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記憶  作者: 山脇和夫
3/4

虚構

6

明日はイ.ジョンチョル氏が帰国の日であった。

なんとしてでも今夜決行しなければならなかった。

夕方になってタカシはジョンチョルが泊まるホテルの部屋をノックした。

「き、貴様か!お前に話すことは無い!さっさと帰れ!」

ジョンチョルは顔を見るなり怒鳴りつけた。

まぁ

あんだけ酔い潰れていたくせによくも覚えていたものだ。

「先日は本当に申し訳ない。今日はこの間の無礼を謝りにきたんです。あなたの徴用工問題の苦痛を疑ってしまって本当に申し訳ないと思っています。殴られ罵倒されて当然です。

今日は前回の謝罪を含めてお詫びしたいと思っています。」

ふん!とジョンチョルは鼻を鳴らした。

「如何にお前が謝ろうとも私が被った苦痛、朝鮮民族の怨念は消せるもので無いは!

確か在日と言ったな…お前のような奴は朝鮮の裏切り者じゃ!」

ジョンチョルは一気に沸点に達していた。

「申し訳ない先輩、この間の失敗は全部私の責任です。先輩の味わった苦労も知らず軽率な発言をしてしまって本当に申し訳ないです」タカシは深々と頭を下げた。

「今日はそんな自分が許せず、せめて先輩の機嫌が直ってくれたらと先輩に心ゆくまで飲んで頂こうとお誘いに入りました」

タカシは平身低頭、頭を最上級に下げた。

「へーん、どうせその様に見せているだけであろう、日帝に媚びへつらい、強いては日本の感受に染まった輩など信用には当たらぬ!

もう一度土下座させようか…あははは、、、

どうじゃサルもどきめが!」

タカシはこの侮辱に拳が震える思いだったがぐっと堪え笑顔を見せた。

「先輩、今日は仕事の話では無いんです。

先輩の労を労うのと、酒宴でもてなしたいとお誘いに上がったんです。それに…それにこの間の償いと謝礼の意味を込めてこれをお持ちしました」

タカシはカバンの中から100万円の束をチラつかせた。

「これはほんの手土産です…」

タカシはカバンから札束をチラつかせて差し出す仕草をした。

ジョンチョルの口元が一瞬緩んだ。

「今日は仕事の話は一切無しです。もし応じてくれるのなら、このお金、慰謝料として差し上げます。いえ、応じてくれなくてもこれは慰謝料ですから納めてくだい。今夜は取って置きの演出をさせて頂きました、最後の日本を存分に楽しんで頂きたいと思います」

タカシは地べたに頭を擦り付けてお辞儀をした。

「今宵、徴用工の話が一文字でも出たら、わしは帰る。それはお前が約束を違えた報いじぁ、分かったか!」

「はい、承知しております。一言でも出したら、気の済むようになさってください」

タカシは札束の入った封筒をジョンチョルに渡した。

ちょっと待ってろ、支度するからと一旦ドアを閉めた。


タカシは大久保のバーに再度連れて行った。

そこにはマスターに頼んでおいた知合いのキャバクラ嬢三人が待っていた。

三人には事情を説明して徴用工の話は出さないように言いくるめてある。

嬢たちはジョンチョルを真ん中に、賑やかに飲み進める。

ジョンチョルも煽てられ勧められれば悪い気にはならない。

上機嫌で大はしゃぎだった。

いい加減酒が回ると、自分から徴用工の話を喋り出した。

「わしは徴用工の倅として軍艦島に渡ったんじゃ。日本人は皆鬼だわ!奴らはわしらを痛みつけては喜んでおったわ。わしも小突かれ、蹴り倒されて毎日いつ死ぬかと怖がっておったわ。おい、若僧!そんなわしらの気持ちが分かるか!呑気にぬるま湯に浸かっていたお前には分からんだろうな!日本人はみんな悪だわ!」

