#41
おぼろげな意識の中、奏は暗闇の中でうつぶせに倒れていた。
「(ここは……?)」
そこはどこにも実在しない、彼女の精神世界だった。
少女はゆっくり起き上がり、周囲を見渡す。
ぐるりと一周見ても、そこにはただ真っ暗な海が広がっているだけだ。
そして彼女は、ここへ来る前の記憶が薄れていることに気づく。
自分が何をしていたのか思い出せないし、何故自分がここにいるのかもわからずにいる。
少しでも手がかりを得ようと、奏は立ち上がり、空間の中を歩きだした。
警戒しながら、おそるおそるあたりを見渡してゆっくりと。
だが、歩けど歩けど、その場所を特徴づけるものは何もなかった。
少女を四方から囲う、巨大な壁を除いては。
彼女は空間をさまよううちに、壁に勢いよくぶつかり、その存在に初めて気づいた。
じんわりと痛みが広がると同時に、彼女はだんだん泣き出したい気持ちになった。
――誰か、いないの?
少女は声なき声で呼びかけた。
ひんやりとした空気が、奏の頬を刺すように流れる。
――誰か……。
もう一度呼びかける。
本当に誰もおらず、ここからずっと抜けられなかったらどうしようと、不安を覚えたその時。
――「私はここにいるよ」
一条の希望の光。
いつしか聞いた、柔らかく優しさに満ちた声。
その声は、少女に安心感をもたらした。
彼女は声の主の名前を呼ぶ。
「ああ、私さ」
エザムは答えた。
「私は君の近くにいるよ」
エザムの言葉はさらに奏を安心させた。
が、次にエザムは、心底残念そうにこう言った。
「けれど残念ながら、その姿は互いに見えないでいる」
それは、黒い壁が原因だった。
「何故なら今の君は、闇に囚われている状態だからさ」
――私が、闇に囚われている……?
「幸い、君の叡珠が破壊されずにすんだお陰で、君の命は救われた。ただし、強力な闇の魔力は、君を永遠にここに閉じ込めるつもりだ」
奏は恐ろしい気持ちになった。
こんな何もない、暗く寂しい空間にずっと取り残されるのは、当然嫌だ。
「ノイジア……あの膨大な魔力を宿した少年が君を捕らえた」
エザムがそう言うと、奏の中にかすかな記憶が蘇った。
「(そうだ、あの巨大な怪物で動けなくなって、それで真正面から攻撃されて……)」
その途中で、奏の意識は途切れていた。
――私、ここからどうすれば……。
奏は不安を露わにしながら言った。
「君にはまだ、希望の道が残されている」
壁の向こうのエザムは真剣に言った。
「君を捕らえる闇を払う力が、君には残されている」
と、エザムは断言した。
少女は自分の手の平を見つめ、ぐっと握った。
「私も手を貸したいところだが、残念ながら、私が力を貸すことはできない。……つまりこの状況を打破できるかどうかは、君自身にかかっている!」
優しいエザムの声は力強さを持ち、少女の気持ちを鼓舞した。
――「さあ、雨宮奏」
エザムは少女の名を呼ぶ。
「その手で壁をぶち破り、私を再び繋がるんだ!」
奏は全身が震えるのを感じた。
それは恐怖やプレッシャーによるものではなく、自分の力でこの状況を打破してやるという、武者震いだった。
彼女はもう、何の取柄もないただの中学生などではない。
脅威に立ち向かう、精霊の光に選ばれた一人の戦士だ。
エザムと再び繋がるためにすべきことは、すぐにわかった。
奏は拳を引き、ありったけの力を壁にぶつける。
息を弾ませながら、己の意志を絶やすことなく。
しかし壁は簡単には壊せない。
二発、三発拳を入れたところで、彼女の手に鈍い痛みが走った。
――けど、ここで諦めたら……。
奏は右手をおさえながら、正面にそびえ立つ壁を睨む。
息を大きく吸い込み、また拳を引く。
少女はくじけない。
壁の向こう側の精霊を信じ、ここから脱出するために、彼女は力を振り絞る。
私はここから脱出し、魔法少女として戦って、悪を鎮める。
そして、七つの叡珠を揃えて、親友のために祈りを捧げる!
――はっ!
