#27
ごく普通の女子中学生・雨宮奏は、吹奏楽の夏の大会に向けて練習にいそしんでいた。
明けきらぬ梅雨空のもと、当日が近づけば近づくほど部員一人ひとりの緊張感は増し、部全体の空気もピリピリした。
部長をはじめとした三年生の厳しさも増し、どこかで気のゆるみが生じるたびに、「みんな金賞取りたくないの⁉」と誰かが大声で言うような状況だった。
大会で指揮を務める顧問の中戸先生も、授業で音楽を教えるときとは打って変わってどんどんスパルタになっていた。
合奏中に、全体の出来が悪いと判断しては半ギレ状態になり、一度イライラが爆発したときには、指揮棒をミサイルのごとく勢いよく前方に飛ばし、前列で演奏する人たちを震え上がらせた。
幸いにも、人にも楽器にも直接的な被害はなく、青い顔で震え上がる部員たちに見られる中で床の指揮棒を拾いあげた先生は、何事もなかったかのように、「やるわよ」とだけ言って合奏を再開したのだった。
その後、その場に居合わせた部員たちの間では、『照美ちゃんの必殺・怒りの指揮棒飛ばし』と呼ばれるようになり、「ちゃんと練習しなきゃ、また指揮棒が飛んでくるよ」という風に、本人に聞こえない所でネタにされるようになっていた。
この日は、同じパート内での練習が中心だった。空いている教室を借りて、演奏曲を実際に合わせながら、改善すべき点を互いに確認し合った。
曲を要所要所で区切り、メトロノームを鳴らしながら息を揃えて合わせる。
周りの音をよく聞き、自分の出す音を上手く調和させるように指を動かす。
それでも完璧に揃えるのは難しく、途中で少し綻びが出てしまう。
「後半の十六分音符のところ、タイミングが少しズレがちだねー」
フルートパート内のリーダー(吹奏楽では”パートリーダー”と呼ばれる)が全員に指摘を入れた。
「テンポに遅れないようにしようとしすぎて、焦っちゃう子が多いね」
該当する部員たちが、言われたことをシャーペンで素早く楽譜に書き込む。
「でも、音はちゃんと出てるし、強弱記号もちゃんと守れているからとってもいいよ。タイミングだけ頑張って改善しよう!」
全員が一斉に元気よく返事した。
リーダーである歌川梨依先輩は、部全体の空気感にも流されることなく、いつも穏やかに振舞っている。
後輩たちにアドバイスをするときも、改善点を指摘する分だけいい所を見つけて褒めるので、好感度が高い。
また、一見ふわふわしているように見えても芯はしっかりとしていて、信頼も厚い。
同じ個所を、もう一度全員で合わせた。
周りの音をよく聞き、指を譜面に合わせて細かく動かす。
譜面に従いつつも機械的にならず、頭の中に描いた音楽のイメージを指先から具現化するように。
「うん、さっきより良くなったね!」
歌川先輩は笑顔で言った。
「次のところやろっか!」
外が暗くなりはじめ、グラウンドから運動部の走り込みの声が聞こえる時間になるまで、各教室の窓から溢れ出る楽器のサウンドが学校中を彩っていた。
この日の練習が終わり、ミーティングが済むと、部員たちを支配していた緊張感が一気に解れた。
奏は泉美と共に部室を後にした。
「お疲れ、泉美」
「お疲れ。今日も大変だったわね」
奏は声をひそめる。
「けど私たちは、先輩が優しいからまだよかったよね……」
フルートパート同様、泉美が属するクラリネットパートのリーダーも温厚な性格で、滅多なことじゃ怒らないタイプだ。
「あの二人が去年に続いてあの空気の中にいたら、どうなってたことやら」
去年の秋に退部した『あの二人』である、福田創真と小南信嗣はそれぞれ金管楽器担当だったのだが、どういうわけか、本校吹奏楽部の金管楽器には気が強い部員が集まりがちがった。
それぞれのパートの中で、本番前は特に、気の強い女子特有のどろどろした空気感に慄いたものだった。
「冨上くんだったら平然としてそうだけれどね……」
「確かに、トガミンだけはね」
そのあだ名で呼んでほしい、と自ら公言している彼も、二人がやめた直後に、「新しいこと始めたくなったんで」と、あっさりと吹奏楽部を去ってしまった。
彼の場合、部全体にもパート内にも不満があったわけではなく、ただ気分が変わっただけだった。
「でも、ハンドボール部でも結構楽しくやってるようでよかったわよね」
「そうだよね。またどれくらい続くか分からないけど……」
奏に続いて泉美も苦笑いした。
校門を出たところで他の集団が横を通り、そのうち一人が奏たちに声をかけてきた。
「ああ純ちゃん、お疲れ」
この前の休日に偶然会った、平川純だった。
「ごめーん、先に行っててー!」
純は他の人たちを見送り、奏たちのそばに近づいた。
「純ちゃん、どうかした?」
