#29
どこかで雷が鳴った。
人型の精霊は傘も持たずに、己の全身を降りしきる雨の中に晒していた。
重みのある厚い雲が、空からどんよりと垂れさがっている。
「悪いな、奏」
ヤビイは真っすぐに前を向きながら、落ち着いた声で言った。
「結局俺に付き合わせちまったな」
傘をさす少女は何も言わずに、首を横に振った。
謝らなくてもいいんだよ、と。
戦いに介入する権利は失っても、大切な仲間として、因縁の相手との決闘はそばで見届けたかった。
これが、エザムを殺めた因縁の相手との最後の戦いになる。
二人とも、それを直感していた。
その相手は、雨に濡れた剣士の視線の先に立っていた。
相変わらず、不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいる。
「絶対に、無事でいてね」
不安をにじませながら、奏が言った。
傘から滴り落ちた雫で、毛先が少し濡れている。
「俺は絶対に負けねえよ」
ヤビイは奏に微笑みかけ、こう言った。
「精霊、ナメんなよ?」
そして再び前に向きなおり、剣士としての姿に変化しながら前へ進んだ。
間もなく決闘が始まる。
光と虚像が対峙し、先に口を開いたのは紫色のマントのほうだった。
「今日こそ殺すから」
剣先を真っすぐ相手に向けながら、"ヤビイ"は言った。
「こっちのセリフだ」
冷静な面持ちで同じ動作をしながら、ヤビイが言った。
白髪の青年はタイミングを見計らい、無言のままに結界を張った。
激しい雨音はぴたりと止み、灰色の空間だけが重くのしかかっている。
この戦いにおいて、二人の剣士以外の介入は許されていない。
奏はそれをよく分かっていたし、白髪の青年も承知していた。
光と虚像は、真っすぐに睨み合う。
「お前を倒す」
同じ言葉を同じタイミングでぶつけ、同じ姿勢で武器を構えた。
両者の戦況は全く互角で、まさに鏡を合わせたようだった。
空を走る稲妻のような素早さで、刃をぶつけ、身を躱し、己の戦況を有利に持ち込もうとした。
「ほんと、自分を見てるみたいで気持ち悪いな!」
ヤビイはそう言いながら、飛んできた刃を薙ぎ払う。
「お前に言われたくないんだけど!」
"ヤビイ"は睨みながら、攻撃を食いとめる。
「俺の方が苦しんでるってのに」
刃を強く押し合う。
「……知ったことか!」
攻撃を弾かれても、また剣を振りかざす。
「テメエに何言われようが、俺は同情なんかしねえよ!」
ガチャン、と鋭い鋼の音。
それと共に、"ヤビイ"はぎこちなく口角を上げ、こう言い放った。
「別に? ――偽物のお前にそんなものは求めてないけど!」
一瞬力が緩み、ヤビイは後方に吹っ飛ばされた。
さらに、"ヤビイ"の追い打ち。
刃をギラつかせながら真正面の剣士に斬りかかる。
「本物は俺だ‼」
再び、激しい金属音。
無音の空間に、冷たく鋭い音が鳴り響いた。
が、光の剣士は簡単には屈しない。
「……寝言は寝て言え」
受け身の姿勢で刃を食いとめ、己の虚像をキッと睨みつける。
「今更何ぬかしてやがんだ」
柄を掴む手に力を込める。
「それとも、あのエセ紳士野郎に洗脳されてんのか⁉」
動揺の色。
その隙にカウンターが決まり、形勢は一気に逆転した。
「違う、俺は……!」
畳みかけるようなヤビイの追撃。
「目ぇ覚ましやがれ!」
「黙れっ!」
それでも"ヤビイ"はすぐに体勢を立て直し、ヤビイと対等の位置で持ち直した。
「俺は……本物の闇の剣士として、強い力を与えられた! 偽物ごときが否定するな!」
刃を押し合いながら、互いを睨む。
「さっきから俺のこと偽物偽物って……」
二本の刃が離れ、ヤビイの白いマントが宙に浮いた。
「それしか言えねえのかよ!」
銀色の剣先が、ガツンと地面に突き付けられた。
青色に光る稲妻が剣先からほとばしり、"ヤビイ"めがけて地面を走った。
「ぅああぁあっ!」
回避しそこねた闇の剣士は、地面からの電流を直に喰らい、身を弾き飛ばされた。
群青色の髪を軽く浮かせ、顔をしかめた。
「っ……」
地面からゆっくりと起き上がり、呼吸を荒げながら、鈍く光る剣を握る。
「俺は……」
バチバチと、黒い雷が闇の剣士を纏う。
――「俺は……本物だ‼」
悲しみの咆哮と共に、黒い雷を纏った音波が空間中に走った。
場外にいる少女は耐え切れず、耳をふさぐ。
悲痛。嘆き。憎悪。
闇の剣士に秘められた、あらゆる負の感情。
それらが強力なエネルギーとなり、光の剣士に襲い掛かる。
「……っの野郎!」
ヤビイはそれを防ごうとするも、完全には凌ぎきれない。
両足で踏ん張り、身を吹っ飛ばされないようにしたが、もはや時間の問題だった。
体勢が崩れると同時に、黒いノイズがヤビイの中に入り込んだ。
闇の剣士の音波による影響だった。
ヤビイは一瞬にして、回想の世界に引きずり込まれた。
闇の剣士としてのヤビイが最初に聞いたのは、白髪の青年の声だった。
この場にいる彼のものではなく、回想の中の声が。
――「もうすぐ解放しますからね」