タカシは何度もオデコを突かれて罵倒を浴びせられた。

嬢たちは一瞬白けたが、飲も飲もっと場を取り繕う。

「あんたらも昔だったら慰安婦じゃ!何ならわしが相手しようか」

「おじいちゃんなのに元気ねぇ」と嬢たちもはぐらかした。

いい加減、大酒を飲んでキャバクラ嬢を弄んでいたが、

「あ、ジョンチョルさん、そろそろ時間です。今度はもっと良いところにご案内しますよ…ささ、行きましょう」

ジョンチョルはまだ飲み足らないと言うように不機嫌になったが、タカシは耳元で「女

を用意してあります。ベットのあるお部屋で」と囁いて立ち上がらせる。

バーのマスターも無理はするなよと眼で訴えた。

タカシも小さく頷いた。

二人が出て行くと、「マスター、今夜の分は弾んで貰うわよ。あー気持ち悪いジジィだったわ!」と女達も嫌悪感を露わにした。


タカシは店前に止めてあった飯島が運転する乗用車に乗り込んだ。

ジョンチョルは車内でもタカシに対してクダを巻いた。

「貴様ら若者はわしらの苦労がちっとも分かっておらん!わしらの苦渋の上に今の平和がある事を思えば、もっと敬うべきじゃ!分かっとるのか!」

タカシの頭を何度も小突きながら偉ぶった。

とても平常心ではいれない状態だったが、これからする事の緊張感がタカシを思いとどまらせていた。

20分ほど地獄の時間を過ごしたが車は記憶サロンの入り口に停車した。

「先輩、着きましたよ。ここに女を用意しております。ささ、中に入って下さい!」

ジョンチョルは薄ら笑いを浮かべながら車を降りたが怪訝な顔で

随分と殺風景な所やな…本当にここで良いんか?と毒づいた。

酔っていなかったら、ここがホテルやバーの類でないことはバレていただろうが、ほとんど泥酔状態のジョンチョルには判断がつかない。

タカシはサロンの一室にジョンチョルを招き入れた。

そこにはマザーメモリの施術者用のベットと大掛かりな機械が設置されている。

それと豪華な待合風の応接セットが置かれていた。

「さぁここに座って!今お酒を運んできます。間も無く女も到着しますからそこのベットで心ゆくまで楽しんでください」

ジョンチョルは頬が緩みつつも奥にある機械はなんじゃと聞いてきた。

「それはお楽しみですよ、先輩が気持ちよくなるためのオモチャです」

フンと鼻を鳴らしたが満更でもないという顔をした。

タカシは奥に入ると用意したウイスキーをグラスに注ぎながら、粉末の睡眠薬を振りかける。

極度の緊張感で手が震えて予想以上の薬を混入してしまった…

タカシも仕事上、幾多の修羅場は潜り抜けてきた。

犯罪一歩手前の事も何度もある。

しかし、ここでやろうとしていることは完全に犯罪である。

拉致、傷害、マザーメモリの悪用…露見すれば実刑間違いなしだ。

しかしスクープをモノにしてチェソンの鼻を明かしたという気持ちもある。

俺は鬼になるんだ!と気持ちを鼓舞しながらマドラーをかき回し続けた。

「さぁ先輩、どうぞ。これでも飲んでお待ちください」

女はまだかと大声を出すジョンチョルをなだめすかしてグラスを置くと、一目散に裏に逃げ込んだ。

自分の犯した犯行を見たくないという気持ちのあらわれだった。

ジョンチョルはグイッとウィスキーを煽りながらもまだ大声で叫んでいる。

タカシは耳を塞いだ。

3分ほど経っただろうか…

急に静かになった。

そっと覗くと、ジョンチョルはベットの上で横になっていた。

何を思ったかズボンを下ろし下半身を露わにして寝込んでいる。

このスケべジジィが!

