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天体望遠鏡

作者: 仁部中つぎ

 灰色のくすんだ事務机に、衛は天体望遠鏡を置いた。

 午前八時。交番の掛け時計は旧式で、静まり返った室内に秒針の動く音を響かせている。衛が来てから警官が出していった麦茶の入っているコップからは、止めどなく水滴が流れ、竹製のコースターに滑り落ちている。

 正人は座っていた丸椅子を跳ね飛ばしていた。細い金属の四つ足がぐらんぐらんと揺れる。

「帰れよ!」

 もう一度、正人は叫んだ。事務机に拳を叩きつけた。

 警官が慌てて様子を伺いに来る。

「すみません」

 大丈夫ですから、と答えたのは正人ではなく、隣り合う衛だった。

 正人の行動を詫び、まるで自分の身内のように振る舞う衛の言動に、正人は頭に血が上っていくのを感じた。同時に十三年前の、衛の他人行儀な笑顔が脳裏をよぎる。

 そうだ。あの日から距離を置いたのは、衛の方からだった。

「ふざけやがって。こんなもん持ってきて、俺を笑いに来たんだろ」

 衛が故郷を出てずいぶん経つ上、そのまま都会で就職したらしいと耳にしたことがある。戻ってこないということは、正人と比べて成功した人生を歩んでいるのだろう。今さら何をしに来たのか、突然やってきた旧友の意図が読めなかった。

 正人は目の前の天体望遠鏡を握る。箱から出したばかりの新品に、正人の手の跡が付く。十三年前に正人が盗んだものよりも一回り大きく、指が胴を回りきらなかった。

「違うよ。違う。辛いことを思い出させちゃうけど、でも、どうしても君に見てほしくて持ってきただけなんだ」

 大事なものに無遠慮に触れられても、衛は嫌な顔をしなかった。君と、という言葉に嘘はないらしい。このまま話ができない方が辛いとでも言いたげに眉は下がり、声に泣きが入っていた。

 衛はスーツに合わず、メッシュ地の黒いリュックを背負っている。立派な望遠鏡に相応しい三脚が入っているのだろう。今日この場で星を見るわけでもないだろうに、律儀で真面目な性格は変わっていないようだ。

「これ、君が持ってきてくれたやつの改良版なんだ。十三年も経つと、同じものは買えなくって」

「……持ってきたんじゃない、盗んだんだよ。わざとらしく美化すんな」

「……そうだね」

 警官は無関心に書類を書いている。

 麦茶の氷は解けてしまっていた。時計の音だけが響く。衛は丸椅子の縁を持って座り直した。

「ごめん。ちゃんと覚えてるよ。……だから、今日来たんだ」

 すう、と衛が息を吸う音が聞こえる。決意に満ちた音だった。次に出てくる言葉の予想がついて、正人は体が強張るのを感じた。



 衛の住む都会からこの町まで、どのくらいの距離があったのだろう。朝一番の電車で来たという衛は、スーツ姿に大きなリュックを背負っていた。

「久しぶり」

 同じくらいの歳で、正人を見かけて話しかけてくる人間はそうはいない。正人にも初め見当はつかなかったが、笑うと眉が下がる男の顔を見ていると、よぎる名前があった。

 小学生の頃、些細な事件で疎遠になった友人だ。

「衛……?」

「覚えててくれたんだ、ありがとう、正人」

「どうして、お前、こんなところに」

「会いに来たんだよ、正人に。警官さん、朝からすみません」

 構わないよ、と警官は丸椅子を奥から持ってきた。衛が座って腰を落ち着ける前に、茶棚から彫りの入ったガラスのコップを出し、冷蔵庫から出した麦茶を注いでいく。地域住民のことを日ごろからもてなしているのだろう、と想像がつくくらいには手際が良かった。

