鼻歌
「ファラ、ずいぶんごきげんね?」
「え? そうかしら?」
「そうだよ。だって鼻歌を歌っていたもの」
「え……」
鼻歌って、鼻で歌うやつでしょ?
ふんふん言う間抜けなやつ。
それを私が歌っていたですって!?
今すぐ私の鼻歌を聞いた者の耳を引きちぎってしまいたいけれど、エルダがにこにこしているから許してあげるわ。
だけど無意識だったから何を歌っていたのかもわからない。
ファラーラ・ファッジン、一生の不覚!
「今の何ていう曲なの? すごく綺麗だったなあ~。やっぱりファラだと鼻歌まで綺麗なのね」
「そ、そそ、そんなことないわよ。もう、褒めすぎよ、エルダ」
仕方ないわね。
エルダがそこまで言うなら、また聞かせてあげてもいいわ。
何の歌かはわからないけれど。
「それで、何かいいことがあったの? あ、わかった! レポートが優だったとか?」
「レポート……レポートね……ええ、レポートだわ……」
「ファ、ファラ? 大丈夫?」
エルダ、その話は聞きたくなかったわ。
だって、すっかり忘れていたんですもの!
うふふふふ。
「実は昨日、レポートの再提出になったんだけれど、すっかり忘れていて……まだ手付かずのまま鞄の中だわ」
「ええ? それって期限はいつまでなの?」
「あら、そういえば聞いていないわ。ということはいつでもいいってことね」
「いやいや、それはないって。ダメだよ、ファラ。現実逃避しちゃ。嫌なことは先にすまさないと」
「だ、大丈夫よ。誤字脱字だけみたいだし、すぐに直るからまた今度でも――」
「すぐに直るなら今すぐやろう? 一緒にやるから」
何てこと。
エルダってば正論ばかりだわ。
何なの? この私にそんなことが言えるなんて。
今まで誰も私に指図なんてしなかったのに、こんな……こんな、一緒にやろう、だなんて。
やるに決まっているじゃない!
「本当は一緒にするほど大したことではないのよ? 先生は内容については触れていなかったし、誤字脱字ばかりだっておっしゃっていただけだから。エルダが一緒にしてくれるなら、すぐに終わっちゃうわ。だけどそこまで言うなら一緒にさせてあげてもいいわよ?」
「うん。一緒にしよう。ね?」
そんな聖母のような優しい眼差しで見るのはやめて!
心が浄化して昇天してしまうわ!
あら?
まさかこうして人生をやり直して徳を積むことで成仏できる仕組みとか?
今のままだとダンテもびっくりの輪廻転生しちゃう?
いえ、宗教をごちゃまぜにしてはダメよ。
だけどまあ、悪夢の中の私が貪欲者と憤怒者の地獄にいたとしたら、エルダは私にとってのベアトリーチェなのかもしれない。
天国に行きたいとは思わないけれど、常春の楽園でベアトリーチェならぬエルダと落ち合って、そこでのんびりとしたいわ。……って思っているうちはダメね。
「あら、ファラーラ様。今からお勉強なのですか?」
「私もご一緒してよろしいでしょうか?」
「……ミーラ様、レジーナ様……。これは、昨日のレポートの……納得いかないところが(先生に)あったので、修正して再提出しようと思っているの」
「まあ! さすがファラーラ様ですわ!」
どうでもいいことを考えながら突き返されたレポートを机に出していたら、ミーラ様とレジーナ様に見つかってしまったわ。
もう帰ったのではなかったの?
仕方なくもごもご答えると、ミーラ様が顔を輝かせて褒めてくれた。
そうなのよ。
ファラーラ・ファッジンは嫌なことを先延ばしにしないんだから。
「私、実は数字の計算がよくできなくて。お傍で復習していてもよろしいでしょうか?」
「え、ええ……」
「私も明日提出の語学の課題をここでしてもよろしいでしょうか?」
それもあった!
この学園の先生方は課題を出しすぎじゃない?
学生の本分は友達と遊ぶことじゃないの?
「それでは、これから皆さんご一緒に勉強会にしませんか?」
「勉強会?」
以前の私は課題を全て家庭教師にさせていたけれど(そのために雇い続けていたのよね)、エルダの「勉強会」には参加してあげてもいいわ。
ということは自分で勉強するしかないわね。
だけど仕方ないわ。
勉強会の醍醐味は教えたり、教えられたりでしょう?
数字の計算なら任せてちょうだい。
「まあ、ファラーラ様。それは何ていう曲なのですか? 素晴らしい曲調ですわね」
「え?」
「ファラ、今の鼻歌だよ。さっきのと一緒の曲だったよ?」
「あ、あら……何だったかしら? 曲名は忘れてしまって……ごめんなさい」
おほほほほ!
って誤魔化したけれど、また鼻歌を歌っていたなんて不覚にもほどがあるわ。
しかも、今のは記憶にある。
あれは蝶子が好きだった曲なのよ。
どうやら私はうっかり鼻歌を歌ってしまうことがあるみたいね。
気をつけないと、ファラーラ・ファッジンのイメージが台無しだわ。
みんなで机を少し移動させて囲んで、教科書やノートを広げる。
あ、なぜかしら、涙が出そう。
鼻がつんとしてきたのは鼻歌のせいね。
そう思って顔を逸らしたら、廊下にいた王太子殿下と目が合ってしまったわ。