タカシは毒づいた。

さてここからが本番である。

タカシは奥に隠れていた飯島を呼び寄せるとマザーメモリの起動を依頼した。

マザーメモリはいくつもの配線が付いた帽子のようなものを被せる形になっている。

見た目の構造はシンプルであるが、それを起動させるためには、特殊なライセンスを持ったマスターしか始動できない仕組みになっている。

飯島は自ら生体認証装置の前に座り始動の準備をする。

間も無く機械が動き出し、機械音がし出した。

マザーメモリは施術者の脳の記憶をダウンロードする所から始まる。

一年分を約1分でダウンロードするのでジョンチョルの場合は時間がかかる。

もどかしい時間が過ぎた。

タカシも自分を落ち着かせるために酒を煽ったが、全然酔った気がしなかった。

待っている間、飯島から使用のレクチャーを受ける。

ダウンロードが完了すると当時の年齢を指定して映像を見ることが出来るが、現在から何日前の記憶かという所で判断する。

昨日の記憶なら24時間前、

一年前なら365日✖️24時間という計算になった。

ジョンチョル氏が軍艦島に渡ったのは小学生の頃という。

6歳か7歳か…現在88歳だから81、2年前の記憶ということになる。

タカシが入力を済ませると、画面にジョンチョルの記憶が映し出されてきた。

意外に鮮明な映像だが、あくまでも自分の目で見てきた物が映し出される。

ジョンチョルの歴史…幼くして地獄のような島に渡り、生きながらにして修羅の世界を体験した実像に触れる瞬間だった。

タカシは映像を見ながら、自分の幼少期の頃を思い出す。

タカシもまたジョンチョル氏とよく似た経験を持っていた。

小学校の頃、父親の仕事の関係で韓国から日本に渡ってきた。

本来なら朝鮮学校に入校できればよかったが、日本の普通の学校に入る羽目になった。

日本語もほとんど喋れず友達も出来なかった。

間も無く中学に進学したが、その頃からイジメの対象になったのだ。

毎日殴る蹴るの暴行を受け、なけなしの小遣いをむしり取られた。

真冬に裸にされた挙句、川に突き落とされた事もあった。

そう…タカシも言葉に出来ないほどの苦痛を味わった一人なのだ。

ジョンチョル氏との記憶がダブった。

やがて高校に進むと日本の風土にも慣れ、イジメっ子からも離れたせいで虐待を受ける事もなくなり、大学では学生生活を謳歌することが出来たのだが…

人の傷みを理解しない子供時期の何たる残虐なこと…古今東西に関わらず起こる悲劇であった。

そんなタカシの経験から日本人に対する意識に好意は無い。

普段大人しく理性的な日本人の奥底には残虐な内面を有しているのだというスタンスをタカシは持っていた。

そんな少年期の記憶を辿りながらジョンチョル氏の記憶を回し見る。

幼少期、ついで少年期、青年期…

タカシの顔は曇った。

そして五年前、徴用工という言葉が問題視されるところまで見てくる。

「…」

タカシは言葉を失った。

再度少年期まで戻って島に渡った当時に戻り、今度は渡る前の記憶に遡ってみた。

「こいつ…こいつは一体何者なんだ」

ジョンチョルの記憶の中には軍艦島での生活は一切無かった。

幼い頃から貧乏でどん底の生活環境だったのは可哀想だが、人生の殆どが刑務所とシャバの行ったり来たり…シャバに出れば、強盗、婦女暴行、詐欺、殺人未遂などあらゆる悪に手を染めている。

いや、百歩譲って、徴用工時代以外の記憶はどうでもいい…しかし徴用工時代の記憶も無いなんて…こいつの訴えていた軍艦島の話は一体なんだったのだ…

マザーメモリは本人の記憶を正確にトレースする。

失われた記憶でさえ、マザーメモリにかかれば正確に蘇らせる。

しかし体験していないことは当然写し出されない。

つまりジョンチョルは軍艦島に行った事も無いのだ…つまり嘘を語っていたという事になる。

なんなんだこいつは!

散々人の事を罵倒し、蔑んできたくせに全部嘘だったとは!

タカシの怒りは頂点に達した。

目の前でスヤスヤ寝て入るジジィ…

スケべにもズボンまで下ろして女を待っているジジィ…

こんな奴にみんな騙されていたとは!

しかも無いことをあたかもあったように言いふらして平気でいる俗物。

こいつは人間では無い!

