#37
悪魔と契約をかわした一人の少女の、断片的な記憶。
これが全てではない。
影の女・レイの力を得たのは、鴉衣華音という少女だった。
烏のような黒々とした、質のいい髪。
ぱっちりと開かれた眼はつり目で、紫色に美しく。
顔立ちも整っており、しばしば同級生の憧れの的となった。
また、華音は芯も真っすぐで自分の考えをしっかり持ち、それでいて我が強すぎることはなく、周囲からも好かれていた。
周りからの信頼も厚く、学校では常にクラス内の中心人物だった。
そして彼女は、弟の詩苑を一番に愛していた。
彼も姉に似て、黒々とした髪に、紫色の綺麗な瞳が特徴的だった。
また、顔立ちの良さも姉によく似ていた。
しかし彼は身体があまり丈夫でなく、学校を休みがちだった。
人とのコミュニケーションも苦手で友達は少なく、一人で行動するのが普通だった。
けれど詩苑は、それを苦にすることはなかった。
彼には自分を愛してくれる姉がいたし、姉さえいればそれでよかった。
また、彼は勉強面では驚異的な才能を見せ、授業で教えられる内容をすぐに理解することができた。
授業を休む日が多くとも、教科書やプリント類を見れば、休んだ日の分を簡単に取り戻せた。
さらに驚くことに、彼は一つ上の学年の学習内容もすぐに理解した。
姉の教科書やノートさえ読めば、そこに書かれていることをすぐに吸収し、彼ほど勉強が得意でない姉にその内容や要点を説明することもよくあった。
姉の華音は弟を守り、弟の詩苑は姉に知恵をもたらした。
こうして二人は、互いに支え合いながら仲良く過ごしていた。
一つの悲劇が二人を襲うまでは。
ホワイトノイズと共に回想がぼやけ、次の場面が出てきた。
華音が最後に見た弟の姿は、悲惨なものだった。
暗闇の中で、前髪の間から力なく彼女を見据える少年。
その体は宙に浮き、生気を根こそぎ抜かれてぐったりと前かがみになっていた。
紫色の瞳は、既に光を失っていた。
その背後には、黒いロングコートをまとった長身の男。
白く細い悪魔の手が、少年の背中から体内に侵入し、形状を保ったままに命を奪った。
男は、絶望に塗れる少女を満足気に笑っていた。
その傍らには、紅い瞳の小柄な女。
暗闇の中で華美な服を纏い、大きなツインテールを広げるその女は、死を告げる烏のようにも見えた。
その紅い瞳は、絶望に打ちひしがれた少女を横目でじっと見ていた。
――お前の弟は死んだのだ。
女と目が合った瞬間、誰が発したでもないその言葉が、彼女の頭に弾丸のごとく飛び込んだ。
そして少女の記憶は途切れた。
少女が次に見たのは、ひとりの小柄な女だった。
あの悲劇から何日、何週間経っていたのか、少女には分からなかった。
ぼんやりとした意識の中でとらえた、人間ならざるオーラとその容姿。
女は銀色のツインテールを一対の翼のように広げ、黒い華美な服を纏っていた。
目元は仮面に覆われ、特徴的な紅い瞳が隠されていたが、少女は目の前の人物が誰なのかすぐにわかった。
「希望を求めているようだな」
その一言は、少女の意識を鮮明にさせた。
「もしそうであるなら、私はお前に戦う力を与えることができる」
はじめはこの女が何を言っているのか、少女には分からなかった。
女は淡々と続ける。
「もし戦うことを選択すれば、お前はその絶望を消す可能性を得られる」
女にそう言われた瞬間、少女の脳裏に淡い光が一瞬浮かび上がった。
「失ったものを取り戻すために、私の力で戦うか、それとも、ここで誰の助けも得ぬまま死ぬか……」
少女はひどく飢えていて、今にも倒れそうだった。
しかし彼女の思考力は完全には失われておらず、気持ちも弱っていなかった。
――目の前に希望があるならば、それに手を伸ばすのみ。
『戦うこと』が何を意味するにせよ、やらなければそれまでだ。
もし本当に戦う力を得られるならば、あの男にだって復讐できる筈だ。
戦ってやる。
少女はためらわず、前者を選んだ。
「いい度胸をしているな」
女はそういいながら、流れるような手つきで仮面を外した。
目元には特殊なメイクが施され、前髪の影がより不気味さを引き立たせた。
少女は一瞬怯み、身を震わせる。
「一度死した者は二度と帰らないのが、人間の道理だ」
一対の紅い瞳が光った。
――「だが、それに反逆する権利が今のお前にはある」
少女の心臓が高鳴った。
「その反逆こそが、お前の最後の希望だ」
鼓動が激しくなる。
そうだ、今の私は力を求めているのだ。
「それを果たすために、こう願え」
女の口から言い渡された内容。
それはいかなる者にも決して許されない、否、決して果たすことのできない、宇宙の法則にすら反する内容だった。
そんなことが許されるのか、と少女はかすれた途切れ途切れの声で言った。
「お前がこれから揃える『七つの叡珠』は、どんな願いでも通用する。そこに禁じられた願いなどというものはない」
影の女は、はっきりとそう言った。
「我が名はレイ。お前のため、そして私のために、たった一つの願いのために戦おう」