「その、二人に聞きたいことがあるんだけどさ……」
純は落ち着かない様子で周囲を見回し、近くに誰もいないことを確認すると、二人に顔を寄せるようにして言った。
――「雅斗ってさ、カノジョいたりする?」
顔をほんのり赤らめ、そわそわしながらそう尋ねた純が意味することは、二人にもすぐわかった。
彼に密かに想いを寄せている親友が、どんな反応を示したか。
振り向いてそれを確かめる勇気は、今の奏には全くなかった。
「えっと、私たちと同じクラスの雅斗のことだよね?」
同じ名前の違う人物だというわずかな可能性に賭けながら、奏は尋ねる。
「そうそう。二人とも部活同じだから、何か知ってるかなーって」
わずかな希望はあっさりと打ち砕かれた。
やはり彼女が尋ねているのは紛れもなく、三人の共通のクラスメイト・桐原雅斗のことだった。
もちろん純は、何も知らない。
だから悪意などと言うものは微塵もない。
奏は何と言ったものかと口ごもった。
「うーん、まあ知らないなら別にいいけどさ」
純がそう言った瞬間。
「……いないんじゃない?」
俯きがちにそう言ったのは、泉美だった。
「そういう話聞いたことないし、いない筈よ。多分……」
「本当?よかったー!」
泉美の語尾が明らかに弱くなっているのもお構いなしに、純は満面の笑みを浮かべた。
邪気のないその笑顔が、二人の目に残酷に映った。
そうそう聞いてよ、と純は口を開いた。
「さっきの休憩中、教室に忘れ物取りに行ったらさ、雅斗たちが練習しててさー」
奏はすぐさま、隣にいる親友の耳を塞ぎたくなった。
「一生懸命楽譜見ながら練習してる姿がなんかメッチャかっこよくてさ、もうなんだか目が離せなくなったのよ。今までずっとただの地味なやつだと思ってたんだけど……」
「もうやめてー!」と奏は心の中だけで叫んだ。
それでももちろん、純は話すのをやめない。
「もう、一目惚れよ!」
とどめの一言が泉美に刺さり、そばにいた奏も被弾した。
「あんなにカッコイイなら、もういてもおかしくないなって思ってたんだけど、ほんっとよかった!ありがと!」
じゃあね、と言い残して、純は小躍りしながら去っていった。
奏は心の底から、練習場所に自分たちの教室を選んだサックスパートの部員を恨んだ。
奏と泉美は、帰り道の途中の公園に着くまで何も話さなかった。
ひんやりとしたベンチに並んで座ると、泉美がため息をついた。
「……桐原くん、やっぱりモテるわよね」
「泉美……」
曇り空はだんだん暗さを増し、二人の顔に影が差した。
「どうしてさっき、自分であんなこと……」
「思っていることを言っただけよ。だって、自分の都合のいいように嘘つくのも、なんだか卑怯で嫌だもの」
「そうだけど……」
「本当はどうなのか私も知らないけれど、勝手に『いる』って決めつけてしまうと彼にも失礼だし、もしそれが本当だったら、私……」
彼女はどこまで正直で誠実なのだと、奏は悲しさすら覚えた。
そして彼女は、自他ともに認める真面目な性格の泉美が、今や恋敵となってしまった、少しルーズな部分の目立つ純の人柄が少し苦手なことも知っていた。
「そもそも、私なんかが彼と釣り合おうだなんて図々しすぎるのかしら」
再びため息をつく泉美。
その澄んだ瞳は微かに潤んでいた。
それを見た奏は堪らなくなり、両手でスカートをぎゅっと掴みながら言った。
「そんなことないよ!」
泉美は驚いたように顔を上げた。
「泉美はすごく頭がよくて優しいし、雅斗と釣り合わないなんて考えられないよ!」
そう言われた途端、雪解けのように泉美の表情が和らいだ。
「ありがとう。そう言う奏も、結構モテそうだけどなあ……」
「へっ?」
普段より若干口調の砕けた泉美の言葉に、きょとんとする奏。
その表情を見るなり泉美は、くすくすと天使のように笑った。
「だっていつも明るいし、正義感もあってものすごく友達思いじゃない」
そうかなあ、と奏は首を傾げる。
「自分じゃあまりピンとこないなー……」
泉美がまた、天使のように笑う。
「そう? クラスのみんなも、きっとそう思ってる筈よ? それに私、今でもはっきり覚えてるんだから」
「えっ、何が?」
さらに戸惑う奏。
泉美の目が、真っすぐに奏を見た。
――「奏が、私を助けてくれたこと」
困惑する奏を前に、泉美は過去の記憶を言葉で紡ぎ始めた。
〈昨年の秋で吹部を抜けた三人衆〉
福田創真:2年2組33番。元トロンボーン担当。胃痛起こしたり貧血起こしたりしがち。
小南信嗣:2年1組20番。元ユーフォニウム担当。女子特有の空気感にげんなりしがち。
冨上稜:2年4組29番。元パーカッション担当。新しいことを次々始めてすぐ飽きがち。