タカシは抑えきれない感情が一気に爆発して制御できない自分になったと思った。

タカシはジョンチョルのズボンに巻いてある安物のベルトを外すと自分の手に巻きつけた。

タカシ自らが一線を超えた事を知った。

タカシは助走をつけると力の限りジョンチョルの頬を殴りつけた。

ジョンチョルの顔が歪み、入れ歯がすっ飛んだ。

タカシはもう一度走り込んで殴打した。

今度は残っていた歯が数本飛んで行くのが見えた。

口からは鮮血が流れ泡を吹いている。

身体がベットから転げ落ち、グッタリと生気を失った。

失神したか、もしかしたら死んだかもしれない。

しかしもうどうでもよかった。

先ほどまでのタカシではない。

彼の心に鬼が宿ったのかもしれなかった。

ものでも運ぶようにジョンチョルの体を担ぎ上げると服のポケットから、先ほど渡した百万円の封筒が転げ落ちた。

タカシは自分のポケットにそれを仕舞うと飯島に運転しろと命じる。

飯島も気を押されたのか、慌てて運転席に座る。

まずはジョンチョルを宿泊していたホテルに運び込まなければならないが、途中大きなマンション群の片隅に車を止めるよう命じた。

そこはゴミの集積場であったが、タカシは無造作にジョンチョルを担ぎ上げると、まるでゴミでも捨てるようにジョンチョルを投げ入れた。

びっくりする飯島に

ゴミだから捨てただけだ、と事も無げに言い捨てた。



翌朝タカシが起きると、さっそく身元不明の老人が意識不明の状態で見つかったと報じていた。

「あらやだ、物騒な世の中になったものね」と妻の由紀子がつぶやいたが、タカシは眉ひとつ動かさなかった。

タカシの脳裏には一人の人間が支配している。

マザーメモリに映し出されたジョンチョルの記憶のワンシーンである。

五年前の徴用工問題が噴出する前、ジョンチョルが刑務所に投獄されていたおり、一人の政治家がしきりと面会に現れていた。

保守党の有力議員、現政権では大統領の側近として君臨している男である。

彼はジョンチョルを訪ねる時、何枚もの写真を持ち込んで彼にしっかり覚えこむようにと迫っていた。

そして我々の役に立てと強要していたのである。

ジョンチョルは写真の内容を覚えようと暗記できるまで覗き込んでいた。

議員の秘書と名乗る者もしょっ中現れてはレクチャーを繰り返した。

ジョンチョルが覚えこもうとしていた写真はタカシにも見覚えがあるし、訪れた事もある。

それは軍艦島の写真であった。

どうも彼はここから軍艦島の情報を得ていたらしい。

代議士の要求を聞くならば私の権限でこの地獄のような刑務所から出してやるとまで言い切っていた。

代議士はハン.ジンソク…政権の懐刀と言われる、又は影の大統領とまで言われる男である。

タカシはハン、ジンソクの記憶を盗み見ることで軍艦島の真実を知りたいと思っていた。


日韓関係は徴用工問題を持って、引き返すことのできない局面にまで達していた。

そればかりではない。

天皇の謝罪要求や自衛隊と韓国海軍とのいざこざなどが深く絡み合って解くことが出来ないほどに絡み合っている。

以前からこのような問題が無かった訳ではない。

ただ以前なら水面下での折衝で双方落ちどころを探れたところだ。

しかし韓国の現政権は以前と大きくかけ離れていた。

左翼的北寄りの政権は日本との妥協ではなく闘争を目論んでいたのだ。

そしてその中心的人物がハンジンソクだった。

日本を叩くことにその力を発揮していたが、

交渉もまた彼の専任であった。

より多くの慰謝料や協力金を引き出し、独立財団を作っては日本に金を引き出させていたのである。

現政権ではなかなか強硬姿勢を崩さないが、それも今まで以上の拠出を狙ってのことだろうと分析されていたのである。

徴用工問題も絡み合っているだけでは意味がない。

巨額の慰謝料を引き出させる事が最終目標である。

大物が直接交渉することで打開を目指すことになれば、ハン・ジンソク自らが訪日してくるのは自明である。

タカシはこの機会を逃すまいと狙いを定めた。



7

羽田空港は、韓国からの要人を迎えるため、物々しい警戒態勢が引かれていた。

時期が時期だけに、日本の右翼関係がどのような動きをするかわからない。

警戒も厳重だが、公安より特別警護を目的に二人の警護官が派遣されてきた。

飛行機を降りたハン.ジンソクは羽田の貴賓室に通され、二人の警護官と向き合った。

