8:ひとつふたつと変わること①
八章 ①/4
読了目安→7.5~12分
薄く。
本当に薄く、湖からの風にのり、ニムドゥーラの大鐘楼が鳴らす鐘の音が聞こえてくる。閉門まで残り1ルア半――――およそ3時間をつげる告鐘だった。
森の木々に挟まれた空はまだまだ青いが、日没が、その程度の時間まで迫ってきているという報せだった。
しかしそんな事とは全く関係なく、俺はふと地味に嫌なことに気付いてしまった。肩で風を切りながら、石畳を蹴る後ろの爪音に話しかける。
「なあ、もしかするとエグい臭いさせてないか? 俺もお前も」
「…………やっぱりそうだよね??」
切なそうなフィーの声が返ってきた。
俺たちは〈四ツ足ノ禽〉のコロニーからの帰り、森の中の街道を滑るような速さで歩いている。
この街道は貿易都市ニムドゥーラと、国境桟橋のある小さな宿場町を繋いでいる。行きは輓獣車に乗ってきたが、ここからだと今と同じ速度で急いでもおよそ2時間くらいはかかるはずだ。
能力まで吐いて加速すれば冗談のような速度で走れるが(そしてフィーもそれに付いて来れるが)、『ハナトのことを考えるとこれ以上速いのは負担になる』とフィーが渋る。
ガキもさっき崖の上で目を覚ましたのを最後に、もうフィーが揺すっても叩いても起きなかった。息はしているがいまだ熱も下がらず、その原因も解らない。心配になるのも頷ける。
ちなみにここまで、誰ともすれ違っていない。街で宿を取ることをめざす旅人と行き合うには、中途半端な時間だった。
……ただそれは正直、幸いなことではある。
俺たちはいま、自分の血やら〈四ツ足ノ禽〉の青い血やらで服を汚し、傷だらけだった。特にフィーゼリタスは悪臭のする青黒い色が服にべったりである。
そして妖獣の血に汚れなくとも、あの大空洞に長くいたせいでその匂いは遺憾なく衣服に染み付き…………いや、そもそも〈四ツ足ノ禽〉の真珠瘤を持っているだけで臭うのだ。
もし俺が旅人としてこんなヤツらとすれ違ったら、まず絶対まともな人間だとは思わないだろう。ここで誰かとすれ違ったら、向こうの用心深さにもよるがまあまあ敵に遭遇扱いもあり得た。
(……このまま街まで誰に出会わず、一段落つけてさっさと風呂の湯でも浴びてえなクソが)
その時だった。
「ね、ねえイチ!」
急に呼び止められる。発されたそばからその声が遠ざかるため、俺はフィーが立ち止まったことに気づいた。
「なんだ」
「もう歩かなくていいかも……。でも乗るの、すっっごく勇気要りそう……」
見ればフィーも後ろを振り返っている。
視線の先には木の葉のささめく森の中、緩いカーブを描く石畳の道がある。柔らかい毛に覆われた後頭部は、今まで歩いてきたそこへ向かって長い耳をグリグリ回していた。何かの音に気づいているらしい。
「お……?」
そしてすぐに本当に微かな揺れが、俺の履き古したブーツの靴底から足首の骨を震わせるにくる。
その振動は脛から膝、太ももへと、下半身を這い上がりながら緩やかに、しかし確かな震えに変わっていった。地震とは明らかに違う、ずしずしと響く規則的な揺れである。
やがて50メートルほど先、カーブした街道のその奥から、(紙や木でできた長い筒に息を吹き込むような)
《フォオォン、フブォオォン!》
と低く深みのある鳴き声が一度だけ聞こえた。同時に、ずっと続いていた振動そのものへ、街道の石畳を鳴らす『ドツンッ ドツンッ』という豪快な足音が重たく重なり出す。
「ね、ほらね、輓獣車だよ! ハナトちゃんいるし乗せてもらおうよ!」
「アレの声か……」
話している間に、木々の切れ間から見上げるほどの巨獣が現れる。次いでフィーの言う輓獣車が、その獣に牽引されて現れる。