奏の強い意志は本物だった。
暗くて目視できないものの、奏が拳を打ち付けた部分には、小さなひびが蜘蛛の巣状にできていた。
彼女はわずかに手ごたえを感じながら、ふぅ、と息をつく。
右手がひりひりと痛む。
――それ、壊せないよ。
背後から声がし、奏は振り向く。
――どう頑張ったって無理無理。これ以上やったって、もっと痛い思いするだけ。
そこに立っているのは、黒く染まった衣装に灰色のサイドテールの――彼女自身だった。
亡霊のように闇の中に浮かび上がる彼女は、光を失った虚ろな目で、目の前の自分をあざ笑う。
――ここで待っていれば、あの子が『新しい世界』に連れてってくれるって。
そうすれば、もう痛い思いなんかしなくて済むし、あんたは永遠に楽しく過ごせるよ!
奏の幻影は、両腕を開き歓迎するように言った。
奏は俯いている。
「奴の言葉に耳を貸すんじゃない! それに従えば、君は君じゃなくなるぞ!」
壁越しに聞こえるエザムの声。
――もうこれ以上、何もしなくてもいいよ。
甘く囁くような、幻影の声。
それに対する奏の答えは、壁に打ち付けられた拳だった。
――私は惑わされたりなんかしませんよ。
奏は心の中でエザムにそう言いながら、もう一発、壁を叩いた。
――何で? 無理だって言ってんじゃん……。
戸惑う幻影の少女。
――そんなの、やってみなきゃ分からないよ。
壁に向き合いながら、奏は毅然として言った。
とりあえずやってみる。
今、ここでできることがあれば、自分から手を伸ばし、やってみる。
そうすれば、危機的な状況を突破できるかもしれない。
言い換えるなら、『やらなければ何も始まらない』。
その後のことは、後で考えればいい。
それは、ごく普通の少女・雨宮奏が魔法少女に目覚めた時も同じだった。
とりあえず、やるしかない。
そう思いながら、水色の精霊に従い、巨大な未知の怪物に立ち向かった。
もしあの時、彼女が戦う意志を持たなければ、街はもっと壊滅的な状況に陥ってただろう。
巨大な怪物と戦ったあの夜が、奏の中に蘇った。
右も左も分からぬまま、魔法少女に変身した奏。
水色のふわふわした精霊に言われるがまま、未知の怪物に立ち向かって魔法攻撃を繰り出す。
それでも怪物はすぐには倒れず、今度は、巨大な拳が振り下ろされた。
魔法で強化されたパワーで跳躍し、鉄槌を回避する。
謎の生物との戦いが怖かったのも事実だが、この時はほとんど勢いで動いていた。
揺れ動く怪物の腕を駆け抜けて、後ろ側に回り――。
――何かこの辺弱そう!
彼女の直感で、首筋に勢いよく蹴りを入れた。
怪物は怯み、彼女は続けて二発、三発弱点を蹴る。
すると怪物は唸りながら、地面に崩れ落ち――。
壁が壊れた。
息を弾ませる彼女は、鈍く痛む拳の代わりに、蹴りを二、三発入れることで、壁を崩すことに成功した。
――信じられない。
幻影の少女は不機嫌そうに言った。
奏は構わず、前に進んだ。
――私、まだまだやらなきゃいけないことがあるから。
奏は壁に開いた穴をくぐり、自身の幻影に別れを告げた。
奏は自らを捕らえていた黒い箱を脱出した。
箱の外もまた、真っ暗な海だった。
左右を見渡すと、すぐにエザムの姿を確認できた。
安堵感を覚えながら、奏はエザムに駆け寄る。
「君ならできると信じてたよ」
エザムは慈悲深く微笑み、繊細な手を少女に差し伸べた。
奏は腕を一杯に伸ばして、その手を握り返した。
その時、二人の手の中から眩い光が発せられ、二人を覆う暗闇は瞬時に淡いピンク色に変化した。
奏がエザムの力と融合するときの空間だ。
「君の復活の時だ!」
エザムが力強く言った瞬間、光の粒子が奏の身を包み、再び、華麗なる戦士に変えた。
――私、戦ってきます!
淡い光の中で、奏は凛としながらエザムにそう誓った。