「私はハン代議士の日本滞在中警護を仰せつかりました武田と申します」

「同じく真田と言います」

二人の公安は背筋を伸ばして敬礼した。

ハン.ジンソクは上から下まで二人を撫で見回しながら、フンと鼻をならした。

「わしは韓国の至宝である。わしの身に何かあった時は日本が吹き飛ぶということだ!わかるな?警護に手抜きがあったらタダじゃ済まされんからな」

開口一番、高圧的な態度で臨んできた。

「はい、分かっております。私どもが滞在中しっかり警護をさせていただきます」

上司の武田が言葉を受けた。


ハンの滞在日程は5日間である。

本日は政府の要人との会食がある。

明日は親睦を兼ねての観光。3日と4日目が担当大臣との折衝、最終日が共同声明という運びであった。

この間二人の公安警護官は、トイレとホテルの寝室以外はつきっきりで警護に当たる。

1日目の夕食会は日本の親韓派議員たちとの夕食会であったが、ハン.ジンソクは最高級のホテルと夕食の食材を要求していた。

本来なら日本の政府要人が出席して懇親を深めたいところだが、この後に控える接渉に無用な干渉が入らないようにとの考えで同席を見合わせていた。

しかし本音を言ってしまえば、日本に対して強硬な態度を示し続けるハン議員に好意を持つ者がいないと言うところだろうか…

晩餐会でも大いに持論を繰り返し日本バッシングを展開していた。

周りが親韓派であっただけに耳を傾けている議員も少なくなかったが、あまり気持ちのいいものではない。

会場内に入ることを許された武田と真田であったが、ハン代議士の言葉が耳に入らぬようにするには警護に専念するのが一番とでも言うように、周囲に目を光らせていた。

2日目はこの議員団を連れて鎌倉を観光する事になっている。


翌日は政府専用車三台を連ねて鶴岡八幡宮を訪れた。

学芸員も同行して鎌倉時代の成り立ちや、その後の経緯、元寇の来襲などを説明しながらの参拝であったが、もちろんハン議員が本殿に手を合わせることはない。

そればかりか、元寇の話では元と倭寇の未開人同士の殺し合いと言い切った。

しかしハン議員は不機嫌ではない、いやむしろ上機嫌ではしゃいでいた。

訪日の時は、彼の手腕で協定の成否が決まるが、ここのところの協定はどれも難航していてまとまらないケースが多い。

韓国国内でも彼の能力に疑問を投げかける議員も少なからず出て来ていた。

いつも張り詰めた空気と日本バッシングに余念のない彼だったが今回だけは周囲にも全く違う印象を与えていたのだ。

ハン議員の態度はともかく、何事もなく穏便に訪日が終わってくれればと願う武田だった。

実は武田も真田も韓国語が理解できる。

だからこそ今回の重責を担当することになったのだが、普段も日韓摩擦の諜報に力を入れていただけあって韓国通と言えた。

ハン議員ら韓国議員団の話している内容は武田らにも理解できたのである。

その日のはしゃぎっぷりを見て、真田が怒りが収まらないと言うように武田に迫って来た。

「武田さん、俺もう我慢できないっすよ」

「やつら、何しに日本にきたんすかねぇ、散々贅沢三昧をしている癖に、日本批判の言いたい放題!言葉がわからないと思って一般人にまで暴言を吐いてます。俺もうあいつの護衛は降りたいっす」

武田は黙っていた。

自分たちが韓国語を理解できることを韓国側には伝えないようにと真田に言い聞かせていた。

その方が彼らの本音が聞けると思っていたからだ。

ただ今回は言葉が理解出来るだけに返って無用な雑言まで聞く羽目になった。

「それにあいつら…」

真田がまだ何か言おうとするのを武田は制した。

「いいか真田…俺たちの任務はハン議員の警護だ。奴がいい人間であろうと無かろうと関係はない。訪日中の身の安全を確保する事に集中するんだ」

正論だった…真田は自分の感情を抑えようと口を踏ん張った。

気分を落ち着かせると、今度は小声で話しかけた。

「それにしてもハン議員の態度、いつもと違う感じがします。何故あんなにも上機嫌なのでしょう」

「私も気になっていた…これはまだ噂の域を出ないが、先日マンションから意識不明の老人が搬送された。かなりの重症でいまだに意識も戻らず所持品も無いので身元が分からないのだが、ネットの情報から徴用工問題の語り部イ.ジョンチョル氏に似ているとスレッドが立ち上がっているそうだ」