声と共に、過去のビジョンが蜃気楼のように現れた。
黒い手袋のはめられた青年の手が、愛玩するように体の表面をなぞる。
しかし、いくらその手が慈しみを持っていようが、闇の剣士のささくれだった心は癒えない。
お前が憎い。
そんな思いがふつふつと湧き上がるのを感じながら、両腕を鎖に繋がれ、口元を重厚なマスクで覆われながら、正面にいる青年を睨みつける。
すると突然ビジョンが消え、今度は別のシーンに切り替わった。
怖い。
真っ先に浮かんだ感情はそれに尽きた。
目の前にあるのは真っ暗な天井。
床についた背中が冷たく、厚い氷の上に横たえられているようだった。
一体何をさせられるのか。
そう考えていられるのも束の間だった。
「――っ‼」
自分の背中から、怪しい紫色の光が放出されると同時に、体中を激しい衝撃が走った。
極彩色の未知なる物体を大量に注ぎ込まれたような、そんな心地だった。
もがくように床の上で暴れるうちに、徐々に頭の中が掻き乱されていくのを感じた。
あやふやになる思考。薄れていく記憶。
俺は今まで、何のためにここにいたのか。
その様子を悠長に見下ろしながら、青年が口を開いた。
「魔法少女を倒しなさい。光の精霊の力を授かった、人間の少女を……」
頭の中を掻きまわされていながらも、確かにそう聞こえていた。
やがてそれは"ヤビイ"の中で形を持ちはじめ、青年の傀儡として動き続ける最大の動機となった。
そして注ぎ込まれた魔力は許容量を大幅に越え、理性すらも飲み込まれていた。
荒れ狂う獣は拘束を破り、鋭い眼光で真っ暗な部屋中を暴れまわった。
壊してやる。何もかも。
そんな衝動を自ら抑える術のない"ヤビイ"は、長らく薄暗い地下牢に幽閉されることになった。
無理やり連れ込まれたその場所に物音は無く、ただそこには死の如く沈黙が降りているだけだ。
銀色の柵が、無慈悲に闇の剣士を狭い空間に閉じ込めている。
背後には、無機質な灰色の壁。
過多な魔力による暴走が落ち着き、正常な思考を取り戻した頃、"ヤビイ"は背筋に何か冷たいものが走るのを感じた。
怖い。
漠然とした恐怖感が、再び"ヤビイ"を襲った。
助けを求めようにも、声を出すこともできず、両腕が鎖に繋がれているために柵を破壊することもできない。
がちゃがちゃと、両腕を拘束する鎖のぶつかる音だけが響き、その動作は結果として無駄な足掻きにしかならなかった。
どんなに鎖を鳴らしても誰も地下牢には降りてこず、やがて闇の剣士は疲れ果てた。
諦めたように目を閉じ、しばらくしてから再び目を開けた。
また、冷たい床の上。
同じように、そこには暗闇があり、怪しい光が背後にあった。
激しい魔力を注入されるところまでは全く同じだったが、青年に言われたことは違っていた。
「光の剣士を倒しなさい。あなたと同じ、"ヤビイ"という名の者を……」
それが"ヤビイ"の中に吸収され、重要な動力源となった。
「奴はあなたの名を騙っている、忌まわしき光の剣士。あなたが本物の"ヤビイ"です」
オリジナルを模して造られた無性の空っぽの身体に、新たに刻み込まれた情報。
親から子に教えられる言葉と同じように、それは真実として"ヤビイ"の中に深く染みついた。
そして青年に言われるがままに、一対の精霊が身を置く永遠の楽園へと歩を進めた。
光の剣士を倒す。俺が本物だと、証明してやる。
俺はそのために生まれてきた。
闇の剣士は、ずっと自分の中でそう信じてきた。
が、日を重ねるごとに、"ヤビイ"は薄々気づき始めた。
偽物なのは俺のほうなのではないか、と。
あの眩しいほどの光に満ちた剣士が偽物で、空っぽの肉体に無理やり魔力を注ぎこまれ、長い間暗い地下牢に閉ざされた、惨めな俺が本物のわけがない、と。
そう思いながらも、闇の剣士は今日まで、己が本物だと自分に言い聞かせながら、戦い続ける。
己のエゴで自分を生み出し、自由すらほとんど与えず都合よく扱ってきた、生みの親に憎しみを抱きながら――。
ヤビイが我に返ると、"ヤビイ"が見下ろすように正面に立っていた。
金色の瞳が鈍く光る。
「分かったでしょ? 俺が今までどれだけ惨めに生きてきたか、どれだけ酷く扱われたか」
ボロボロの紫色のマントが、風になびく。
「後、俺が偽物なんかじゃないってこと」
"ヤビイ"はそう言いながら、剣先をヤビイに向けた。
お前は奴に騙されている。
俺がお前の名を騙るわけがない。
ヤビイはそう言いかけたが、真っすぐに自分を向く剣先に阻まれた。
「じゃあ、そろそろ……」
"ヤビイ"が二、三歩、前に進んだ。
ひんやりとした鋭利な剣先が、光の剣士の喉元に当てられる。
「偽物は偽物らしく、ここで死んでもらおうか」
ヤビイが正面を睨むと、その顔はじっと標的を見据えていながら、どこか嬉しさをうかがわせていた。
が、それは、標的として定められた相手を倒せるためだけではなく――。
「終わりだよ」
そう言った"ヤビイ"の表情は、今にも笑い声を上げそうなほど満ち足りたものだった。