そして少女は、目の前に舞い降りた悪魔に手を伸ばし、契約をかわした。
*******
「何だ、俺と一緒じゃねえか……。一番愛してたやつを殺されて、そんで絶対復讐してやるって誓って……」
その声は、冷たい吹雪に耐え忍ぶ旅人のように暗く、震えていた。
すると、ヤビイの金色の眼が突然、キッと女を睨んだ。
――「けど、『世界の時間を巻き戻す』だなんて、そんな願いが許されると思うのかよ……!」
レイが告げた叡珠への願いは、ヤビイを激しく震えさせた。
願った地点から戻されるまでの間の、世界中の全ての出来事は、何もかもなかったことにされる。
そしてそこに、新たな物事が上書きされ、それが『事実』になる。
それはあまりに恐ろしいことで、本来ならば七つの叡珠を前にしても禁忌にされるべきことだ。
だが、そこに厳密なルールなどといったものはなかった。
「テメエの、いや、そいつの気持ちはすげえわかるよ。……けど俺は、そんなこと望んじゃいねえよ!」
ヤビイは怒りに震えながら、剣を構えた。
「どんな理由であれ……時間への干渉が許されると思うな‼」
ヤビイは青い雷を纏った剣を振り上げた。
強烈な斬撃。
だが、それにあたったのは黒い槍だった。
女は涼しい顔を保っていたが、その手には確かに強い力がこもっていた。
「これが華音にとっても一番合理的な方法だ」
レイは淡々と言った。
「ハッ、よくわかんねえな……。テメエごと消えたいんなら、他に何を叶えさせても一緒だろうが!」
ヤビイは弾かれた剣を再び振り下ろす。
またも攻撃は女に当たらなかった。
「そもそも、テメエに叡珠を揃えられること自体困るけどな……」
剣を跳ね返した槍が後ろに引く。
すると、その先端が紫色の炎を纏いはじめた。
炎は妖しく燃え、かすかに揺らめく。
「私以外の者が叡珠を揃え、願いを告げれば、この少女は消滅する」
「なに、っ?」
ヤビイが顔をしかめた。
「これは契約であり、断じて一方的に力を与えたわけではない」
レイに力を授けられた少女の代償。
それは、『願いを果たせなければ死ぬ』ことだった。
「テメエ、何て契約してんだ!」
「私は決して人間の味方などではない。人間ごときにただで戦力を与えるなど、笑止千万」
レイが一発、息を吐いた。
「だから時間を巻き戻さない限り、この少女は永遠に死したままだ」
レイはそういいながら、炎を纏った槍を強く薙ぎ払った。
ヤビイはそれを剣で防ごうとするも、あっさりと力で負けてしまった。
「がは、っ!」
ヤビイは横に吹っ飛ばされた。
「貴様の叡珠、寄越してもらうぞ」
レイが地面のヤビイにひとひたと近寄る。
「絶対渡さねえよ……」
ヤビイはそう言いながら、女との間に透明なバリアを構築した。
透明な、強度のある高い壁。
女は透明なバリアを前に、怯んだように立ち止まる。
が、それはほんの一瞬の出来事だった。
槍に炎の魔力が込められる。
「ふ、っ!」
透明な壁は、レイの槍によってあっさりと粉砕されてしまった。
空中に舞う破片が、溶けるように消えていく。
「おいおいおい、マジかよ……」
よろめきながら立ち上がるヤビイ。
女は容赦なくヤビイに迫る。
「貴様の力はそんなものか」
黒い槍の先が大きく弧を描く。
紫の炎は尾を引きながら、剣士に襲いかかる。
俺は先日フルパワーで戦ったばかりで、魔力が完全回復してないんだよ!
ヤビイは内心でそう叫んだが、そんな言い訳じみたことは言いたくなかった。
「ぐはっ!」
吹っ飛ばされたヤビイは体勢を立て直し、反撃に出る。
しかしその動きは鈍く、レイに隙を与えてしまった。
「叡珠を寄越さないなら、私が奪うのみ!」
再び槍が薙ぎ払われる。
が、ヤビイは簡単には倒れない。
剣をかざし、飛んでくる槍をなんとか食いとめた。
「テメエなんかにやられてたまるか……!」
女を正面から睨むヤビイ。
「根気は落ちていないようだな」
女は冷静な面持ちで言った。
「だが、私を止めるにはあまりに脆い」
ヤビイはあっさりと槍に押し負け、弾き飛ばされた。
「テメエ……ッ!」
「まだ飽き足らぬか」
地面から睨むヤビイを、レイは冷ややかな目で見下ろす。
女の持つ鋭利な槍が、地面に突き立てられた。
「終わりだ……。『レクイエム』」
黒く禍々しい波が、槍の先端から広範囲に一斉に広がる。
ヤビイは為す術もなく、闇の波動に大ダメージを喰らった。
光の剣士は、現時点の力の差で大敗を喫してしまった。
地面に伏せながら、力なく顔を上げるヤビイ。
「……なあ」
のどから絞り出した声で女を呼び止める。
「俺と叡珠のこと、絶対奏には言うなよ……」
もし知られたら、アイツはそのことを気にしてまた戦えなくなる。
ヤビイはそう確信していた。
女は横目でヤビイを見たが、何も答えず、突き放すようにその場を去った。
「……なんて、テメエに言っても無駄か」
ヤビイは諦めたように目を閉じた。
女によって構築された無音の結界が、静かに消された。