「そういえば先週、ジョンチョル氏が軍艦島に訪れた記事がありましたねぇ?その後…どうしたんでしたっけ?」

「うむ、東京で数日過ごした後帰国する事になっていたんだが…」

真田の問いに武田は思い出すように応えた。

「もしその老人がジョンチョル氏だとしたら…そしてその情報が韓国側に伝わっていたとしたら、大変な外交カードになりますねぇ」

「真田、その後の老人の安否と身元の確認を本部に問い合わせておいてくれ」

真田はこくりと頷くスマホを手にした。

二日目の行程も大きなトラブルも無く過ぎた。

いよいよ明日は徴用工問題解決の為、実務協議が開かれる。

武田らも身を引き締めてかからなければならない。


三日目は早めのブランチを済ませ、AM11:30よりの協議が始まる。

この日のハン議員は、昨日とは打って変わって、いつもの仏頂面をさげてきた。

何か秘めるものがあるのかもしれない。

しかし昨日夜になって大きね展開があった。

韓国側の議員の一人が、マンションゴミ捨て場 意識不明者を訪れ、イ.ジョンチョル氏と確認したという報道が流れたのだ。

続いて韓国側声明として徴用工問題被害者であるイ.ジョンチョル氏への暴行を類稀なる非道な行為として徹底糾弾すると共に、日本への謝罪と賠償並びに犯人の洗い出しに全力を挙げるよう日本政府に対して断固たる措置を要請するとの発表があった。

あまりにタイミングのよい発表である。

やはり韓国側は事前に情報を経て、このタイミングで発表したのであろう。

日本側からすれば今後の徴用工問題は後手後手に回りかねない大きなリスクとなるだろう。

武田らは会議室に入れなかったが、大きな声で怒鳴り散らす気配が伝わってくる。

「なんだか雲行きがあやしいですね…韓国側はこの件にどれだけ関わっているんでしょうか?まさか自作自演なのでは…」

「もう止せ…我々は警護に徹して入ればいい。それ以上は言うな!」武田は真田の口を封じた。

3時間ほど経っただろうか…協議は終了し韓国側議員が意気揚々と出てきた。

後に続く日本側官僚は完全に肩を落としている。

その日の夕食会は韓国議員だけでのパーティとなったが、はしゃぎ声は廊下にまで響いている。

どうせ言葉がわからないだろうからと気にかける素振りもない。

言葉を理解出来る武田らにとっては苦痛な時間だった。

「それにしてもジョンチョルの奴、絶好のタイミングで暴漢に襲われたものですな。」

「ほんと、酒癖の悪いボケ老人で私らも手を焼いておりましたが、ようやく役に立ちよった!」

笑いの渦が巻き起こる。

「それでハン議員、今後ジョンチョルはどのように致しましょうか?」

「うむ、このまま死ぬもよし、意識が戻ったら韓国に連れ帰ってやろう…今回徴用工問題が我が方に有利に働けば、一応韓国の英雄じゃ…まぁその後は…適当に理由をつけて監獄に逆戻りが良かろう」