 最後に氷を入れて、手盆に乗せ、どうぞと勧めて置いていった。帰り際に自分用のマグカップにも同じ麦茶を注ぎ、手に取ると奥に戻り、正人が視界に入るように座った。

 そこから警官は動かなかった。老眼鏡をかけ、持ち直したペンをノックし、先ほどまで項目を埋めていた書類に目を落とした。

 適度に距離を置いたことで話しやすくなったのか、衛はコップに口も付けずに切り出した。

「……また、盗んじゃったんだね」

「……」

 正人は答えず、先に出されていたコップを見つめた。飲食店でもお冷を出すために使われていそうな、模様のないただのコップだった。事情聴取中に半分までかさを減らしていた。

「俺は、悪くない」 

 警官にも言った。たまたま後輩が探していた発泡酒を見つけただけで、何かを盗もうと思って店に入ったわけではないのだ、と。

 正人は酒を飲まないから良く知らなかったが、店でもあまり売られていない種類なのだそうだ。田舎のこの町ではなかなか見かけない、と嘆きながら後輩はスマートフォンの商品画像を見せてきた。見つけたら絶対買ってきてくださいね、と言われた帰り道だった。

「……その後輩さん、買ってきてって言ったんでしょ」

「でも、その話を聞かなきゃ、俺はこんなもの盗まなかった」

「そうだけど」 

 衛はそうだけど、ともう一度繰り返した。

「ねえ、正人。見てほしいものがあるんだ」

 そう言って、昔正人がそうしたように、衛は背負ったリュックを開けたのだ。



 十三年前、正人と衛は小学生だった。

 子どもの少ない田舎で、両親はもちろん近所の大人たちにも見守られ、またかわいがられて育っていた。

 正人はサッカー、衛は読書が好きという一見正反対の二人だったが、気づけば学校で一番の仲良しになっていた。正人は衛が好きな本だと聞くと親にねだって買ってもらったし、読み終えるたびに感想を言い合った。衛も衛で放課後のサッカークラブに所属するなど、運動に興味を持ち始めたようだった。

「ねえ、正人。冬になったら、一緒に天体観測をしようよ」

 夏の日差しが強い日だった。衛は時間ぎりぎりで理科室に向かう途中、息を切らしながら言った。

「テンタイ、何だって?」

「天体観測」

 テンタイカンソクという言葉を初めて聞いた正人は何をすることなのか想像がつかず、聞いた通りをおうむ返しに発音した。

 衛は理科室のドアを開けた。授業が始まるチャイムが鳴った。

「天体観測。星を見ることさ。たくさんの星が宇宙に浮かんでるのに、季節によって見られる星が変わるんだって。本当なのか、確かめてみたいんだ」

 起立、礼、着席。学級委員の声が響く。

 私語を続けてはいけないと分かっていたが、衛の話す言葉はまるでサッカー選手がヒーローインタビューで誇らしげに今日のゴールを振り返るように、正人の胸を高鳴らせた。

「僕たちはまだ子どもだから買えないけど、一つの星が移動する様子を撮れるカメラもあるんだって。ほら、この辺で勉強したでしょ」

 今日の授業内容は、〈水の沸とう〉と黒板に書かれている。ぱらぱらと教科書をめくって衛が示したのは、先生が示したページの遥か前だった。

 〈星や月〉と大きく載っていたその単元のことを、勉強が好きではない正人はとっくに忘れていた。

「ほら、これ。撮影者って書いてあるでしょ。この写真を撮った人がいるんだよ」

 内緒話をする時の声で、しかし衛は興奮しているようだった。

「すごいよね。いつも当たり前に見てる月がさ、動いてるんだ。それを、写真に残せるんだよ」

「でも、俺たちはカメラなんて買えないよ」

 珍しく興奮している衛をとりなすように、正人はページの隅に載っていた〈天体写真撮影用カメラ〉の写真を指差した。

「だから、天体観測をするんだよ。僕たちには目があるだろ。何もなくったって、外で星を見ればいいんだ」

 肉眼でも見える星の名前を挙げては、それらが連なってできる星座の由来まで衛は丁寧に説明していった。教科書にも書いていないことばかりで、中学生でも衛より物知りな人はいないのではないかと思うほどの勢いだった。

