐ走る光の下、彼女の滑らかな毛皮の表面では幾つもの輪っか模様がつやつやと輝いていた。
わたしはそこにそっと腕を伸ばした。
「おいで〈刷毛尾猫〉ちゃん、お師匠さまどっかいって帰ってこないし仲良くしようよ、えへへ……」
《ジシャーーーーー!!》
「ひゃひ!」
爪を剥き出しにした両前足を揃え、ダン! と一歩前に踏み出してくる。ちょっとびっくりするくらい盛大な威嚇だった。
わたしにも夕日色をした毛皮は生えているから、少しぐらいなら引っ掛かれても平気だ。けど、それでもこの子と暮らしはじめてから、腕には毛で目立たないだけで何本も細いかさぶたを作っている。噛まれたことも何回かあった。
(お師匠さまにはべたべたに甘えてるのにな……いつか仲良くなってくれるかな)
残念な気持ちでスン、と長い耳が下がる。その時だった。
「あれ、こんなところでなにしてるのかな、フィーゼィ」
「! お師匠さ、」
とっさに頭を上げて、ゴン! と盛大にバルコニーの梁に頭をぶつけてしまった。長い耳の端っこまでちょっと挟んで、かなり痛い。目の奥がチカチカする。
耳長族は確かに耳はいいけど、『小さい音を聞くことができる』と『意識に入れて聴いている』はぜんぜん別だ。特にわたしはすごくうっかりしてるって、よく言われてたから……。
「~~~~~!!」
「あれ、まっ!? ちょっと、大丈夫かなフィーゼィ!」
頭と耳を押さえてのたうち回っていると、がさがさっと後ろの庭の花畑をかき分け、近寄ってくる足音がした。
梁と地面との隙間からそっとずらすように動かされ、そのまま両脇に差し込んだ手で軽々と持ち上げられる。
「怪我はないかい?」
そのままスイッと地面に立たされた。
わたし来月には10歳になるし、こんなので泣く程でもないけど、それでもこうして痛いのを大人に気にしてもらえるのは嫌じゃない。
「お師匠さまぁーーー痛かったよぅぅーーー!!」
「うんうん今のは確かに痛…………こらこら、吾の頭を掴むのはやめようね」
「わ、ごめんなさい……」
とりあえず緩やかに捻れながら空に向かって伸びる、長くて硬い角からは手を離す。まだ痛いので、もう一回、耳と頭は抑えておいた。
その、私のうつむいた顔を覗き込むように、お師匠さまがもっと腰をかがめて視線を合わせてくる。
その瞳は切れ長で、ちょっとだけつり目だ。いま掴んでしまった黒い角は、灰色の長い髪とおでことの境目から伸びていた。頭は人族なのに、お尻からは硬い鱗のある長い尾を生やしている。それにゆったりと纏ったローブと脛までの長衣から覗く腕と脚も、毛皮のところと鱗のところがある。
わたしにはその顔もその声も、男の人か女の人かずっと分からない。この世界にはいろんな種族がいるけれど、お師匠さまだけはなんの種族にも当てはまる気がしない。
本当に不思議な人だった。あと時々、本当にめちゃくちゃな人だった。夜のへんな時間に森へ出掛けて、朝まで戻ってこないこととかもあるし。
「と、いうかお師匠さま、どこ行ってたんですか。今日も朝ごはん作ってくれたと思ったら急にどっか飛び出していっちゃって! ごはん冷めちゃいましたよ?!」
「……ん、ん?!」
むすりと膨れて言うと、お師匠さまはわたしの口ぶりをきいて、見るからに焦ったような顔をした。わたしの顔を覗き込んでくる。
「ええ、ええ? ……もしかして、朝食も昼食も食べてない、のかな……? 多めに作ってあったのだけれども」
「うん。この子探しておいかけ回してる間に、その……楽しくて忘れちゃってたんです。……お腹空きました」
いいながら、やっぱりあまり怒りすぎてはダメだと思い直した。えへへと笑って、床下のサリビノカを指差す。
すると師匠は、からだの比率からしても微妙に長い腕で後ろ首を掻きながら一度頭を上げ、
