#39
巨大な飛行生物は、すぐには攻撃してこなかった。
奏が戦闘の構えを取ると、怪物は背中を向け、まるで彼女を何処かへ誘うように真っすぐに飛んだ。
奏はその後を追う。
「一体何のつもりなの……?」
怪物は飛び続ける。
「くれぐれも油断するなよ、奏」
光の球体のヤビイが横から言った。
「戦闘に入ったら、俺も戦うからよ」
「ありがとう、ヤビイ」
ヤビイの魔力は完全に回復し、万全のコンディションで戦える状態だった。
低空を飛び続ける謎の生物と、それを追いかける自分の姿が一般市民の目に晒せれているのは、承知の上だった。
もはや気にしている場合ではない。
何としても、必殺技の作用で忘れさせなければならない。
いつかの学校での騒動のように、なかったことにしなければならない。
すると奏は、進行方向にわずかな空間のゆがみがあることに気づいた。
「あれは……?」
怪物がそこに飛び込むと、そこは水面のように揺れた。
「追うぞ、奏!」
彼女たちも続いて中に飛び込んだ。
空間のゆがみの向こう側は、魔の境地だった。
地を覆う空は紫色にどんよりとし、あちらこちらにいびつな形の岩が林立している。
「また結界か。けど、この前の場所よりヤバい感じするな……」
と、ヤビイが言った。
「私もそう思う……」
空間は相変わらず、耳がおかしくなりそうなくらいの無音だった。
だが、この空間はそれだけではない。
そこにいるだけで、畏怖を感じさせられるような空気感。
魔力を纏っていない、生身の人間が長居すれば生気を奪われてしまうような、おぞましいものが確かにそこにあった。
今まで以上に嫌な予感がする、と奏は直感する。
灰色のごつごつした地面に果てはない。
奏は、怪物が降りたところに白髪の青年がいることに気づき、降り立つ。
「ようやく来ましたか」
キールは微笑みながら言った。
「今日の相手はテメエか!」
と、ヤビイは剣士の姿を開放しながら言った。
だが、ヤビイの予測はすぐに裏切られた。
「いいえ、私の役目は終わったので」
「ハッ、何だよまた逃げるのかよ」
青年の片眉がピクリと上がった。
「強そうなムーヴかましといて、結局いつも横で見てるだけだし、テメエが戦ってるとこ一度も見たことねえもんな」
ヤビイは煽るように言った。
「結局、雰囲気だけなんじゃねえのか?」
そんな饒舌なヤビイに対して、奏は一抹の不安を覚えた。
あまり挑発するとマズいのでは、と。
すると案の定、周囲を凍てつかせるような冷たいため息が、キールの口から流れた。
「私は極力戦いたくはないのでね」
と、絶対零度の低い声で、二人の脳裏にしっかりと刻み込むようにキールは言った。
「……ああ、そうかよ」
すっかりキールの圧に押された奏の横で、ヤビイは絞り出すように言った。
「だったらいずれ、容赦なくテメエをぶっ倒してやるよ!」
光の剣士による宣戦布告に、青年は手で顔を覆いながらため息を洩らす。
「どいつもこいつも」
苛立ちを剥き出しにしながら、指の間から奏達を睨む。
「……鬱陶しいったらありゃしない」
そう言いながら、顔から手を外し、ピストル状にした手を二人に向けた。
すると、黒い手袋の指先から、青年の手より大きい鋭利な氷の塊が出現した。
氷は形成されるとすぐに、ミサイルのごとく猛スピードで二人に突進した。
「うわ、危ね!」
二人はぎりぎりのところで躱した。
あの氷の刃をもろに喰らったら、ひとたまりもないだろうと、二人はヒヤリとする。
「これは失礼」
キールは悪びれる様子を見せず、上辺で言った。
「うっかりあなた達に危害を加えるところでした。……これ以上、私の神経を逆なですることのないように」
キールは黒いコートを翻して飛び去った。
するとその奥の方から、青年と入れ替わるようにして、長い髪を下ろした影が近づいてきた。