「……でね、僕が見たところ、この町では冬の天体観測が一番いいと思うんだ。星も大きくてわかりやすいし、日も短いから早い時間から見られるし」

「あ、ああ。どんな星が見られるんだ?」

「……正人、僕の話、聞いてた?」

 咄嗟に出した質問はすでに衛が大いに語った後だった。衛のじと、とした視線に正人は視線を泳がせた。

「と、とにかく。やろうぜ、テンタイカンソク」

「こう書くんだよ」

 方眼ノートの隅に衛が書いた〈天体観測〉という文字は、止めや跳ねがしっかりした、丁寧な佇まいをしていた。



 夏休みが終わり、秋の運動会の練習が本格的に行われるようになった。

 各クラスは体育の授業でリレーの練習、音楽の授業で運動会のテーマソングの練習をした。高学年は放課後の一時間を使って、校庭で鼓笛隊の曲やフォーメーションに取り組んでいた。

 その関係で、正人のサッカークラブは運動会が終わるまで休みになっていた。正人は衛が図書室から帰ってくるのを待ち、一緒に下校していた。

 本を手提げ袋に入れて教室に帰ってくるときの衛は、いつもご機嫌だった。給食に揚げパンが出たクラスメイト達のようにはしゃぎこそしないが、何となく足取りが跳ねているようなのだ。おかしくてつい、正人はいつも同じ質問を繰り返す。

「今日は何借りたんだ?」

「ギリシャ神話だよ。オリオン座のことが知りたかったから、嬉しいや」

 衛は手提げから出した厚い本の表紙を上にして置いた。正人も隣で覗き込んだ。

 『ギリシャ神話』と横書きでタイトルが書いてある。その下には、見分けのつかない石像が何体も並んでいた。

「神話って、物語のことだろ? 何で星座に関係してるんだ?」

「……前に話したと思うけど、星座には物語がある。オリオン座の名前の由来は、ギリシャ神話に出てくるオリオンって男の人なんだ」

「そ、そうなのか」

 聞き流していた衛の話に答えがあったらしい。正人は慌てたが、ふと疑問が浮かんだ。

「前は月が見たいって言ってなかったか?」

「月は大好きだよ。でも、冬の星を知っておいたらもっと楽しいかなって思って」

 正人にも教えられるしさ、と得意げに笑み、衛は本をランドセルに入れた。


 夕方になると風が冷たくなってきた。正人はパーカーに手を突っ込んで歩いていた。

「正人、またやってる」

「いいじゃん、寒いんだよ」

 小うるさい注意も難なくかわす。正人は、こうしていると兄弟みたいだなと思った。衛がお兄ちゃんで、正人が弟になるから少しだけ悔しい気もするが。

 衛は秋生まれで、先日十歳になった。早生まれの正人よりも半年ほど年上ということになる。

 その誕生日を過ぎた頃からだっただろうか、衛が塞ぎがちになった。ため息が増え、よく回り道をしようと言ってきていた。

 衛が回り道を言い出すのは、決まって町内でも広い部類に入る公園の前だった。

「どこで星を見るのが良いか、下見しようよ」

 そう言う衛の顔はどこか暗く、本を借りてきた時の面影はなかった。

「……なあ。衛、最近、元気ないよな」

「ううん、大丈夫だよ。僕には正人がいるからさ」

 心配して話を聞いても大丈夫の一点張りで、愚痴の一つも言わなかった。苦しそうな笑みを見るたびに、正人は心の中がぎゅっと硬くなるような息苦しさを感じた。

「……ねえ、正人。約束、覚えてる?」

「当たり前だろ。天体観測、二人でしような」

「……うん」

 衛の表情が柔らかくなった。それを見て、正人も安心した。

 日が暮れるまでブランコに座って、それから二人は互いの家に帰った。


 正人と衛は母親同士も仲が良く、買い物の途中でばったり会っては長々とお喋りをして帰ってくる。正人はその間は文句を言われずゲームができるから、密かに他の友人よりキャラクターのレベルが高かった。

