寿司屋と魔女
温暖化、海洋汚染によって海産物は致命的な打撃を受けた。
養殖技術の発展により絶滅は避けられたが一般家庭に普及するには海産物は貴重品になりすぎていた。
その影響を最も受けたのが寿司屋だ、今や天然物の握り一貫五千万円。
「阿保臭えッ!!」
お品書きを書いていた店主、波際 厳重浪58歳は持っていた筆を投げ出し、長年立ち続けた台所に突っ伏した。
葛藤に次ぐ葛藤、遂に吹っ切れる時が来た。
「味の分かんねえ富豪どもに食わせて……それが何になるってんだ!!
昨日来た奴なんてまさに最悪だ!!
金すら持ってねえ、味すら分かんねえ、スケベな格好でほっつき歩くあんな奴に!!
寿司の本懐なぞ分かってたまるかってんだ!!!
……おれぁやったるぞ……!!!!」
親戚一同に電話を掛けまくり、その日の夜は天然物の寿司祭りを開催した。
蔵にある食材全てを使って、
自分の技術の全てを込めて、
最高の寿司を振る舞う。
握る姿をかっこいいと言ってもらって、
口に頬張った瞬間弾けるような笑顔と美味しい、旨いの声。
長らく忘れていた生きがいを取り戻したように思えた。
夜も更け、人の居なくなった店で波際は最後の寿司を握っていた。
凍らせていた最古の食材。
「身がダメになっていようとおれぁ食う」
自分に言い聞かせるように呟くと寿司を握り終えた。
その昔、特上江戸前と呼ばれていた盛りだ。
「懐かしいなぁ……」
バチんと手を合わせ気合の入ったいただきますの挨拶。
「……美味い」
少々の雑味は食材が冷凍に耐えられなかったからなのか、静かに流れる涙の味だったのか。
最早どうでもいいことだ。
後片付けを済ませると港へと向かった。
夜の港は静かで何年も停泊しっぱなしの船が音も立てずに揺れている。
「味極丸、……最後に乗ったのはいつだっけなぁ」
キーを差し込み回すと1回でエンジンがかかった。
「なぁんだよぉこんな時だけ。昔は一日中かからんかったくせして」
獲物の取れなくなった海に出る理由などひとつしかない。
波際は自らの船、味極丸と共に心中しようとしていたのだ。
「師匠……あんたは不服だろうが、同じ道辿らせてもらうぜ」
向かう先は渦巻き岩。
岩の配置の関係で巨大な渦巻きが発生している危険地帯だ。
「師匠、あんたの握った寿司は俺が受け継いで俺が皆に振る舞った。
なんにも無念なんかじゃねぇ。
あんたはいつだって最高の寿司を握ってた。
おれぁ断言するぞ!!
あんたは最高の寿司職人だった!!!!
だから……30年前こんなとこで自殺したなんて……信じたくなくってなぁ。
でもおれもここに来ちまった、自然とここに来ちまったんだよぉ……」
波際 厳重郎、男泣き。
情けなく声を上げて泣き叫ぶ。
夜の闇が、漆黒に染まる波しぶきが、優しく彼に覆いかぶさった。
思い返される在りし日の思い出。
初めて寿司を食べた時の美味しさ、
共に食材を調達する日々、
握りを認められた瞬間、
そして黒く染まりゆく大海原。
どれだけ気を失っていたのか。
照りつける日差しの熱気と、懐かしい磯の香りで目を覚ます。
「……天国かぁ?」
むくりと起き上がり周囲を見渡す。
浜辺だ。
「ここ……は……」
眼前に広がる透き通った海原を理解するのに時間がかかった。
豊かな海に驚かされしばらく浜辺を散策していた波際だったが、
自身が漂流者である事実をはっと思い出した。
渦に巻き込まれた際に船外に投げ出されたが幸い船は近くにある、
砂浜に座礁しているが目立った傷もなくどうにかなりそうだった。
「はっ……死にぞこなったってことか……」
陸地に目を向けると平原が広がっていた。
特に人工物も見当たらず、途方に暮れていると平原の向こうからやってくる人影が見えた。
「ありゃ人か?……さっき見渡した時は居なかったんだがな」
突然現れたように見えた人影に少々驚きつつも声を張り上げる。
「うおい!!助けちゃくれんかー!!
うおッ!」
野太い声を出し思わず尻もちをつく。
はるか遠くに見えた人影は気づくと目の前まで移動していたのだ。
瞬間移動したように見えた人影は妖艶な淑女だった。
つばの広いとんがり帽子を目深に被り、
腰上までスリットの入った漆黒のドレス、
手には身の丈もある杖を携えていた。
指で帽子を持ち上げて、真っ赤な宝石がはめ込まれたような瞳を波際に向けると、
続いて座礁した船に目線を滑らせる。
そしてもう一度波際に視線を戻す。
「言葉は、通じる、わね?」
言葉が通じることに波際は安堵の声を漏らす。
差し出された手を握り立ちあがると、淑女は握られた手をまじまじと見つめた。
「アレ……?あなた、って、もしかして……」
「あっ……ああーー!!
あん時の文無し女っ!!」
「あの時、はごめんなさい、ね。
お寿司を、食べた過ぎて、通貨の概念、を失念して、いたの」
「いやぁ……おれの方こそ……合成食品とはいえぶっきらぼうに握ってすまなかった。
ちぃっとばっかし荒れててな……」
気まずさに耐えきれなくなった波際は、透き通る海について質問した。
「それにしてもここはどこなんだ?それにこの海は?
おれん所っていうか海は全部真っ黒になったんだろ?」
「ここは、アルスタリシア大陸南部、港町ベイ、に程近い海岸よ」
「あんだって?」
「んー……、日本からは、とぉっても遠い、外国ってこと」
「外国!?おれぁそんなに流されてたってのか……。
こいつぁ驚きだ、日本の外じゃまだこんなにきれいな海が残ってたなんてよぉ……」
「自己紹介、まだだったわね。ルファシア・リノ・アリデキア、ルファと呼んで」
「波際 厳重浪。呼びやすいように呼んでくれや」
「じゃぁ、ゲンでどう?」
「お、いいぜ!るっちゃん!」
驚いた後、途端に笑顔になる至法。
この世界で素でるっちゃんと言ってくれるのは数少ない友人だけ。
大概は至法様、付き合い長くてもルファシア、ルファなどが殆ど。
……偶に強制的に呼ばせていることもあるが。
「あ、馴れ馴れしかったか?」
「いえっ!いいえ!!そんなことないわ!!どうぞ、るっちゃんとお呼びになって!」
「じゃ、よろしくな!るっちゃん」
感動とはこういうものだった。
長らく忘れていた感覚に打ちのめされ、暫し海岸にて歓談する二人だった。