#55
大いなる闇の内部。
生々しく胎動する闇。
それは、この世全ての悪の根源のようでもあり、死の世界のようでもあった。
本来ならば、誰にも侵入が許されない禁断の場所。
その中に、冷酷なる青年は居た。
「何故ここにいるのです……。裏切り者の分際で、今更我々に寝返るつもりですか」
と、キールは嫌味っぽく言った。
「私は血迷ったりなどはしない。もっと単純な理由だ」
レイはいつもの調子で、淡々と述べる。
「ほう?」
片眉をぴくりと上げるキール。
「どのような目的で……」
「その前に、貴様に訊きたいことがある」
と、レイは遮るように言った。
「何なりと」
「貴様がこのような場所にいるのは何故だ? ……どうしてこんな姿に変わり果てた?」
レイの紅と紫の瞳が、真っすぐにキールを見る。
「この膨大な魔力は元々、私の人形として作り上げた少年でした」
キールは天を仰ぐように言った。
「人間の亡骸を器に、神秘の宝玉と魔力を注いで創りあげた少年――ノイジアは日に日に魔力を求めるようになり、最終的にこのような結果になりました」
と、キールはその経緯が伝わる最低限の情報だけを述べた。
「……そうか」
予想外のことを告げられても、レイは決して揺るがない。
「長い間眠っていた、あれのことか?」
と独り言のように言った。
暗い部屋に一人横たわる、人間の白い裸体。
あの日、自分らを生み出した少女から奪ったものだと、その髪型と美しい顔立ちでわかった。
しばらく動きを見せないそれのことを、レイは多少気にかけていたものの、特に事情を聞き出したりはしなかった。
「丁度、あなたが出ていった直後に目覚めましたよ」
キールは彼女が裏切ったことを蒸し返すように言った。
だが、レイはやはり動じず、
「そうか」
とだけ言った。
「彼の人格までも乗っ取ったというわけか」
「この無限の闇と一つになり、世界が闇に沈みゆく様を見届けるためです」
「一つになると言いながら、肉体は保たれているわけか……」
随分都合のいいやり方だ、とレイは呆れるように目を伏せた。
だが、彼女はここで、本心とは反対のことを口にした。
「気に入ったぞ、そのやり方」と。
キールは一瞬、いぶかし気に眉をひそめた。
「己を満たすために、自分にとって都合のいい手段を取る……それも自分にデメリットのない方法で……。この世の悪に生まれた存在として、賞賛に値するだろう」
「それはどうも」
キールは鼻で息を洩らしながら言った。
「最後にそれが聞けて満足した」
レイはそう言いながら、彼の前に手の平を差し出した。
キールはその上に乗ったものを見た途端、目を見開いた。
「これらを持ち出したことは詫びる」
その上には、黄色、緑、青と三つの叡珠が乗っている。
「私はこの戦いを降りる。そして、この世界の破滅を望むことにする」
キールは肩を竦め、鼻から息を洩らした。
「いいでしょう。邪魔者が減るに越したことはない……」
キールは一歩踏み出し、三つの石のほうへ進む。
「これで残りの叡珠は一つ……。あの光の戦士が持っている一つさえ奪えば……」
黒い手袋がそっと伸びた。
――今だ。
レイは短く詠唱した。
「『ゴーストフレイム』」
紫色の妖しい炎が、空間に溶けるようにほとばしり、青年にまっすぐ飛んだ。
キールは真正面から魔法攻撃を喰らい、大きく吹っ飛ばされた。
「見事に騙されたな」
冷酷な紅い瞳。
「やはり叡珠の前では、その冷静さも表面的なものにすぎないか」
キールは地面に手を付きながら俯き、震えている。
「……よくもまあ」
キールはゆらりと立ち上がる。
「私を怒らせたものですね……」
キールは震えた手で、黒い手袋を外す。