 その日も夕方の買い物に出て行ったはずが、帰ってきたのは六時を回っていた。

「お母さん、腹減ったよ」

「はいはい、今作りますー。お母さん、ちょっとショックなんだから、優しくしてよね」

「ショック? どうかしたの?」

「知ってるんでしょ、あんたったら何にも言わないんだから。衛くんち、引っ越すんですってね」

 引っ越す。引っ越す?

 誰が? 衛が。

「え……?」

 正人は愕然とした。他の友人たちからも、そんな話は聞いたことがない。

「衛の、お母さんから聞いたの……?」

 声が震える。うまく息が吸えない。頭の中がひっくり返されているように、何を聞けば良いか分からなかった。

「そう。さっき会ってね、運動会が終わったらだって。ずいぶん急よねえ」

 なのにあんたったら、と文句を垂れる母親の声は、もう正人の耳には入らなかった。

 衛が塞ぎ込んでいたのは、天体観測が実現できないからだったのだ。引っ越しを知った今、正人は衛を元気づけることすら叶わなくなってしまった。

「衛……!」

「あ、夕飯までには帰ってきなさいよ!」

 気が付けば、正人は家を飛び出していた。

 

 夜になってから出歩くのも、怖くなかった。もう会えなくなると考えるだけで、今は衛に会う方がずっと恐ろしいような気がした。

 自転車を扱ぎながら、正人は何と声をかければ良いか考える。

 自動点灯のライトはぶううんと昆虫が飛んでいる時のような音を立て、正人が進みたい方向を照らす。こんなにも明るい道の先に、引っ越してしまう衛がいることが信じられなかった。

「きっと嘘なんだ」

 そうだ、嘘だ。嘘に違いない。

 そうでなければ一番の仲良しである正人に何も言わないのはおかしな話だ。運動会はもう来週に迫っている。それが終わればサッカークラブが再開され、また冬まで走り回るのだ。

 衛の家は自転車で五分ほどのマンションだ。エントランスで上の方に住んでいる衛の家の呼び鈴を鳴らす。

「こんばんは、その、急にすみません。俺……」

 何を言えばいいか分からなかった。急いだくせに言いよどんだ正人の前の自動ドアは、すぐに開いた。

「気を付けて上がってきてね、正人くん」

 衛の母親の声が、インターホンから聞こえた。

「……ありがとうございます!」

 回らない早口で、やっと正人はそれだけ言った。


 玄関を開けてすぐに、引っ越しが本当なのだと知った。

 フローリング調の廊下には大きな段ボールが積まれていて、どれも同じ引っ越し業者のロゴが大きく印刷されていた。

「ごめんね、散らかってて」

「……いえ、忙しいのに、すみません」

 居間に案内された瞬間、正人を繋ぎ止めていた希望が立ち消えた気がした。衛が申し訳なさそうな顔をして、ソファに座っていた。

「この子ったらお迎えもしないで……衛、ちゃんとお菓子出しなさい」

「うん……」

 返したのか分からないような、気のない返事だった。いつもは正人が来ると、菓子盆にありったけのお菓子を載せて出してくれる。友達が遊びに来た時はいくら食べても怒られないのだと、衛は世紀の大発見でもしたように得意げに話していた。

