プロローグ『初戦闘』
久々となる新連載です。初めましての方は初めまして。
ゆったり書いていくつもりですので、応援よろしくお願いします!
※本プロローグに関しては、本作8話を読んだ後に読んで頂ければ分かりやすいかと存じます。
いつでも抜刀できるよう、腰の鞘に収まるダガーの柄を、逆手に固く握る。
革手袋が擦れてぎり、と音を立てる。
摺り足でじりじりと包囲円を狭め、敵との距離を詰めていく。
新緑の草木が枝葉を広げる、蔚蔚たる自然豊かな森の奥深く。
小川のそばにある少しだけ開けた場所。
鳥が囀る声や川のささらぐ音に混じって、皆の緊張した息遣いが聞こえる。
自分を含めて五人と、対峙しているのはウェアラット一匹。
意識の隙を突こうと用心深くその様子を窺う。小柄で薄汚れた毛むくじゃらの体躯に、細くて毛のない尻尾がゆらゆらと左右に揺れている。
目立つ隙はない。警戒しているのだろう。
魔物からすれば五人に取り囲まれているのだから、当然だ。
──ぴりぴりと空気が張り詰めている中。
キィ、と金属を擦った音に似た耳障りな鳴き声が聞こえた。
それが合図となった。
先手を取って動いたのはウェアラットの方だった。
乾いた地面を駆ける足音が真横を通り過ぎたあたりで、「あ」と遅れて、リクはダガーを右腰の鞘から走らせた。
だが、ダガーは何にも当たることなく、大きく空振りして身体が流れる。
それを好機と捉えたのか、醜悪なネズミ顔をした二足歩行の魔物──ウェアラットが唸り声を上げながら進路を反転させ、リク目掛けて迫ってくる。
突っ込んでくるウェアラットに対し、リクはスタンスを広げて迎撃を選ぶ。
だが、全力で振り切られるダガーはことごとく空を切る。至近距離で二、三度と振るうが、毛の先に掠りすらしない。
「……っ」
──想像より、ウェアラットの動きがずっと速い。
動きにも規則性がなくて、どっちに動くかの判断ができない。
ダガーの先端で牽制しながら、一旦距離を取ろうとバックステップを踏む。
しかしウェアラットは素早い身のこなしでダガーの切っ先をかいくぐってくると、リクの腕に向かって巨大な齧歯を剝いた。
「うわ……っ!」
息を詰まらせ横っ飛びに地面を蹴って、慌てて腕を引っ込める。
あんなのに噛まれたら絶対、ただじゃすまない。
焦りからむちゃくちゃな構えでダガーを前方に突き出すが、今ので腰が引けてしまって、まるで当てられる気がしない。
ウェアラットが首をしならせ体を震わせ、大口を開けて「シャァアアア」と、ネズミというよりは猫のような声を上げて威嚇してくる。
赤い目がリクの姿を中央に映し、爛々と光る。
確かウェアラットって、ここらで最弱の魔物って話じゃなかったのか。
やばい。なんだ、これ。──なんで、こんな怖いんだ。
「なにやってんだ、リク!」
仲間の声で、リクははっと我に返る。
一瞬の思考時間が仇となった。
「……っ⁉」
気付いた時には、ウェアラットがすぐ目の前まで迫ってきていた。
次の瞬間。右腕に鋭い痛みが走り、全身が硬直する。
カラン、と。
思わずダガーを取り落としながらもなんとか後ろに飛び退く。右腕に視線をやれば、前腕の皮膚が細長く抉り裂かれていた。
「痛……っ。っ、つう……」
口から漏れる言葉はほとんど反射で、どちらかというと驚愕の方が強い。
──今、何を喰らった?