その中からは、おぞましい冷気が溢れ出る。
――「調子に乗るなぁぁあああああ‼」
怒りをぶつけるように、無数の氷の矢を放つ。
それでも、それを見越していたレイは素早く回避する。
「誰が調子に乗ったと?」
素早い動きで、キールの背後に回る。
そして、無言のままに蹴りを入れた。
またしても、キールは盛大に吹っ飛ばされた。
彼は呻きながら、ゆっくりと立ち上がる。
「私に戦いを持ちかけることが何を意味するか……」
キールの全身を、邪悪な冷気が包み込む。
「その身をもって理解するがいい……!」
仮面のように張り付いていた穏やかな表情は、すっかり怒りに歪んでいる。
冷気を纏った右手を突き出し、猛吹雪を放つ。
回避させまいと、全方位に。
「せいぜい後悔することですね……」
動きのない女に、ニヤリとするキール。
だが、レイはあくまで冷静だ。
「『ゴーストフレイム』」
道を切り拓くように、真っすぐ放たれる炎。
キールは慌てたように、炎を回避する。
「何故だ……」
「あの光の戦士ならまだしも、炎を操る私に氷魔法を放つとは……」
そしてとどめを刺すように、
「愚の骨頂だな」と言った。
愚の骨頂。愚か。
誰が愚かか。
「貴様ッ……‼」
その言葉は、青年をさらなる怒りの境地へと突き落とした。
そして、それはレイの思うつぼだった。
なりふり構わず乱射される氷魔法を、レイはひょいひょいと回避する。
銀色の髪をなびかせながら、軽やかに。
華麗に攻撃を避けながら、キールへの接近を試みる。
「これではっきりしました。貴女は悪の中の悪……己の願望のために我々を裏切り、さらに欺くなどと……」
キールはてをかざし、氷の魔力をチャージする。
「せいぜい私の前に倒れるがいい‼」
直径一メートルほどの氷の塊が、レイに向かって飛んだ。
それを目視した彼女は、目にもとまらぬ速さで槍を顕現させ、氷を打ち砕いた。
バリンと豪快な音を立て、透き通った欠片は儚く散っていった。
「貴様は私に勝てない」
と、レイは光る欠片の舞う中で言いながら、槍の先端をキールに薙ぎ払った。
だが、その物理攻撃は空振りとなった。
青年は一瞬のうちに姿を眩ませていた。
「調子に乗るなと言ってるでしょう?」
彼の声がしたのは、レイの背後からだった。
彼女が振り向くと同時に、キールは至近距離から、氷の矢を撃ち込んだ。
その青い瞳だけで、怒りを全面に表しながら。
「がはぁっ‼」
レイの声が思わず裏返る。
一気にダメージを喰らった彼女は、地面に倒れたまましばらく動けずにいた。
「貴様……」
ゆっくりと身を起こし、キールを睨みあげる。
それと同時に、彼は瞬間移動でレイのそばに来た。
「ようやく理解したようですね。私を怒らせるとどうなるか……」
キールは凍てつかせるような視線を下に向ける。
「さあ、後悔なさい」
彼がそう言うと同時に、レイは身震いさせられるような、おぞましい気配を背中に感じた。
「その憎き魂を氷に閉ざし、もろとも粉砕してやりますよ……!」
キールが手をかざすと、バリバリバリという轟音と共にレイの身体が高く浮上した。
その身を貫くように生えた、氷の磔台。
枯れ木に似た形で、あちらこちらに細い腕を伸ばしている。
レイが歯を食いしばりながら、自分の身体を見下ろすと、既に氷と一体化し始めていた。
凍てつく氷は痺れるような痛みを与えながら、じわじわとその身を侵す。
キールは満足げに、ククク、と不気味に笑った。
闇の氷がレイの首より下を覆い尽くしてもなお、彼女は一切抵抗しない。
侵食が進み、その口が塞がれる寸前まで、彼女は何も言わず、凍てつく痛みに耐え続けた。