「……正人、ご」

「さっき帰ったばっかなのにな、なんか衛に会いたくなったんだ。急にごめんな」

 衛の口から「ごめん」と聞いてしまったら、もう本当に取り返しがつかなくなるような気がして、正人は言葉を遮った。そんなことは時間稼ぎにもならないことは分かっていた。

「……ううん、そんなこと、気にしないでよ。お父さんも帰ってきてないし」

 衛は一瞬考えるように口をぱくぱくさせて、話題を逸らした。正人が先に話し出した意図を理解したのだろう。

 コの字に置かれたソファはふかふかで心地よかった。もうすぐ会えなくなるからと、正人をもてなしているようだった。背もたれに完全には寄りかかれないことが惜しい。

 正人も衛も深く腰掛けると足が絨毯につかないから、大きくなって先についた方が勝ちだと勝負していたことを思い出した。

「……衛のお父さんって、大きいよな」

「そうだよ。僕だってすぐ大きくなる」

「俺だって大きくなる! どっちが大きくなるか、競争……」

 正人ははっとした。どちらが大きくなるにしても、結果を直接確かめることはできないのだ。

「あ、ごめ、」

 ごめんと言ったら衛もごめん、と言いそうで、最後まで言うことができなかった。

 正人はうつむいて、テーブルに置かれた菓子盆を見つめる。衛を傷つける気はなかったとはいえ、口に出した言葉はもう取り消せない。

「……なるさ。きっとなる。すぐにね」

 衛は細い腿の上で拳を強く握り、声を震わせていた。隣り合って座ったコの字の一画が小刻みに揺れる。

 引っ越す衛の方が不安で悲しいだろうに、正人の前で泣くまいと、きっと我慢しているのだ。ひ、ひ、という中途半端なしゃくり声は普通に泣くよりも辛そうに聞こえる。

 それでも頑なに唇を真一文字に引く姿を見ていると、本当に引っ越してしまうのだな、と実感させられる。次の瞬間には正人の視界がぼやけ出した。

 衛は正人に謝りたかったに違いない。何なら今も、ずっと言えなくてごめんね、と心の中では叫んでいるかもしれない。

 正人も衛に謝りたかった。何も知らないで天体観測をしようなどと励ましたところで、余計に衛の心を追い詰めていただろう。それでも笑ってくれたのは、きっと衛を元気づけたいという気持ちが伝わったからだ。

 正人にとって、衛はかけがえのない存在だった。

 堪えていたはずの涙が、ついに溢れ出した。

 もっと衛の話を真剣に聞いていればよかった。一人で星を見ても名前が分からないし、由来となった存在が活躍する物語は知らないし、天体観測の面白さを半分も知れずに夜が明けてしまうだろう。

 もっとサッカーを教えてやればよかった。そうすれば衛は新しい学校でゴールをたくさん決め、すぐにクラスのヒーローになれただろう。

 衛がヒーローか。

 正人の頭の中で、衛が赤いヒーロースーツを着た。テレビのように華麗な宙返りを披露するが、何となく締まらない。

「だって、衛だもんなあ」

「え? 僕が、何?」

「何でもない。衛は、本を読んでる方が衛らしいや」

 サッカーは教えなくてもよかったかもしれない。正人は長袖のシャツで目を拭った。

「ごめん、もう帰るよ。お邪魔しました。衛、また明日。」

 ご飯食べていってもいいのよ、という衛の母親の提案を丁寧に断り、玄関まで見送りに来てくれた衛に手を振って、正人は自転車に跨った。


 金曜セール開催中、とスーパーにのぼりが上がっているのを見て、明日は土曜日だったことを思い出す。

 部活帰りの高校生、トラックの運転手、スーツを着たサラリーマンと、一車線の道路の向かいにあるコンビニには絶えず客が入っていく。正人はお小遣いを持ってこなかったことを少しだけ後悔した。衛の家でお菓子を食べなかったから、お腹がもうぺこぺこだったのだ。