「…………また律儀な子を預かったようだね……」
囁くように呟いた。その言葉に少し不安になって、胸の前で手を握ってしまう。
「……ダメ、でした……?」
「んんっ……? ……ああ、ああ、そうか そうだね、君は耳が良い種なのだったね」
「一人で先に食べるなって、父さんも母さんも、いつも言ってたから……」
「ははは、いいよいいよ、フィーゼィは相当だいじに育てられていたんだねえ」
首を掻いていた大きな手が、次はわたしの頭をすっぽり包む。指の根本にだけ控えめな水掻きまでついたその手は、大きさも合わさって帽子を被らされているみたいにも思えた。
(だいじ? そうなのかな……よくわかんないや……)
お師匠さまは話し方は優しいけど、よく難しいことを言う。それにお師匠さまの身体は、(今わたしを撫でているこの手もそうだけど)本当に大きい。たぶん身長も5キュビ(2.25m)くらいはある。こうやって話していると、やっぱりその背の高さが少し怖かった。
…………それでもわたしをここに置いてくれるのだから、あまり困らせないようにしなきゃいけないって、ここにきて二週間と半分、ずっと思って暮らしていた。
それに今日みたいに朝早くにどこかにいってしまうことも、これまではなかった。きっとよっぽどのことだったのかもしれない……。
「……では、もう昼ごはんも終わってしまうような時間になってしまったけれど、フィーのためにも朝ごはんにしようか?」
「……! はーい!」
だから、声をかけられれば2人で歩きだす。怖いけど、優しいひとでもある。やっぱりわたしは、お師匠さまが嫌いではなかった。
そうやって大股で進むお師匠さまの脚をおいかけ、ちょこまか動く自分の脚を見つめていると、上から、前を向いて歩く声が降ってくる。優しくて穏やかで、性別は読めなくてもずっと聞いていたくなるような深みのある声だった。
「……すまない、すまないねフィー、ちょっと森のだいぶ奥の方に『歪み』が見えたものだから、いても立ってもいられずに見に行ってしまったんだよ」
「ゆが、み……?」
問いかけるわたし。
と、その隙に〈刷毛尾猫〉がタタッとお師匠さまに駆けより、その身体をよじ登っていった。肩の上へ当たり前のように居座ると、鱗のあるうなじに巻き付いてすりすりと甘えだす。さっきとは打って変わって黒目まで大きくなっちゃって、わたしには見せてくれないすごくかわいい表情だ。
《なおおごろろん……》
いいなあ……。
「ねえ、そういえばお師匠さまの〈刷毛尾猫〉って、そんなにお師匠さまのことがすきなのになんで名前が『サリビノカちゃん』なんですか?」
「んん?」
「わたしに『みみながちゃん』ってつくくらい変」
「んー、わたしよりずっと先に死んでしまうから、かな……。意味をもたないのだ。人間よりもっと、それこそまばたきするような間の命だからね」
「まばたき?」
「あっという間ってことだよ」
よくわからなかった。
でも確かにこの子はわたしよりも生きないだろう。お師匠さまが言うのなら、そういうものなんだろう。
「さあ、それより、ごはんだよ。フィーが喜んでくれるか解らないけれど、おみやげもあるのだ。後で見てくれないかな」
「え、おみやげ!」
なんだろう。お師匠さまは森に行っていたと言ってた。
今の時期なら、森の黄色いベリーは鈴なりだ。あの、こがねいろの見た目によらず甘さが濃くて、でもちゃんと酸っぱいベリーの甘さと香りを思い出して、わたしはごくりとつばを飲み込んだ。
「そう、そうなんだ、正直、本当はおみやげではないかもしれないけれどね。少し変わったものを拾ってしまってね。……吾の手だけに負えるかどうか」
(ん? もしかしてベリーじゃない??)
