#45
「やっぱり、僕のせいだ」
泣きそうな声でそう言ったのは、中学校に進学した詩苑だった。
黒々とした髪が、俯きがちな顔を隠している。
「僕がこんなに軟弱で、情けない奴だから……」
だから、お姉ちゃんまで……。
彼の声は徐々にかすれて消えていった。
「詩苑は何も悪くないよ」
と、華音は首を横に振った。
「全部、変な噂を広めた奴が悪いんだもの」
二人は、中学校で陰湿ないじめを受けるようになっていた。
華音たち姉弟の噂は、小学校時代からひそかに広まっていた。
いつぞや話題になっていた『奇跡の姉弟』の一人ではないか、と。
当然見た目は成長し、大きく変わっていたが、学級名簿のトップに書かれたその特徴的な名字で、十年近く前の事件を思い出す保護者は少なくなかった。
同級生の中に当時のニュースを覚えている者はいなかったが、保護者の誰かがそれを言い出し、それが一瞬にして広まった。
小さいころに親がいなくなって可哀そう。
誰の家で育てられたんだろう。
陰でひそひそと言われたことは何度もあったが、この時は、露骨な嫌がらせなどはなかった。
たとえそのことを匂わすような、軽い冷やかし文句を同級生に言われても、彼女はすぐに言い返すことができたため、それがエスカレートすることはなかった。
事情を知っていた担任が何も言わず、他の生徒と同等に接してくれたのも幸いし、彼女は変わらず、クラスの中心で明るい生徒として振舞い続けていた。
だが、華音が中学二年生になり、詩苑も進学して以降、事態は悪化した。
彼は小学校の最後の二年はほとんど登校しなくなっていたが、中学校の入学式以降、一か月ほど学校へ通った。
本人はあまり乗り気ではなかったが、両親に「いいかげん学校に行け」としつこく言われ、学ランを着てしぶしぶ登校した。
いざ教室に入ると、本人の想像通り彼はクラス中から奇異の目で見られ、中には席を取り囲んでからかってくる集団もいた。
それでも彼は今まで通り、無言で俯いたまま彼らを無視してやり過ごした。
彼は教室内では自ら望む形で孤立したが、帰り道は姉と共に過ごした。
鴉衣姉弟が二人で歩いている場面はたちまち話題になった。
「華音と二人で歩いてたの、誰?」
「まさか、彼氏? うっそー」
「多分弟だよ。 不登校の弟がいるって聞いたことあるもん」
と、華音の同級生。
「あいつ、教室じゃ何も喋んないくせに女子と歩いてやがんの」
「うわ、うぜー」
「生意気ー」
と、詩苑の同級生も、陰で好き放題話していた。
二人はそのことを直接聞かれると、それぞれ、自分の姉弟だと簡潔に話した。
それを聞いた同級生の中には、あれが噂の、と納得する者もいたし、恋愛関係じゃないのかとつまらなさそうにする者もいた。
「そんな、彼氏なんかいないって」
と、華音は困ったように笑っていたが、その笑顔は数日で消えた。
ある日の朝、華音が教室に入ると、黒板の右端に何かが書かれているのに気づいた。
何だろうと思い、それを読んだ途端、彼女の顔は青ざめた。
「何、これ……?」
そこには白いチョークで、『アイカノンの弟=変人』と書かれていた。
字はあまり綺麗とは言えず、その上筆圧も薄い。
まるで、その文が本人に気づかれるかどうか試しているような、そんな悪意を彼女は感じた。
「誰がこんなこと……」
彼女はしばらく黒板の前に立ちすくみ、そして悪意の文をさっと消した。
そして何事もなかった風を装い、早足で席に着いた。
華音は最愛の弟を悪く言われ、とても腹立たしい気持ちになった。
詩苑が不登校で、かつ人一倍無口で『変わり者』と見なされるのも事実だったが、なにもそこまで言わなくたっていいじゃないか。
わざわざ、こんなことをしなくたっていいじゃないか。と。
結局落書きの犯人は見つからず、誰も申し出ないどころか、彼女への嫌がらせは日に日にエスカレートした。
その頃詩苑のクラスでは、彼は「姉がいなきゃ何もできないヤツ」と揶揄されるようになり、彼は一層孤立した。
ほっとかれる分にはむしろ都合がよかったし、直接何かを言われても無視すればよかったが、そんな彼にも怒りのスイッチはあった。
――「いい加減にしろよ‼」
詩苑が怒鳴り声をあげ、自分のハサミを投げつけたのは、自分にわざと聞こえるように、姉を悪く言われたためだった。
姉を悪く言われたのはもちろん、自分の反応を横目でちらちら伺うような態度そのものが、彼の神経を逆なでた。
幸い誰もけがはしなかった。