 一本奥の道に入ると、正人の家に近くなる。この通りは豆腐屋や酒屋など、個人の店がちらほらと並んでいる。気前のいい店がほとんどで、正人の母親もよく利用している。

 確か、戻った角には双眼鏡を置いている商店があったはずだ。小さい頃、父親と一度だけ訪れたことがあった。ふと思い立って、正人は回れ右をした。ペダルを扱ぐ勢いに合わせて、自転車のライトがぶううんと鳴る。

「あった……」

 シャッターが降りた店の前を走り抜けると、記憶の通りに商店があった。正人は自転車を停め、微かに明かりのついた中を覗き込む。

 蛍光灯がちかちかと瞬いていた。正人の自転車のライトの方が明るいかもしれない。

 薄暗い空間に目が慣れ、徐々に店内の商品が見えるようになっていく。手に持たせてもらった双眼鏡の箱が棚からもはみ出て、天井まで山積みだった。ガラスのショーケースがカウンターになっていて、見るからに高そうな双眼鏡やレンズが置かれている。

「あっ」

 そのカウンターのさらに奥だった。教科書で見た、望遠鏡があった。

「天体望遠鏡」

 呟くだけで、心臓の鼓動が大きくなる。天体観測に使う、望遠鏡だ。

 大きくなったら衛と使うはずだった望遠鏡だ。

「……高そ……」

 遠目に見るだけで、格の違いを見せつけられた気がした。

 ものが近くに見えるだけではない。星が見えるという特別な望遠鏡なのだと、自己紹介されているような気分だった。三脚に載って厳かに空を見上げるレンズを通せば、どんなに小さな星でも見えそうな自信を感じた。

 運動会が終わったら、衛はこの町ではないどこかへ行ってしまう。新しい家の近くには、広い公園がないかもしれない。もしも都会だったら、明るすぎて星は見えないだろう。

 覚束ない明かりの下に、人影はなかった。正人は、引き戸を開けた。


 夜道を夢中で走った。息が切れても立ち扱ぎを続け、信号待ちの度にじれったさでリュックを背負い直した。

「夜遅くにすみません! 衛に、降りてきてくれないかって伝えてくれませんか」

 パジャマ姿の衛がエレベーターから出てきた瞬間に、正人はその手を強く引いた。

「ど、どうしたの正人?」

「いいから! ちょっと外に出ようぜ」

 エントランスを出てすぐの植込みに、正人は腰かけた。

「ほんとにどうしたの、お父さんとお母さんが心配しちゃうよ」

「そんなの後で叱られるって! 見てくれ、これ!」

 勿体付けるようにくるりと背中のリュックを見せつけても、衛はピンとこない様子だった。

「新しいリュック、買ってもらったの?」

「違う違う、いいから見てくれ」

 じいい、と大きめのチャックを引き下げ、一気にスエード地を割り開いた。

「あ……」

 出てきたのは、店にあった天体望遠鏡だった。夜風に晒された金属の体は、透き通るほど鋭く冷たかった。

 衛はぽかんと口を開けたまま、しばらく何も言えないでいた。

「すぐ返しに行くからさ。一度だけ、星、見ようぜ」

 月も星も良く見える、絶好の夜空だった。本当に教科書に載っていたように見えるのか、正人は早くレンズを覗き込みたくて仕方がなかった。

 するするとリュックから出てくる望遠鏡は暗い中でも分かるくらいに輝いていて、遠目で見た時よりもずっと綺麗だった。

「ほら、先に見ろよ」

 両手で持った筒の部分を衛に差し出す。三脚は重くて持ってこられなかったが、せん別代わりに一番を譲ろうと思ったのだ。

「だ、だめだ。駄目だよ、正人」

 衛は受け取らなかった。唇を青くして、かたかた震えていた。

「こんなことしたら、駄目だ」

「すぐ返すって、ちょっと借りただけじゃんか」

 喜んでもらえるものと思っていた正人はふてくされ、いつもの小言だと耳を貸さなかった。

「駄目だって! 早く、早く返してこなきゃ」

 顔色を悪くしながら、衛はついに悲鳴のような高い声を上げた。

 すぐ近くまでたどり着いたはずの天体観測は、実行されることはなかった。


 