わたし、どんな顔をしていたんだろう。目が合ったお師匠さまが、とたんに本当に愉快そうに笑った。
「ははは、よほどお腹がすいているね? 食べ物でなくてすまないよ」
「んえ?!」
ばれてしまったことに気恥ずかしさを覚えるわたしをよそに、お師匠さまは独り言のように続ける。
「――…けれど、アレはもしかしたらこの刷毛尾猫のように、お前の友になりえるかもしれないね。……否、これは吾の、ただの願望だけれどもね。それでもその方が喜ばしい……」
「え、おみやげって、じゃあもしかしてわたしの|刷毛尾猫〈サリビノカ〉――」「いやいやちがうかな、獣ではないよ、……一応ね」
速攻で笑って否定された。じゃあなんなんだろう。
でもそんなふうにおどけて肩を揺らすお師匠さまの肩の上で、お師匠さまの飼い猫は、わたしをゴミを見るような目で見下ろしていた。それだけは確かだった。
冷めてしまった朝ご飯は、少し焦げ目がつくまで焼きなおしてたべることになった。でも魔法使いのお師匠さまの家にあるオーブン窯は、魔法使いにしか使えないものだ。
だから薄切りパンと陶器の皿に盛った肉を中に並べるところまではわたしがして、あとはお師匠さまに交代した。
魔法の使えないわたしは、お師匠さまがゴニョゴニョと短い詠唱をかけて、窯の中の温度を上げるのを見ているしかできない。魔石具ならわたしでもできるのに、お師匠さまはこの窯に用があるたびに、呪文の詠唱と、胸から提げた魔石―――『提げ石』を使って、自分の力を窯の内側に刻まれた魔方陣へ流し込む。
どうしてわざわざこんなことをしているのが不思議だったけど、聞いてみたらそれはお師匠さまの『こだわり』らしかった。
「時間を惜しまないことと手間をかけることが、おもしろいのだよ。それに「魔法使い」というのは、元々こういうものだからね。魔石を持ち歩き、それを拠りどころに世界と自己をと繋げ、その道を極めるならば何もかもに干渉できる。
……特に魔石は、この世でもっとも〈円環の河〉に近いところにある物質でね……力を流したり、溜めたり、使いようはいくらでもあるのだよ。魔石具なんかは、その恩恵の一つに過ぎないね」
「ふーん?」
「……んん、聞いておきながらやっぱり興味はなさそうだね……?」
「だってわたし、魔法つかえない……」「そうかそうか、ふふふ」
あとなんか、言ってることが難しいもの。
やがて、森の緑のひかりが射す広いダイニングキッチンには、スパイスのきいた肉が焼ける香りと、小麦の焼ける香ばしい匂いが立ち込める。お腹がすいているわたしはいても立ってもいられず、そわそわしはじめてしまう。
そうして焼けたパンの上に、甘辛い香辛料のタレを揉み込んだ鳥肉と薄切りの生野菜や香草を一緒にのせて、その上からもう一枚、こんがり焼き直したパンをかぶせて具を挟んだ。
ついでに隣に、庭の片隅で飼っている鳥の玉子を目玉焼きにしたやつを添える。なんならこの鳥肉も今朝はやく、その〈青頭禽〉という鳥をわたしが自分で〆たやつでとっても新鮮だ。
焼き直しでも、とてもいい匂いがした。
「ではいただこうか」
「わーい! いただきます!」
垂れてくる香辛料とお肉の汁ごと、ガブリとかりつく。本当にお腹が空いていたから、いくらでも入る気がした。
「美味しいですねお師匠さま!」
「ふふふふ、そうだね……」
薄く微笑まれる。
……やっぱりごはんは、一緒に食べる方がたのしいと思う。
「――――では、フィーゼィのお腹もいっぱいになったと思うからね、」
そうして全部食べ終わり、食後のお茶まですすり終わってから、お師匠さまはテーブルに両肘をつきながら言った。うつむいてくつろいだ顔から、わたしを見下ろしてくる。
「突然だけれど、地下室に行こうか、フィー」
「え……」
「おみやげを見に行くよ」
そういわれても、それはわたしには本当に突然すぎる話だった。まさかそんなところに『おみやげ』があるなんて思わない。
思わず耳を下げて、丸いテーブルの向かいに座るお師匠さまを見つめてしまう。
この家は、森の中に建つ2階建ての丸太小屋だった。
1階にはわたしたちが今いるこの、広いダイニングキッチンと、窓に面してさっきのテラスと庭があり、廊下を挟んだ向かい側にお師匠さまの部屋兼、研究室がある。あとは玄関をでて隣の離れにトイレとお風呂。
それから2階には部屋が3つ。一つは広い書庫、一つは空き部屋、そして最後の1つは、今はわたしが使っていた。
でもいま、お師匠さまが言った地下室は
「…………行かなきゃ、だめですか……?」
「んん?」
思わず怯えて訊いてしまった。
だって、地下室は怖いところだ。