背中に御者兼護衛の小柄な傭兵をのせ現れたその巨獣は〈荒レ地ナラシ〉と呼ばれる家畜だった。全身にもじゃもじゃした赤茶色の毛を生やす、鼻の短い象のような獣だ。
太くどっしりした4本の脚に生える分厚い蹄から、ドツン、ドツンと豪快な音を鳴らし、こちらに向かってくる。象とは言ったが、耳だけが尖ったひし形で小さい。
だがもっとも特徴的なのは、やはり下顎の中央から一本だけ生える牙である。地面すれすれに向かって湾曲し、さながら障害物を撥ねる平たく分厚いブレードのようだ。
その、〈荒レ地ナラシ〉の進む先にフィーがおどりでて手を振りはじめる。
――――「おーい! とまってくださーーい!!」
俺たちの背後からざわざわと風が吹き抜けるなか、大声で呼び掛けるフィーの声が森に響いた。上の御者も俺たちの存在に気づいたようである。
手綱を牽き上げる動きからも停まろうとしているようだった。〈荒レ地ナラシ〉も一度、顎を持ち上げてそれに応えようとする。
……が、その、自在に動く中途半端な長さの鼻が、フッと俺たちの方に向いた瞬間だった。
《……ブフォオォオオン!!》
あの重たい風音のような鳴き声をあげながら、その鼻が高く持ち上がる。
――――……そして次の瞬間。〈荒レ地ナラシ〉は俺たちに向かってまっすぐ走りながら、加速しはじめた。
ドッ!ドッ!ドッ! と早まる地鳴りに、ゴトンゴトンと激しく回りだす、後ろの客車の車輪の音。時間にしてわずか数秒。
まさかここでスピードを早めだすと思わなかったため、怪訝な顔をした俺も一瞬、判断が遅れてしまった。
だがどうみてもこの巨獣がこのまま止まることはない―――そのことに俺が気付いたとき、手前に立つフィーと〈荒レ地ナラシ〉との距離は、残り15メートルもなかった。
《ブフォォォォォォ――――!》
鈍重そうな頭から生えるその牙を、まるで地面へ当て擦るように振り回しながら一気に詰め寄られる。あんな巨大な物体、停まろうと思った瞬間に停まれるとは思えない。
背筋に嫌なものが走る。俺は咄嗟に駆け出した。フィーが危ない。あと背中のガキも。この分厚い一撃に撥ね上げられたらどうなるかなど分かりきったことだ。
「えっ…………」
その視界のなか、遅れて危険を感じ取ったのかフィーの耳が斜め後ろにぐりんと回る。
「だっ、クソッ! フィーゼリタス!!」
俺は後ろから相棒に抱き付いた。ガキの頭も片手で支え、もう片手でフィーの胸のあたりを服ごと掴み、真横へ引き倒す。
「ひゃん?!」
唐突な組み付きにフィーゼリタスが変な悲鳴を上げる。そのまま俺たちは三人まとめて頭から、すぐそばの茂みまで突っ込んでいく。同時に
ブォン!
と重い風を纏いながら、《荒レ地ナラシ》の牙が彼女の長い耳のすぐ横を掠めた。
―――正直ゾッとした。
なぜ急に俺たちに向かって突っ込んできたのか、いや、しかしいまはそれより、
「……お、おい、大丈夫かよ」
飛び込んだ細かい葉の茂みの上。
俺はひとまず身を起こし、フィーゼリタスの体からは掌を離した。
――――「はあ、まあ、〈四ツ足ノ禽〉狩りの帰りですか、そりゃ、まあ…………。…………それにしても毎年何人ものせてますけど、あんたら、そんなかでも一番に小汚いし臭せぇですわな…………?」
結果、血しぶきの上からさらに葉っぱのかけらを飾り付けた俺たちを、武装した御者はなめまわすような、無遠慮な態度で見つめてきていた。
被毛に覆われた目の周り以外はすべて鎧兜と手甲。
フル武装なため、人間でないという事しかしばらく分からなかった。…………しかしよくよく見れば、羽織ったマントの隙間で縞模様の長い尾がブンブンと不機嫌そうに揺れている。