 田舎の地域網はとにかく早い。

 数日で、正人を取り巻く環境は一変した。

 まず、両親が毎日店主に謝罪に行った。子どものしたことだと警察には通報しないでいたようだが、それでも両親の気が済まなかったらしい。

 衛以外のクラスメイトの態度もがらりと変わった。給食の時に机を合わせてくれなくなる女子も現れ、体育のペアは衛としか組まされなくなった。

 教師たちもよそよそしくなり、それまで正人くんと親しげに呼んでいた担任も、ある日を境に苗字で呼ぶようになった。

 母親は衛の家にも迷惑をかけたと菓子折りを持っていったそうだが、受け取ってもらえなかったという。

「衛くんは大丈夫? 変わったところとかはない?」

 散々叱られた後、両親はもう正人を責めることはなかった。

「衛くんちね、引っ越しが早まったんだって。今度は学校でお別れ言ってきなさいよ」

「……分かった」

 正人から少しでも早く引き離すためだとは、優しい母親は言わなかった。

 衛は最後までクラスに日にちを公表しないまま、月終わりの土曜日に引っ越していった。

「冬になったら帰ってこられるように、お父さんとお母さんにお願いするよ。また、すぐに会える」

 そして、衛が町に帰ってくることはなかった。

 正人はひとりになった。



 交番のぬるい扇風機の風が頬を通っていく。

 高速で回る羽の音が、昔よく乗っていた自転車のライトから出る音に似ていた。あちらこちらでぶううん、と音を振りまきながら、懸命に首を動かしていた。

 衛は口を開いて、朗読でもしているようにたっぷり間を空けてから話し始めた。

「正人にずっと、言いたいことがあったんだ。今さら何だって思うかもしれないけど、聞いてくれると嬉しい」

 その通りだ、正人は聞いた瞬間に今さら何だと思った。

 十三年前の冬、クラスメイトから腫物を扱うように接されることに耐えられなかった辛い時期に、衛は連絡一つよこさなかった。

「……最初の冬、帰ってこなかったよな」

「あの時は、父さんと母さんが許してくれなかった。電話したくても携帯は持っていなかったし、公衆電話でかけるにしても限界があるだろ」

「高校とかでは買ってもらっただろ」

「……でもそれは、正人だって同じことだ」

「お前から連絡するって言ってた」

 衛の目を見ないでいると、ひとりになった原因を衛に押し付けていた時のように、つっけんどんな言葉が後から後から飛び出してくる。

 そうして誰かのせいだと正当化を繰り返し、とうとう大人になるまでこうした盗み癖は治らなかった。

「……分かってるよ。僕がどんなに何かしたところで、正人はきっと辛いだろうなあって思うだけじゃ何も伝わらないんだ。引っ越しのことを言わなかった時、天体観測しようって言ってくれたの、覚えてる?」

