#32
不気味に蠢く大樹は、暗い部屋の中に堂々と根を張り、四方八方に蔓を腕いっぱいに伸ばしている。
大樹は既に、一人の麗しき女を自分の核として取り込んだ。
そして閉じ込めた彼女を、一方的に痛みと快楽の海に溺れさせながら、魔力を吸い取っている。
冷めた瞳でそれを見上げるのは、一人の少年。
「随分と派手な生贄」
ノイジアは苦笑いした。
「しかも実質、拒否権すらも与えられずに」
鼻で笑うように言いながら、キールのほうに向く。
「あいつ以上にえげつないことするよね」
「言っているでしょう、これは全て計画のためだと」
気味悪がるような眼を向けられても尚、青年は動じない。
「これは単なる犠牲ではなく、我々の希望に向けた第一歩です」
「希望、ねえ」
どうも僕たちには似合わない言葉だ、と少年は胸の中でぼやいた。
「で、その計画とやらは、僕が眠ってる間に進んでたってわけ?」
「つい先ほど、彼女に明かしたばかりですけどね」
キールは少年のほうに向き、その繊細な顔を見下ろしながら言った。
「今後あなたには、あの魔法少女に直接手を下してもらうことになるでしょう」
少年の前髪に隠れた片眉が上がる。
「へえ、どうしてまた急に? もうあのバカでかい怪物にはやらせないの?」
「おそらく、あなたが直接やったほうが手っ取り早いでしょう。我々は一刻も早く、七つの叡珠を揃えるべきなのですから」
少年は反射的に、黒い指ぬきグローブに覆われた右手に視線を移した。
人間界に出て初めて会った、魔法の力を駆使して怪物たちをあっさり倒してしまった存在。
武者震いと同時に、そんな彼女の秘密を暴きたいという気持ちが高まっているのを、少年は感じた。
ノイジアは、魔法少女に関して無知だったが、奏という名だけは何度か聞いていた。
少年は心の中で、その名を呼ぶ。
君は一体何者なんだ?と。
「……ところでさ」
ノイジアは青年を横目で見た。
「その『七つの叡珠』って何なの? 僕たちにとってそんなに重要なもの?」
僅かな沈黙の後、キールは咳払いをして言った。
「あなたにはまだ、それについて何も話していませんでしたね」
少年は息をのむ。
「七つの叡珠とは、我々が第一に大切にすべき存在。全て揃えた者があらゆる願いを叶えられる、万能なものであると同時に、我々に生をもたらした、最も崇高なものでもあります」
青年は続ける。
「我々は今まで、それらを他の誰にも揃えさせないにすぎませんでした。しかしながら今後は、我々のほうで七つ全て揃え、新たな祈りを捧げようという考えです」
キールは天を仰ぐように、手を広げながら言った。
「他の誰かが揃えると何がマズいの?」
少年は不思議そうな顔で尋ねる。
「叡珠への祈りは上書きされるものです。つまり一度に適用される願いは一つだけ。我々とは違う誰かがすべて揃え、願いを告げた頃には、我々は終わりです」
僕たちは終わり。
つまり、あの長い眠りが今度は永遠になる。
少年は空恐ろしい気持ちになり、背筋が凍るのを感じた。
「確かにそれはマズいね」
と、ぎこちなく口角が上がる。
「だから先手を打ち、さらに我々が生きやすい世の中を創りあげようというわけです」
キールは正面の大樹に歩み寄り、慈悲深く、麗しき女の骸の閉じ込められた部分にそっと触れた。
大樹は着々と魔力を吸い上げる。
数多の怪物を、果実のように連なる繭から産み落とすために。
「へえ、面白いじゃん……」
少年の紅い瞳が、月のようにぼんやりと光った。
「つまり、僕たちは新しい世界の創造主になるってわけだ」
ノイジアは不気味に笑う。
キールは大樹から手を離し、少年に向きなおった。
「その通りです」
そして流れるような動作で右の黒い手袋を外し、ひたひたと近寄りながら、剥き出しの手を少年の身体にスッと伸ばした。
「っ……!」
少年は身を強張らせる。
「だから僕に触れるな――」
「そのために、あなたにも貢献して頂きます」
その言葉は圧を発し、少年の言葉を容易く遮った。
ノイジアは抵抗しようとするも、青年のオーラに押さえつけられてしまった。
キールの手は、既に少年の胸の中心に触れていた。
薄い衣服越しに、色素の薄い肌をつたってキールと少年の内なる魔力が互いに共鳴する。
「戦う能力のない私の代わりに、あなたはどこまでも戦える……」
紫色の光。
「どこまでも強く、どこまでも長く、そしてどこまでも深く……」
それは少年の中から、妖しさと禍々しさを放って。
紅い瞳は、魔力の主を見上げている。
「この世に生きとし生ける、あらゆる存在を凌駕し、そして飲み込む……」
青年はニタリと笑う。
――「『無限の闇』よ、覚醒なさい」
すると、その言葉に反応した少年の魔力が、中から激しく燃え上がった。
毛先から、隠された眼から、手の甲から、あらゆる部位から魔力が放出される。
「ぅわああああああぁぁぁぁぁっ!」
かすかに宙に浮く身体。
大きく全身を反らせ、天井に向かって少年は叫ぶ。
幾度となく、夢の中で繰り返された回想は断ち切られた。
『無限の闇』の異名を与えられた少年が真に目覚め、その力を発揮する時。
彼は死なない。
どんなに傷だらけになろうが、どんなに毒を注ぎ込まれようが、その身は滅ぶことなく、永久に動き続ける。
だからシャドーラが彼を停止させた時も、キールは無駄なことだと言った。
やがて魔力の暴走が収まり、少年の身体は音もなく地面に降りた。
「頼りにしてますよ」
そう言われた少年の見た目は、僅かに変化していた。
紫がかった艶やかな髪は伸び、毛先がぼんやりと光っている。
完全に覆われていた左眼が前髪の隙間から覗き、そこから溢れた魔力が、赤黒い線を描いて不気味さを強調させた。
自分たちの目的も知らされず、ただ言われるがままに街をかき乱していただけの少年は、もうどこにもいない。
世界を作り変えるために、新たな世界の神となるために、少年は目覚めた。
「言われるまでもない」
ニタリと笑う少年。
「僕がこの世界の覇者だ」
すると、女を核にした蔓が、少年めがけて勢いよく飛んできた。
刹那の間の素早い動き。
ノイジアはそれを目視することなく、ポケットから出したナイフで、瞬時にそれを切り裂いた。
蔓は赤紫色の液体を飛び散らせ、標的に絡みつくことなく床に落ちた。
「やれやれ。余計な手間を取らせるなっての」
煩わしげなため息。
「自我が残ってるんだか残ってないんだか」
冷めた瞳で、動きを失った触手を見下ろしながら少年は呟いた。
その頭上で、無数に連なる繭が一斉に膨張した。