一同ドッと吹き出した。

「さぁ明日は日本側議員団との折衝じゃ、今日以上に奴らを締め上げてやろうぞ」

宴は最高潮に達した。

四日目は協議の最終日であった。

政治家同士のせめぎ合いで徴用工問題にある一定の成果を出さなければならない。

ここでも韓国側の火の出るような攻勢が予想される。

協議後は昨日と同じであった。

明日の共同声明では韓国側が大きく利する内容が発表されることだろう。

武田ら公安も明日が最終日である。

日本側に不利であろうとも自分たちの職務に徹しなくてはならない。

しかし、この日は何時もと様子が違い、晩餐も早々に切りあげて解散となった。

「今日の警護は御仕舞いだ。オマエたちも上がってよい」

ハン議員は片言の日本語で武田らに話しかけてきた。

「しかし我々の職務ですから警護を続けなくてはなりません」

武田が反論するやいな、ハンは烈火のごとく怒り出した。

「私の言うことに反論するか!警護風情で生意気な!終わりと言ったら終わりだ!」

すごい剣幕に引き下がらざる得なかった。

一礼をすると、あとに下がったが

「一応万が一の事があってはならない。本部に戻って待機しよう。何かあってもすぐ駆けつけられるよう準備はしておこう」

武田と真田は一旦引き上げることにした。

ハン議員には発信機付きの腕輪を携帯するように言ってある。

外しさえしなければ、ハン議員の居場所を確認することはできた。



8

今日が最終日…やるならこの日しかない…

タカシはこの日に照準を定めていた。

この機会を逃しては、もう機会は訪れないだろう。

徴用工問題のカギを握るのはハン.ジンソクしかいない。

なんとしてでも真実が知りたい。

タカシはジャーナリストの本文を超えていた。

いまのタカシには利益よりも真実が優位にあった。

徴用工の真実が知りたかった。

少なくてもイ.ジョンチョルは偽物と分かったが、それ以外の真実はハン.ジンソクが握っている。

彼をマイメモリーにかけて真実を知りたい…

タカシの貪欲はそこに集中していた。

タカシは訪日韓国団の最終日こそがこの機会と踏んでいた。

綿密な計画などどこにもない。

ただハン議員をクロロホルムで眠らせてマザーメモリに連れて行く…それだけであった。


タカシは大型搬入用のワゴンを押しながらハン議員の元へ転がしている。

側には飯島が台車を押す。

ジョンチョルの一件以来、タカシに心が支配されてしまったのか純朴に付きしたがっていた。

タカシが計画に移ろうとした十数分前、ハン議員を訪れる女性がいた。

マズイとは思いながらも、もう計画を妨げる時間はない。

ボーイの衣装をまとった二人はワインのボトルを片手にハン議員の部屋に向かっていた。



「ハン議員、お求めのものは既に手配いたしました。銀座で最高級の女を用意させております。そうですね、今が9時ですので半には女を向かわせます」

「うむ、ならばお前も下がって良い。明日迎えに来い」

ハンは秘書も下がらせた。

彼の周りには誰もいなかった…


9時半ちょうど、女は呼び鈴を鳴らした。

ハンはよく来たと女を招き入れた。

女の名は『ゆう』。

銀座では一番の売れっ子だった。

昨晩お店のママからご指名を受けたのだが、

懇意にしている韓国政府からの依頼であった。

なんで私なのぉ? ゆうは不平を漏らしたが、給料弾むからとママに言われてイヤイヤ出勤して来たのだ。

ハン議員のガマガエルを押しつぶした顔を、ゆうは生理的に嫌だった。


タカシ達がハン議員の部屋の前に着いたのが10時…

ルームサービスでワインをお持ちしました、と告げる。

ハン議員も、ちょうど女がシャワーを浴びていたので絶好のタイミングとドアをあけた。

すかさずタカシはハン議員にクロロフォルムをたっぷり吸わせたハンカチを当てる…

しばらくばたついていたが次第に大人しくなった。

折しも人払いをしていたおかげで、この騒動に気づいたものはいない。

グッタリとしたハン議員をワゴンに乗せる最中…

「なんか物音が凄かったけど、、、」

ゆうがシャワー室から出て来て、ア!っと叫んだ。

タカシも女が同室していたのは覚悟の上だった。

指を2本立てた…

「え?ブイ?」

小声でシーと制してタカシは2本指を立てたが『ゆう』には分からなかったらしい。

タカシは2時間待ってくれと伝えた。

そうして使い道が無くなった、ジョンチョルから奪い取った百万円の封筒を投げ与えた。

ゆうは札束が見えた途端、オーケーと親指を立てて舌を出してウィンクをした。

ハン議員は、あっという間に連れ出されたが、あとに残った ゆうは今が10時…あと二時間だから12時まで黙っていればいいのねと時計を見た。 折しもラグビーの決勝戦の試合が放映されていた。


タカシらは業務用エレベーターで地下に降りると留めておいた車にハン議員を放り込み

記憶サロンに向けて車を走らせた。

車中、二人とも言葉を交わすことなく走り続けた。

これはただの誘拐ではない。

国際問題、いや下手をすれば国家間の戦争にまで発展しかねない大事件であった。

タカシは頭の中を真っ白にして何も考えないことにした。

どこをどう走ってきたのだろう…帰巣本能だけがタカシを記憶サロンのあるビルに導いたようだ。

車からハン議員を下ろし、サロンの椅子に横たわらせた。

タカシはまるで夢でも見ているような心地だった。

これほどの重大事件を起こしているのに、なんの障壁に会うこともなく計画通りにことが進むとは思わなかったからだ。

ハン議員はこの夜、日本最後の夜をとびきりの女との狂宴を企てていた。

もちろんスクープされれば大変なスキャンダルになる。

だから経費の一環と称してホテル一棟を貸し切り、従者や他の議員も排除して楽しもうと思っていたのである。

奇しくもタカシの計画はその合間で起こった偶然であった。

ホテルも最小限のスタッフしかいなかったので見咎められることなくことが進んだのは皮肉な話であった。


二人は、横たわるハン議員に装置を接続していく。

飯島は生体認証を行なって機械を始動させた。

かすかな機械音がしてモニターにはダウンロードのカウントが始まった。


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