「ああ」

「あの時、すごく嬉しかったよ。正人は僕を励ましてくれてたんだろ」

「……それは、本心だったよ。落ち込んでるお前を何とかしたいと思って、」

「ありがとう」

 衛は昔と変わらず、正人に笑いかけた。

 サッカーのドリブルを教えた時も、借りすぎた本を半分持って歩いた時も見てきた、嘘偽りない衛の笑顔だった。

 ああそうか、と正人は思った。この笑顔が見たかったのだ。

 頭に残った誰かの話を拾い上げて、ものを盗んでは一握りの満たされた感覚を味わっていた。

 それは、ひとりでいたくなかったからなのだ。盗んだものは誰にも渡さなかった。誰かのものを側に置くことで、誰かが側にいるような安心感があった。

 それもみんな、目の前の衛に会いたい気持ちから始まった犯罪だった。

「――っ、」

「ごめんね。正人も、辛かったよね」

 ぱたた、とコースターの手前に水滴が落ちる。涼しげな竹の上に乗った涙の粒は、水饅頭のようにぷる、と揺れた。

「ごめん……」

 やっとの事で喉から絞り出した言葉は、望遠鏡を盗んだ日に言えなかった謝罪だった。

 衛が辛い時に何もできなかったくせに、自分が辛い時には助けを求め続けたことを、正人は心から恥じた。

「謝らないで。……あのさ、僕、あの時言えなかったんだ。正人に、僕のためにありがとうって」

「え?」

 衛の口から飛び出したのは、あろうことかそんな正人に対する感謝の念だった。驚いて、ぱっと顔を衛に向けた。

「さっき、正人は望遠鏡を盗んだって言っただろ。でもね、悪いこと抜きにすると、〈持ってきてくれた〉で合ってるんだ。本当はすごく、嬉しかったんだよ。間違ってることだって分かってるけどさ、それだけ僕との約束を大事にしてくれてたってことだろ」

「……でも……」

「あの時、僕はお礼を言える勇気なんてなかった。正人の万引きを認めたことになれば、共犯だってことになる。そうすれば先生だって黙っちゃいないし、うちの親も怒って、もう正人と遊ばせてくれないかもしれない。でも……本当は、僕が怒られたくなかっただけなんだ。正人は僕のためにやっただけなんだって、誰にも言えなかった」

 臆病者とか、裏切り者とか、衛に会う前の正人なら吐き捨てていただろう。事実、衛が引っ越した後から今まで、正人はずっとひとりぼっちだった。

 しかし衛はそのことをずっと悔やんでいた。だからこそ、こうして素直な言葉で謝れるのだろう。呼吸に迷いがなかった。

「だけど僕はもう大人になったし、正人だってそう、自分のことは自分で決められる。君の気持ちはすごく嬉しかったって、時間が経った今なら言える。……今しか言えなくて、卑怯者で、ごめん」

 大人になったからこそ、他人にするのは勇気がいる話だろう。衛は心に抱いていた後悔を、正人に正面から懺悔した。

 本気で、衛は謝りに来たのだ。

「警官さん。正人はどうなるんですか?」

 書類が終わったらしく、事務椅子の背もたれに寄りかかっていた警官は慌てて姿勢を正した。衛はそんなことはどうでも良いと言わんばかりに、捕まるんですか、と返事を待たずに聞き直した。

「いやあ。店側も処罰は望んでないみたいだから、せいぜい出入り禁止程度じゃないかな。ただ、いかんせん田舎だろ。話が広まったら早いよ」

「……なら良かった」

「衛?」

 不敵に笑った衛の真意を測りかねて、正人は警官と衛を交互に見やった。

 話はどうせ広まるのだから、町を出るしかないとは思っていたところだ。それを良かったとは、一体どういうことだろうか。

 衛は得意げに振り返り、スーツの袖をまくった。

「うん。言いたかったことがもう一つあるんだ。……正人、これで最後にしよう」

「最後?」

「そう。今からもう、正人は二度と盗みなんかしないよ。自信あるんだ」

 他人のことであるにもかかわらず、衛は胸を張って見せた。

 おかしくなって、涙と笑いが一緒になってこみ上げてくる。

「はは、どういうことだよ……」

 衛は何も言わず、左手の小指を差し出した。

「こういうこと。僕と約束しよう、正人」

 ――ねえ、正人。冬になったら、一緒に天体観測をしようよ。

 幼い日の思い出が重なって、頬が勝手に緩んでいく。

 十三年前の別れを取り戻しに来るくらい、衛は一度決めたら貫き通す男だ。側にいようと、いまいと、今度の約束もきっと守り通すに違いない。

「……冬になったら?」

「決まってる。一緒に天体観測さ」

 今、二人の小指がぎゅっと握られた。


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