(嗚呼? 嗚呼、なんだ縞尾族か)
気付いたら横髪を掻いていた。
ただ縞尾族は、山猫が子供の姿を借りているような小型の獣人で、力はないくせに小回りがきいてすばしっこい種族だ。そしてそれに気付いた瞬間には、俺はコイツらなら弱点はあそこ、装甲を突くならおそらくここなどと皮算用している。
俺たちを引き殺そうとした上でのこの態度がまじでムカつくゆえ、本気で殺ろうかともどこかで思っていた。
御者は俺の鳩尾くらいまでしかないチビのクセに、一貫してでかい態度で威張りちらしている。長い槍をもった腕を組み、撥ね上げ式の兜の目覆いからのぞくギョロリとした両目は、迷惑そうな表情を隠そうともしない。
「……まあ、こんなこと、普段はありませんよ?! 私らもあの〈荒レ地ナラシ〉もベテランですしね? でも? まあ? やっぱしそんな妖獣の臭いをプンプンさせてたら、そりゃ、〈荒レ地ナラシ〉も間違えるとおもいますわな……?」
「は、はあ……えっとその……」
「まあ、でも? 人を化かそうって妖魔ならこんな、あからさまな『臭さ』で? 人間に化けたりもしませんしねえ……?」
しまいにはスンスンと鼻を鳴らすような仕草。
「なんで突っ込んでったのか、わかりませんわな…………?」
そうやって頭を動かすたび兜の側面で、小さい金のメダルが何枚もぶら下がる飾り紐が小刻みに揺れている。
その動きにすら殺意が湧き、俺は思わず舌打ちした。
まあ実際のところ、〈荒レ地ナラシ〉は確かに鼻が利くという。池に落とした一滴の血の臭いすら判別すると言うのだから、正直俺には想像もつかない能力だ。
だが、なら。
――――どうして〈四ツ足ノ禽〉狩りに行った他の奴らには反応しなかった?
言ってしまえば、今回は俺たちが特別に臭うだけだ。なにせ例え髪と身体と服を全て洗っても、真珠瘤の臭さだけはどうにもできない。
たとえ俺たちの身体が小綺麗でも、〈荒レ地ナラシ〉には普通に妖獣臭さは判別できているだろう。
それにここの〈荒レ地ナラシ〉は、俺たちのような妖獣狩りの連中をよくのせている、と、今言ったのはコイツだ。
ならば余計に、そこそこ妖獣の臭いにもなれているはず。俺たちだけが特別に、なんてこと、可能性としてはありえない。
…………それを一方的に、このクソチビは俺たちに全ての責任を押し付け、攻めているのだ。
嫌いだ。コイツは締め殺したい。
(…………もしや、わざとけしかけていたりしないだろうな……?)
「わ、す、すいません、すいません、臭くて……」
しかし一方、俺の目の前に立つフィーゼリタスは、争う意思が全くないようだった。俺と共に轢かれかけたクセに、
「ホントにごめんなさいすいません……あ! その! 後ろの人の目が怖いのは元からなんで気にしないでくださいごめんなさい」
などと、(コイツも言い方が大概だが)縞尾族を相手にたじたじになりながらずっと謝りたおしている。
その上こちらを見てこない。
つまり独りで対応しきるつもりなのだ。
他の誰の感情に共感を持てなくても、俺はコイツの価値観からだけは目をそらさない。出ていってもフィーゼリタスに止められるような行いは、俺はまたするべきではない。
ゆえに仕方なく、今もフィーの背後でクソチビ輓獣車の私兵がかぶる制服にガンを飛ばすだけで終わらせてやっている。
「……………………」
ただその合間にも、視線はやはりふとフィーの耳の後ろ辺りへ吸い寄せられてしまう。俺はさっきからずっと、なにやら妙な驚きを引きずり続けていた。
また手が髪を触る。
(――――というかフィーゼリタスって――――性別、あったんだな……?)