だが、ほとんど口を開かない彼が声を張り上げ、さらに危険な行為に出たことで、その場にいた全員が凍り付いた。
その話はすぐに学校中に広まり、華音の耳にも入った。
しかし、行動を起こした原因は都合よく抹消され、ただ彼が『怒鳴りながらハサミを投げた』という話だけが独り歩きしている状態だった。
さらに、誰が言い出したのか、華音は「姉弟そろって実はヤバい奴」と言われるようになり、彼女まで、徐々に周りから避けられるようになった。
一連の騒動の翌日以降、詩苑はまた学校へ行かなくなった。
「あいつ、また学校来なくなったな」
「怖くなって逃げたんじゃないの」
自分たちのしたことは棚に上げて、クラスメイトたちはそんなことを口々に言った。
彼はまた、愛用のヘッドホンで音楽に聞き入る日々に戻った。
「ただいま、詩苑」
それでも愛する姉は、毎日帰ってくるたびに一番に彼に会いに行った。
「お帰り、お姉ちゃん」
詩苑は、姉の表情が日に日に暗くなっていることに気づいていた。
僕が原因で、お姉ちゃんまで。
彼はそう確信した。
詩苑は徐々に胸が締め付けられる感覚になり、その思いが口をついて出た。
「やっぱり僕のせいで……」
「違うの! 詩苑は何も悪くない!」
と、華音は慌てたように言い、それからハッとなって口を押えた。
今のでばれてしまった、と。
事実、クラスの中心で輝いていたはずの華音は、いじめられるようになっていた。
黒板の端の落書きに始まり、やがて、無視されるようになったり、わざとぶつかっては極端に避けられたりと、陰湿さを増していた。
さらに十年前の事件を引っ張り出し、『あの二人に関わったら自分が交通事故に遭う』と、根も葉もない噂を流す者もいた。
それらは担任の耳に入り、ホームルームのたびに、いじめはやめましょうと、定型文のように言った。
だが、大人の口先だけの言葉で収まるほど、彼らのいじめというのは簡単なものではない。
リーダー格が直接注意されたところで、表面だけで反省している風を装い、裏では舌を出してへらへらしている。
その周りも、逆らえば今度は自分が標的にされると、怖がって声をあげない。
怖がって、誰も手を差し伸べない。
とりあえず多数派についていたい。
「浮いてる」、「空気が読めない」と言われるのが怖いから。
仲のいい友人ですらも、周りの圧に抑えられてしまっている。
だから、今の私に唯一味方してくれるのは――。
華音は視界がじんわりとぼやけるのを感じ、慌てて詩苑に抱き着いた。
「お姉、ちゃん……?」
「詩苑は本当に立派だったよ」
「え、何が……?」
詩苑は自分が褒められる理由が分からず、困惑する。
大人から何を言われても、『自分は学校に行かない』という意志をちゃんと貫いたこと。
ただ周りに言われるがままにするのではなく、ちゃんと自分の頭で、どっちが自分にとっていいか考えられること。
華音はただ、弟を肯定する。
実際詩苑は、時々担任からかかってくる、「クラスのみんなが待ってるよ」という上辺の電話にも、決して揺るがなかった。
とめどなく、華音の言葉が溢れ出る。
「詩苑は勉強もすごくできるし、集団でしか人を叩けない弱虫たちよりも、ずっとずっと立派だよ」
「そう、かな」
華音は頷きながら、軽く嗚咽する。
「口ばっかりで、結局何も助けてくれない大人たちよりも、ずっとずっと立派だよ」
それは、担任の教師のことでもあり、育て親のことでもあった。
両親は相変わらず冷たく、再び学校に行かなくなった詩苑のこともすっかり諦めていた。
「僕を褒めてくれるのは、お姉ちゃんだけだ」
と、詩苑は一筋の涙を流した。
「これからは、昼も夜もずっとお姉ちゃんがそばにいるからね」
「……え?」
詩苑は慌てて顔をあげた。
華音はすっかり涙の乾いた顔で、優しく微笑んでいた。
そして、こう言った。
「勉強は、詩苑が教えてくれるよね?」
まさか、と思っていたことが確信になり、詩苑はだんだん笑みがこみ上げてくるのを感じた。
ずっとお姉ちゃんが家にいる。いつでも会える。
お姉ちゃんが嫌な目に遭わなくなる。
「……うん!」
詩苑は、笑顔で頷いた。
こうして翌日以降、かつてクラスの中心人物だった華音は、登校を拒否し、自分の城に籠るようになった。
もう、周りに言われるがままにしなくてもいいのだと、華音は弟に倣い、自らの意思を優先した。
クラスメイトたちは間違いなく、私の悪口を好き勝手言うだろう。
けど、好きにすればいい。
と、華音は心の中で、自分の属するクラスに別れを告げた。