距離を取ったことでウェアラットの全身が視界に入る。その細長い腕の先──長く伸びた爪に血がついている。あれを喰らったのだ。
警戒するべきは爪と齧歯。分かっていたはずなのに。
真っ赤な血が滲み出てきて、傷口を反対の手で押さえる。
痛みと恐怖で全身を強張らせるリクを前に、ウェアラットは止まらない。
「こっちだ、ネズミ野郎ッ──!」
と。そこで掛け声と共に、ウェアラットの上側面から戦斧が振り下ろされた。
「キィッ」
リクのダガーとは違い、戦斧での一撃はまともに当たれば多分、というかウェアラット相手ならほぼ確実に一撃必殺の威力があるだろう。
傭兵の技能──〈剛断〉。
その必殺の一撃を、ウェアラットは後ろに飛び退くことで躱した。
続けて繰り出される連撃も、距離を取られて掠る気配もない。
それでも汗を飛ばし、一つ括りの長い髪を振り乱しながら重い戦斧が振るわれているのは、リクが離脱する時間を稼ぐためだろう。
「カガヤ、ごめん……」
リクが謝ると、斧の柄の部分で齧歯を受け止めた男が舌を打った。
「ち……。いいからさっさと、それを拾え!」
堅い木製の戦斧の柄がみしりと音を立てて軋んでいる。
それを見たカガヤが苦々し気な表情を浮かべてウェアラットの腹に蹴りを入れようとすると、ウェアラットは噛みつきを中断してひらりと横に避けた。
「け、怪我……っ、今治すから……っ!」
リクの元へ駆け寄ってこようとした白い祭服姿の少女──エルを、リクは「……大丈夫!」と制止して、ろくに頭も回らないまま地を蹴りダガーを拾いに行く。
体術の方はかなり自信がないし、武器がないと戦えない。
しかし、それを阻止するようにウェアラットが飛び掛かってきた。
真横から肩に跳び蹴りを入れられ、リクは軽々吹っ飛ばされる。
「う、わ……っ!」受け身も取れずに地面に転がされ、慌てて立ち上がろうとして足をもつれさせ、また転んだ。
「ちっ……そっち行ったぞ、リク!」
カガヤが声を張り上げる。
痛みに顔をしかめる暇すらもほとんどなかった。
「なこと、分かってる……って、ちょ、待っ……!」
そんなことを言ったって、ウェアラットの追撃が止まるはずがない。
次から次へと顔面目掛けて突き立てられる爪を、リクは必死になってごろごろと地面を転がりながらどうにか避ける。
──と。背中を何かに強かに打ち付け、次の回避行動が取れなくなる。
「げほっ……!」咳き込みながら、木にぶつかったのか、とどこか他人事のように思う。そんなことを悠長に考えている場合じゃない。
というか、間に合わない。
迫ってくる爪にリクが思わず目を瞑りかけた、細目の隙間で。
間一髪、鈍色の人影がリクの視界の外から猛然と飛び出てきて、ウェアラットが馬車にでも轢かれたみたいに凄い勢いで跳ね飛ばされた。
リクにも一瞬何が起きたのか分からず、当惑しながら上体を起こす。
「怪我はありませんか、リクさん」
「……ありがとう」
前傾姿勢に中盾と長剣を携えた、板金鎧姿の男──ハザマサが差し伸べてくれた手を握って、リクは背中をさすりながら立ち上がる。
自分からとはいえ結構な勢いで強打したため、ずきずきと痛む。
──なんというか、カッコ悪すぎるだろ、俺。全然、イメージ通りに身体が動かないし。斥候ギルドで習った技能も全く活かせてない。
実戦と訓練とで感覚が全く違うことに歯噛みする。
師匠と比べればウェアラットの動きは鈍重とまでは言わずとも遅々としている。
それなのに全く追い付けるイメージが湧かないのは、こっちが遅いからだ。リクだけじゃない。他の皆も、それぞれきっと動きが悪い。
緊張からか焦りからか、身体が重く、思う通りに動かない。
