#58
眼前に広がる空は、少しでも気を抜くとすぐに霞んでしまった。
意識を手放すまいと、どうにかこらえる奏は、ぎこちなく、隣にいる相棒のほうを見る。
満身創痍の、地面に倒れる光の剣士。
変身が解かれた彼女と全く同じ状況だった。
「ヤビ、イ……」
奏は言うべき言葉が見つからず、その名を呼ぶことしかできなかった。
ヤビイはその声に応え、ゆっくりと、顔を向ける。
前髪のかかった目は、消えかけのろうそくのように弱弱しく微笑んでいた。
「あとちょっと、だったな……」
ヤビイの声はかすれていた。
二人の戦士は、最大限の力を振り絞ったもののあと一歩及ばず、巨大な槍の前に敗れてしまった。
当然、奏もヤビイも一切妥協はしなかったし、力を放出している間、目の前の脅威を倒す以外のことは一切考えなかった。
だが、敵はあまりにも強かった。
一人の少女のただならぬ意思――否、執念は、あまりに強かった。
「俺と奏なら、やれると思ったんだけどな……」
やれると思った。
実際には、やれなかった。
その言葉が、ぼろぼろの状態の奏に突き刺さる。
「けど、俺は絶対お前を責めたりはしねえよ……。お前が全力で立ち向かったのは分かるし――」
ヤビイはここで言葉を途切れさせ、一粒の雫を片目から流した。
「向こうがあまりに強すぎたんだ」
立ち上がる気力の残されていない剣士は、とめどなく零れてくるものを隠すことすら諦めている。
それに誘発されるように、奏も途端に胸が引き裂かれるような感覚に見舞われた。
「そんなことって……」
あのヤビイと力を合わせ、全力を出し切ってもなお、倒せなかった。
じゃあ、誰があの悪魔を止められるのか?
――誰にも止められない。
これまでの積み重ねは焼却され、そこに新たな未来が、事実として上書きされる。
そんな絶望的な言葉が脳裏をかすめたと同時に、奏のポケットの携帯電話が鳴った。
無料通信アプリ『CONNECT』の着信音。
誰からのメッセージかは、通知を見る前から直感で分かった。
震える手で画面を開くと、既にこんなメッセージが届いていた。
『お前なら楽勝だって、信じてるぜ』と、麗音。
『みんな、奏が勝てるよう祈ってるよ。』雅斗。
『帰ってきたら、またみんなでアイス食べような!(笑)』稜。
そして今届いた、親友のメッセージ。
『奏のこと、みんなで待ってるよ!』
五人のグループチャットで、奏以外の四人が一言ずつ発していた。
奏の涙がどっと溢れる。
「みんな、ごめん……!」
嗚咽交じりの震える声で、画面を表示したままの携帯電話をぎゅっと握りしめる。
みんなが信じていたものを、守れなかったと、奏は激しい罪悪感に襲われる。
もうすぐこの友情も消え去る。
これまで築き上げてきた友情は、あの悪魔の手によって、全てなかったことにさせられる。
お互いの存在のことも忘れる。
忘れたことすらも忘れる。
――否、最初からなかったことにされる。
そこに刻まれる新たな未来が、事実になる。
「嫌だ……」
奏の気持ちが溢れ出た。
「嫌だよ……そんなの……」
「奏……」
そんな様子を隣で見ているヤビイも、悲しみに暮れている。
ヤビイは奏ほど長くは生きていないし、経験した物事の数も圧倒的に少ない。
それに、世界の端に生まれ落ちたヤビイは、エザムと奏以外の奴とはほとんど関わっていない。
だけどそいつらとの思い出は、ものすごく輝いているし、ずっと大切にしたいと思っていた……。
ヤビイはそう考えながら、走馬灯のように走る様々な思い出を、呼び起こしていた。
エザムと二人で、世界中を飛び回っていろいろなものを見たこと。
その中で、エザムがいろいろな物事を教えてくれたこと。
エザムの力を受け継いでくれる人間として、一番に奏と出会ったこと。
俺が本当の姿を解放し、奏がお気に入りの場所へ連れて行ってくれたこと。
「あの時のおにぎり、美味かったな……」
うわごとのようにヤビイは呟いた。
けど、いずれの記憶も、もうすぐなかったことにされる。
それは精霊であるヤビイにとっても、とても悲しく、寂しいことだった。
思い出が消される悲しみは、人間も精霊も同じだ。
「俺は……」
ヤビイの震える手が、きこちなく横に伸びる。
「お前と一番に出会えて、本当によかったよ……」
コンクリートの地面に投げ出された、相棒の手。
そこに自分の手を、そっと重ねた。
二つの手は冷たくなりかけているものの、その奥底にはまだ、わずかな熱が残っている。
「私も、ヤビイと出会えてよかったよ……」
か弱い声で言いながら、奏はきゅっと手を握った。
その言葉に安心したヤビイは、静かに目を閉じながら、奏の手を優しく握り返した。
二つ重なり合う手の中には、ピンク色の宝玉があった。
*******
朦朧とした意識の中に、 奏とヤビイは佇んでいた。
周りの情景が、正確に捉えられない。
世界は輪郭を失い、混沌に飲まれようとしているのか。
世界は今、あの忌むべき悪魔によって焼却され始めているのか。
二人はそう考えた。
握られていたはずの手の感覚は無く、自分たち自身もここまでなのかと、悲しみに包まれかけた、その時。
――「希望はまだ残っているよ」
優しい温かみを帯びた声。
「君たちの敗北はまだ決まっていないし、それを認めれば、全ては終わりだ」
真っ白な空間に佇む、金色の髪の美しき精霊。
二人の戦士にとってその姿は、まさに最後の希望そのものだった。
「君たちには……否、私たちにはまだ、大いなる闇に打ち勝つ手段が残されている」
するとエザムは伏し目がちになり、こう言った。
「それなりの代償はつくけれど、それを実行しなければ、世界は奴の……奴らの思惑通りになってしまう」
「……具体的な方法は何だ?」
ヤビイが尋ねた。
「それが何であれ、今の俺達はそれに賭けるしかねえ……」
奏も、こくりと頷いた。
エザムはその思いに応え、決心するように口を開いた。
奏のほうを見やる。
「魔法少女としての君の功績に」
束の間の沈黙。
――「私とヤビイの全てを捧げることだ」
それは、今までエザムが発した中で、一番重みを持った言葉だった。