#5
「おはよう、奏」
鳥のさえずりにも似た優しい声と共に、登校中の彼女の横に現れたのは、同じ部活に所属するクラスメイトの 鳴瀬泉美。
銀縁眼鏡にボブカットの、知性を漂わせる彼女はその雰囲気通り成績優秀で、奏にも勉強を教えてくれる良き親友だ。
彼女は内気で消極的な性格で、人前に出る事が大の苦手だが、オカルト関係の話やホラー映画が好きという意外な一面を持っている。もしこの学校にオカルト研究部が存在していたら、吹奏楽部に入部して奏とここまで仲良くなることもなかったかもしれない、とまで言っていた。
奏はこの話を思い出すたび、オカルト研究部が創設されていない我が校に感謝せずにはいられない。
おはよう、と奏が返すと、泉美は顎に手を添え、奏の顔をまじまじと見つめた。
何か変なものでも付いているのかと尋ねようとすると、先に泉美が口を開いた。
「昨日の夜、何か大変な事でもあったの?」
ギクッ、という文字が自分の頭上に浮かぶのを、奏は感じた。
彼女は勉強が出来るだけでなく、洞察力もなかなか鋭いのだ。
ヤビイには特に何も言われていないが、おおごとにならないように、昨日の事は黙っておいた方が賢明だろう。
第一、あまりにも非現実的な昨日の出来事を話したところで、一体誰が信じるだろうか。信じてもらえないどころか、頭がおかしくなったのかと思われるかもしれない。
親友である彼女に隠し事はしたくなかったが、何しろ内容が内容である。昨日のことは黙っておこう。
「ううん、何も無いよ。 そういう風に見えた?」
「ええ。いつもの奏にしては顔が疲れてる。詮索するつもりは無いけれど、無理はしないでね」
本気で心配してくれているのが、泉美の目でひしひしと分かり、心が痛い。
彼女はほぼ間違いなく、前日に何かしら起きたのを奏の反応で悟ったのだろうが、それを黙ってくれているのだ。
もしも「奏の嘘つき!あなたは昨日魔法少女になって巨大な怪物と戦ってた。もう知らない!」などと言われて大事な親友との縁が切れようものなら、一刻も早くあのピンク色の石を海にでも放り投げるか、粉々に砕いてしまった方がマシだと、奏は思わずにはいられない。
ともかく、一連の事は誰にも知られないよう、役割を全うするまでは慎重に行動しよう。
私は確かに魔法少女になったが、表面上ではごく普通の女子中学生なのだから。
奏はそう決心した。
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シュッ、と軽快に放たれた銀色の鋭利なナイフが、古い洋館の薄暗い空気を一直線に貫き、的も何も無い、三、四メートル先の壁に突き刺さった。
行動主である、黒いパーカーのフードを被った少女のような容姿の少年は、虚しく笑う。
もう一発投げようかと、ポケットに手を伸ばしたが、背後に気配を感じ、手を止めた。
「僕を嗤いに来たの?」
少年が前を向いたまま言うと、ふふっ、と色気のある声が返ってくる。
「そうして欲しいなら、いくらでもしてあげるけど?」
「断る。……と君に言っても無駄だろうけど」
すると背後にいた彼女は、ヒールの音をゆっくりと鳴らし、気だるそうに壁に寄りかかり、自ずと少年の視界に入った。
蔑むような顔で少年を見下ろす彼女は、ウェーブのかかった髪を背中まで伸ばし、露出度の高い黒のタイトドレスが、その艶めかしい身体を引き立たせている。
「ほら、弁解するならしてみなさい?」
と、女は腕組をしながら少年を顎で指した。
彼は昨日のことを思い返す。
人間界を壊滅させるべく、彼は一体の怪物を連れ出した。怪物は、展望台の上に一人目の人間を見つけ、照準を定めて襲い掛かろうとしたが、その少女は別の姿に変身し、あっさりと怪物を打ち負かしてしまったのだ。
彼女は一体何者なのだろう? 僕達以外にあのような魔力を持った者が、まさかこの世界に居たとは。
少年は忌々しい気持ちになった。
「邪魔者が出たんだよ。あんな奴のことなんか全く聞かされてないのに……」
「ふうん……。何が出たのか知らないけど、邪魔者なんかさっさとあんたが殺っちゃえば良かったのに。人間なんて、左胸さえぶっ刺しちゃえば終わりなんでしょう? うってつけの武器だって持ってるじゃない」
少年のほうを向いたまま壁のナイフを抜き取り、再び強く突き刺しながら女は言った。
「君は相変わらず、おぞましい事をさらりと言うね」
「本当の事を言ったまでよ。人間の脆さくらい、あんたもよく知ってるでしょう?」
「まあ、知ってるけど」
「……でもまあ、一瞬で終わらせちゃうのも確かに面白くないわね」
少年の紅い瞳が、女の顔を睨む。
「どうせ殺るなら、より気持ちの良い手段を選ばなきゃね⋯⋯」
獲物を狙う肉食獣のように、女は舌舐めずりをしながら妖しく微笑んだ。
「誰かを殺りたくてたまらなくなった時は、何とか抑えてあげる。その時は、せいぜい感謝なさい?」
本当に恐ろしい奴だ、と少年は苦笑いした。
「その恩着せがましい言い方は、どうも気に入らないな」
「あたし、これでもまだ誰にも手をかけてないのよ?」
「『まだ』って⋯⋯」
少年が顔をしかめる。
「欲を抑えるのも、案外苦しいものよ。あんたも分かるでしょう?」
少年は、今度は肯定しなかった。
「分からないな。残念だけど、君が言いたいことは僕には伝わらないみたいだ」
「本当なの? 物欲もそうだし、あんたみたいな年頃の男の子ともなれば、色々あるんじゃないの?」
と、女は挑発的に言った。
前面に落ちる髪がどかされ、女の鎖骨が露わになった。
「何の話やら」
冷めた表情でそう答えた少年は、とぼけているわけでも無知を装っているわけでもなく、彼女が意味している事が本当に分かっていなかった。
「……あんた、本当に変わった子ね」
女はつまらなさそうに、ため息混じりに言った。そして壁に寄りかかるのをやめ、ゆっくりと歩き出した。
「君に言われたくない」
少年は小声で呟き、黒い指ぬきグローブに覆われた自分の右手を見つめた。