先ほど〈荒レ地ナラシ〉を避けたとき、咄嗟に掴んでしまったフィーの胸部の、しなやかな筋肉とは違うその感触。
奇妙に手に残ってしまったそれに、普段なら怒りに全振りしている意識を、大きく割かせられていることは正直否めなかった。
フィーゼリタスは、女だった。
……いや、知ってはいた。知識として。
だがコイツの見た目がふわふわの仔ウサギのようだった頃から側にいすぎて、逆に、ずっと抜けていた概念だったのだ。
さらにはフィーが、〈円環の河〉の〈力〉を自身の肉体強化に使える〈祝福〉持ちの俺と、素でやりあえる程度には強いこと。
フィーゼリタス自身も、(仕事柄もあるが)ふだんから性差のない服装しかしないこと。…………あとたまにそこら辺を薄着で歩き回っていても、パッと見判らないくらいには絶望的に『膨らみ』がなかったため、もう長い間、コイツが異性だと意識も、実感すらしてこなかった。
そして何より『彼女』は、俺の感覚でいうところの人間ではない。今だって娼婦とはできても、コイツとはたぶん無理だ。…………それなのに、触ってしまった。
(――――コイツが、女とか……)
いや。
いや、それより前に、やはりすぐには自分の心がその事実を噛み砕ききれない。
胸の裏側がざわざわする。
「………………」
(あ゛?! いやいやいやいやっ?! …………くそっ、アホらしいっ!!)
と、そこで思わず真剣に考そうになる自分を、触っていた髪を掴み、頭の皮ごとぐりぐりと揉み上げることで押さえ付けた。
実際、いまこのタイミングで、こんなしょうもないことに衝撃を受けているのは、自分でもどうかと思う。
どんな生物にも性別はあるだろ。なに当たり前のことで動揺してんだ俺は。
《………………んぅ…………》
と、そこで聞こえたその声は、俺の視線と意識を現実に引き戻すための刺激となってくれた。
もう少し下へ目を向ける。フィーの背中にいる彼女が、目を覚ましたところだった。
フィーゼリタスの肩に頭を預けたまま、街道の先に停車している輓獣車の方へぼんやりと視線を向けている。どうやら首をひねって周囲を確認している様子だった。
……あのでかいのが気になる、のか?
と、同時に、現実のフィーの片耳だけが、ぐるりとこっちを向く。ガキが動いたことに気付いている。
『――――この子とちゃんと向き合ってほしいです。ボクはもう、毛皮の敷物になってもいいから……』
今も目の前に立つ俺の相棒の、切実な願いが頭をよぎる。
さっきも少し、塩気も旨味もない硬い保存食を渡して食わせようとしてみたりしたが、結局コイツはひと口も噛らなかった。
やはり好き好んで関わりたくはない。
それでも今、臆病な俺からフィーゼリタスにしてやれることはこれしかないのだ。
顔を寄せ、口を開く。
《…………アレは馬車みたいなやつで……あのデカい生き物は『ファラヘ』、だ》
枝の張りめぐる硬い茂みに、弱った子供を無理やり突っ込ませた直後に話しかけるような言葉でもなかったかもしれない。しかし、やはり込み上げてくる嫌悪感を飲み込んでとっさに出した言葉で、ガキのふたつの瞳は瞬時に俺を捉えてきた。
「っ?!」
しかし俺は、目をそらさなかった。
――――……よく思い返しても、俺はこの瞬間に初めて、ハナトと自ら望んで視線を合わせた気がした。
「………………」
しっかり見れば、彼女の目付きは垂れ気味だがぱっちりとした印象だった。
細く短い眉。子供らしい円い輪郭。背中まで伸びたバサバサの、色素の薄い黒髪。ぼろぼろに破れて血のついた服。
そして俺と同じ、榛色の瞳。
《ふぁ……へ……》
ふう、ふう、と息を吸って吐く底から返ってくる掠れ声。
『――――ハナトちゃんは、ハナトちゃんの心を持ってるから――――』
その瞬間ほんの僅かだけ、あの時フィーの言っていた言葉の意味が胸に溶け出してきた気がした。
あの国で生まれ育ち、ここに流れ着き、そして今ここに至るまでにハナトが背負ってきたであろう思いに、ふとここで、初めて気持ちが向いた。
《……なあおまえ、こんなことしてて幸せか?》
《…………?》
どうしてそんな、脈絡もない間抜けな問いを、唐突に
してしまったのだろうか。
返事は、なかった。
ただふにゃりと力なく微笑むと、ハナトは再びコトリと、意識を落とし、また深い寝息を立て始める。
そして一方の俺は己で問いかけておきながらも、その言葉と、この『ハナト』という子供の存在が、気持ち悪いほど胸にひっかかり続けている。
そこに放ったこの言葉は、何か、古い記憶の奥底に紐付けされているように思えてならなかった、俺はそれがどこで聞いた言葉だったのか、その意味も含めてしばらく考え続けてしまうのだった。
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