「茶番は終わったの?」
少年の高飛車な声。
「待ちくたびれるかと思ったよ、全く」
その姿が徐々にはっきり見え、全貌が明らかになった。
半分結われていた長い髪はほどかれ、ぼんやりと光る毛先は腰まで伸びている。
背丈も少し伸び、奏とヤビイの間くらいの大きさになっていた。
さらに少年が身に纏っているものも変わり、黒いパーカーはファーのついた裾の長い外套に変わり、普通の人間が着ているような他の衣類も変化していた。
前回奏と戦ったときよりも闇のオーラが増していて、その姿は『魔王』と呼ぶのに相応しいものだった。
「驚いた?」
ノイジアはいたずらっぽく笑った。
「テメエ……」
「どうしてわざわざこんなところに?」
奏が尋ねる。
「外でやるより合理的だからだよ」
「あいつと同じ理由かよ……」
ヤビイは顔をしかめる。
「いいや、僕の場合は少し違う。あいつの場合は単純に『他の人々の目に晒されないため』でしょう?」
と、少年は長く濃い睫毛を伏せて言った。
「僕の場合……、これからやろうとしていることが、外でやるにはあまりに危険だからさ」
そう言いながら、彼は白い右手を――黒い指ぬきグローブの外された、剥き出しの手を顔の前にかざした。
「勿論、逃がしはしないよ」
手の甲の位置が、少年の紅い左眼と一致した。
「その光の力……此処で葬り去ってやる!」
少年は声高らかに言いながら、禍々しいオーラに包まれた右手を天に掲げた。
すると彼の手の中から紫色の雷が走り、空を覆うと、轟音とともに、稲妻が太い柱のようにあちらこちらに激しく落下した。
「うわぁぁっ!」
落雷がわずかに当たった奏とヤビイが吹き飛ばされた。
ギシシシシシシシシシ――
そんな彼女たちを嗤うように、少年の横の怪物が鳴いた。
「さあ、闇にひれ伏せろ!」
少年が言うと、飛行生物は動きを見せた。
「危ない!」
猛突進する怪物を、奏がすかさずバリアで食い止める。
だが、二人が安心したのも束の間。
四方から突然、小型の生物が大量に飛んできた。
黒い翼を持った、コウモリのような生物は一斉に光の戦士たちに襲い掛かる。
「『プラズマスラッシュ』!」
ヤビイはすかさず斬撃を繰り出し、援護する。
コウモリたちは一瞬にして消え去った。
が、同じ怪物たちが再び大量に飛んできた。
再び斬撃を繰り出しても、また、大群が飛んできた。
「あークソッ、鬱陶しい!」
斬れども斬れども、コウモリたちは次々と湧いてくる。
「奏、そいつはしばらく任せた! 俺はこいつらが出てこなくなるまでやっつける!」
「わかった、任せて!」
奏は跳躍しながら、後退した飛行生物に接近する。
「『シャインドロップ』!」
奏は下方に攻撃技を繰り出すが、飛行生物の動きが素早く、あっさりよけられてしまった。
奏は空中に浮いたまま怪物に接近し、物理戦に持ち込む。
「はっ!」
華麗な回転蹴りが当たり、怪物は一瞬怯んだ。
その隙に奏は攻撃魔法を繰り出そうとしたが、反撃が来るのは早かった。
凄まじい速さの突進を奏はぎりぎりで躱し、どうにかダメージを免れる。
突進は三回続き、彼女はすべてを回避した。
「(でも、油断は禁物……)」
奏が動向を伺っていると、怪物はまたあの嫌な声を発した。
ギシシシシシ――
だが、怪物はなかなか動きを見せない。
嫌なノイズだけが空間に響く。
奏がしばらく様子をうかがっていると、飛行生物は、巨体を小刻みにぶるぶると震わせ始めた。
今までに見せてこなかった奇妙な動き。
それは慟哭を上げる寸前の幼子であり、爆発寸前の爆弾でもあった。
次に来る攻撃はあまりに範囲が広く、奏はこの時点で逃げ遅れていた。
他の有象無象たちを相手にしているヤビイも同様だった。
ギシャアアァァァアアアアアアアアア――!