ウェアラットは思い切り吹き飛ばされていた割には、そこまで深刻なダメージは受けていないみたいだった。少し苦しそうな鳴き声を発したもののすぐに立ち上がり、ぐるりと首を後ろに半回転させる。
一瞬遅れてウェアラットの判断に気付く。
リクから標的を変えたのだ。首を捻り、茂みに潜ったその姿を追う。
弧を描いて木々の隙間を通り抜け、次なる標的の側面へと回り込もうとする。
「っ……」
標的となった灰色の装束と外套に身を包んだ少女が、杖を両手に握りしめる。
棒立ちしている彼女に、リクは焦って駆け寄り思わず声を荒らげる。
「メイカ、魔術! はやく!」
「……っ──ふぁ、【火弾】っ!」
メイカの詠唱の後、杖先の虚空に幾何学的な魔法陣が顕現し、そこから拳大の火球が飛び出す。ウェアラットはサッと身を伏せてそれを避ける。火球は真っ直ぐ飛来し、リクのすぐ隣の巨樹に炸裂して火の粉を振り撒きながら霧散した。
「あ……! ……っ!」
魔法が何の足止めにもならず躱されたことにメイカが狼狽し、杖を前方に突き出してウェアラットを追い払うように振り抜く。
しかし、大して威力のないそれにウェアラットは嫌がる様子もなく、メイカに飛び掛かる。「きゃ……!」身を捩ったことで凶悪な齧歯からは逃れられたが、追いかけるようにして薙がれた爪がメイカの腕辺りのローブを引き裂いた。
「メイカさん!」
鎧の音を立てて走り寄り、ハザマサが焦燥の滲む声で叫ぶ。
「め、メイカに近付かないで……っ!」
灰のローブに薄く血の滲む傷口の辺りを押さえながら、杖を握る力を弱めるメイカを庇うように、一番近い位置にいた侍祭の少女──エルがウェアラットの前に飛び出た。けど、明らかに足が震えている。生まれたての小鹿のようだ。
両手に持ったメイスが力いっぱいといった様子で振り回される。メイスを振るっているというよりは、振り回されているような攻撃だ。
だが、むしろそれに面食らったのか、ウェアラットは怯んで飛び退き二人から距離を取った。臆病なのか、それとも慎重なのか。どちらにせよ助かった。
そこに追いついたハザマサが間に立ち塞がり、いつのまにか抜刀していたロングソードの先端をウェアラットの喉元へ向けて構える。
ハザマサは体が大きくて、重厚な装備には威圧感もある。
ウェアラットも警戒しているようで、距離を詰めようとはしない。
「ぁ、あ……ありがとう。エル」
メイカは目の縁に涙を浮かべ、腰を抜かしてその場にへたり込む。
「怪我してる……今治すから。【治癒】」
エルがメイカの腕に手を当て、癒しの魔術を使う。エルの手が触れた傷口の辺りが淡く青色の光を帯び、瞬時に傷が癒えていく。
「ん……っ」
その様子とウェアラットとを交互に瞥見しながら、今の隙にとリクは短剣を拾う。
仕切り直しだ。
でも、まだ数十秒くらいしか戦っていないはずなのに、リクを含めて五人全員、息が切れてきている。敵は一体で、それもそこまで強くない──というかここら一帯で一番弱い魔物だ。それなのに、まだ誰も有効打を与えられていない。
カガヤが隙を見て背後に回り込もうとしているが、そのたびにウェアラットの耳がピクリと動き、断念せざるを得なくなっている。
ハザマサはエルとメイカを庇うように立ち、慎重に相手の出方を窺っている。
──正直、多少の驕りはあったと思う。
けど、《加護》を貰って、修練を受けて。それでこんなに苦戦するなんて。
ぐっと、ダガーの柄を握る手に思い切り力を込める。
認識を改める。
認めたくはないけれど、認めなければならない。
今のままじゃ、俺たちは最弱とされている魔物すら殺せない。
受け入れがたいけれど、それが現状、直面している事実だった。