耳を劈くような奇声とともに振り撒かれたのは、有毒の粉塵だった。
それを浴びた奏とヤビイはそれぞれ、体が徐々に痺れていくのを感じた。
「(思うように動けない……)」
「(クソッ、どうなってる……?)」
奏は空中に居られなくなり、少しずつ地面に落下した。
呼吸を乱し、膝から崩れ落ちる奏。
彼女が力なく天を仰ぐと、怪物が角を向けて突進してきた。
逃げようにも、体が麻痺して思うように動けない。
奏が目をぎゅっと瞑りながら下を向いた瞬間。
バシンッ!
横から青い雷が飛び、怪物の身体が横に逸れた。
「ヤビイ……」
ぎこちなく横を見ると、ヤビイはコウモリたちに襲われつつも、魔法を繰り出した後の手のひらを奏たちに向けていた。
「こっちの数はだいぶ減った……」
ヤビイは大群に向きなおり、毒に怯みつつも、少量の魔法で数を減らし続けた。
震える脚でゆっくり立ち上がる奏。
少しでも距離を稼ごうと後退するも、怪物の次の動きはそれを遥かに超えた。
怪物は再び襲い掛かる。
が、今度は攻撃はしてこなかった。
「っ……!」
気づくと奏は宙に浮いていた。
細い四本足にがっちりと掴まれ、抵抗する余地がない。
「何のつもりなの……!」
飛行生物はやがて、ノイジアの前に降りた。
「ご苦労さん。君の役目は終わりだよ」
少年は細い指を差しだしたかと思うと、先ほどの雷で、体力の有り余る飛行生物をあっさりと消してしまった。
奏は地面に落とされながらも、憤りを覚えた。
あの飛行生物はもう、どこにもいない。
「役目を終えたのを処理をしたまでさ。あれの替えは沢山あるし」
と、奏が口を開くと同時に言った。
あり得ないとばかりに顔をしかめる彼女に、少年は続けた。
「それとも、僕がこんなことしないとでも思った?」
赤い瞳が冷酷に少女を見下ろす。
「僕は変わったんだよ。光あるものを喰らいつくし、新たな世界を創りあげるためにね……」
少年は世界の支配者さながら、両手を天に掲げながら言った。
「どうして……」
奏の途切れ途切れの声。
「確かにこの前から、様子はおかしかったけど……」
地面に両手をつき、体制をたてなおす。
「あなたはそこまで……残忍じゃなかったし……こんなに、狂ってもいなかった……」
一瞬、少年の瞳が揺らいだ。
「今の僕が……狂ってる、だと?」
右手で、片目を抑える。
口角が不気味に上がり、少年は肩を震わせた。
「ああ、そうかもね……狂ってるかもね……」
嘆きを含んだ笑い声。
「確かに僕は狂ってる……。だって今の僕は……目の前の眩しい光を侵したくてたまらないのだから‼」
奏は一気に青ざめた表情になった。
「あぁあ……喰らいたい……潰したい……」
震えた右手が、そっと前に差し出される。
――「この手で闇に染め上げたい!」
どす黒い闇の力が、光の少女に放出された。
動きが鈍った奏は回避できず、闇の魔力に全身を囚われた。
毒に苦しむ少女は、自分の身に危機的なことが起きているのを知りながらも、声を上げられずにいる。
飲み込まれる。もみ消される。
どうにか抵抗しなければ。
「……あ……ぁ……」
だが、開かれた口から発せられるのは、擦り切れたような意味を成さない声。
震える手でステッキを少年に向けようとしても、それは果たせなかった。
白いステッキは手から滑り落ち、無慈悲な音を立てて地面に落ちた。
少女の身を包む淡いピンク色は侵食され、徐々に黒く染まってゆく。
柔らかな金色の髪は、燃え尽きた灰の色に。
そして澄んだ緑色の瞳は光を失い。
大群を相手に戦う光の剣士は、この悲劇的な状況に未だ気づかない。
外見的な変化が果たされた時には、少女は意識を完全に手放していた。