#22
剣士としての腕を持つ人型の精霊・ヤビイの傍には、いつもエザムという名の精霊がいた。
淡い金色のセミロングヘアに碧色の瞳を持つ、容姿端麗なその精霊は、強い力を誇り、荒々しい面のあるヤビイとは正反対で、淑やかで、どこか儚げな雰囲気だった。
また、武器を持たないかわりにヤビイ以上に強い魔力を持ち、あらゆる魔法を操ることができた。
そんなエザムは、常にヤビイと対等の立場であり続け、自分に足りないものを持つ相手を互いに尊重していた。
また、この世界で唯一、同じ精霊として分かり合える仲間としても、互いの存在はかけがえのないものだった。
エザムによって構築された結界の中には、常に一面の花園が広がっていた。
そこにあった花は全て作り物に過ぎなかったが、何も無いよりはずっとましだった。
本物の花とは違ってそれは不変的なものであり、決して朽ちることなく、美しく咲き続けていた。
その結界を拠点に、ヤビイとエザムは光の球体となって、人間界を飛びまわっていた。
何時間、何日間もかけ、好きな時に、好きな場所を見て回った。
もちろんその時も、常に行動を共にしていた。
二人は人間界の中で異端の存在という自覚があったため、人間と直接かかわることは一切しなかった。
主観的に、自分にとって異質な者は、蔑んだり、必要以上に傷つけたりする。
そして時には、仲間を増やして集団で――。
そんな性質を持つ人間が沢山いることを、世の動きを見ている中で知った。
また、文明の発展が著しく、地球上のどこかで起きたことが一瞬で世界中に広まることも知った。
自分たちが世に介入してしまえば、混乱を招いてしまうかもしれない。
このような理由で二人は、常に人間の営む世界を高い場所から俯瞰していた。
めまぐるしく回り続ける世界は、決して二人を飽きさせなかった。
結界の中とは違い、人間の営みと自然の共存する世界には常に変化があったからだ。
よく晴れた日もあれば激しい雨の日もあり、時には風の吹き荒れる日もあった。
楽しいことや嬉しいことを沢山目にした日もあれば、そうじゃない日もあった。
「長い歴史の積み重ねだね」
ある日エザムは、突然こんなことを言い出した。
エザムには、ヤビイ以上の知性が備わっていた。
ヤビイにとって難しいことも多く知っており、完全に理解できないことも多々あった。
「……どういうことだ?」
「この星は、決して最初からこの状態だったわけではない。生物の長い進化を経て人間が誕生し、文明が発達した。この地球の支配者として、人はあらゆるものを生み出し、ときには自然をも破壊してきた、というわけさ」
その見えない横顔を、ヤビイはしばらくぼんやりと見つめていた。
「……俺さ」
ヤビイが口を開き、今度はエザムがヤビイのほうを見た。
「俺さ、難しいことはよくわからないけど、人間って本当に面白いよな」
エザムは暫く何も言わず、沈黙が降りた。
ヤビイはだんだん自分の発言が恥ずかしくなった。
「あー、ごめんな。こんなバカみてえなことしか言えなくて」
「……いや、君の考えは決して愚かではないよ。寧ろその通りだ」
エザムは決して、ヤビイの言うことを否定しなかった。
そしてヤビイの言葉を噛みしめるように、エザムは繰り返した。
「人間は本当に面白い生き物だ。素晴らしいとも言える」
二人がいるのは、野外のコンサート会場の上空だった。
世界的に人気のあるロックバンドで、観客席に押し寄せた何千人もの人々が、音楽に合わせて体を弾ませたり、腕を振ったりして、大きな波を作っている。
バンドのメンバーたちが、強い気持ちを激しいビートに乗せ、聴く人達の魂を奮い立たせ、熱狂させている。
そして観客たちが熱いコールで会場全体のボルテージを上げ、それに応えたメンバーたちがさらに強いハートを音楽にぶつけて、ファンたちを会場ごと痺れさせている。
なんて素晴らしい光景なのだろうと、ヤビイとエザムは心を打たれるような気分だった。メンバー一人ひとりによる渾身のパフォーマンスはもちろん、観客全体とバンドが生み出している良い循環も、だ。
気づけば二人も、音楽を楽しんでいた。
「どうやら私たちは、とても恵まれた星に生まれたようだね」
「ああ、そうだな」
もちろんヤビイに異論はなかった。
そして最後にアンコール曲が終わると、惜しまれつつもバンドメンバーがステージから引き上げ、観客たちもぞろぞろと会場を後にした。
熱気と興奮に包まれていた会場が少しづつクールダウンし、やがて無人になるまでの様子を、二人は見守っていた。
ヤビイとエザムには身寄りがなかった。
自分達がいつ何処で生まれたのか知らぬまま、人間界の片隅で『剣士と魔術師』であり続けた。
また、二人がそのような身であったのも、厳しい修行を積んできたわけでも、他の誰かからその資格を与えられたわけでもなく、生まれつき、それぞれの能力が具わっていた。
基本的に真の姿でいるのは結界の中だけだったが、二人は一度だけ、結界の外でその姿を解放したことがあった。
ひとけのない、街を見下ろせる山に来た時、ここならいいんじゃないかとヤビイが提案した。
そして彼らは、木の枝の上に並んで腰かけた。
「なんか、開放感あるなこれ!」
ヤビイは伸びをしながら言った。
「やっぱり、空気を直接肌で感じられるのはいいね。でも人がいるといけないから、あまり大声を出さないようにね」
エザムは人差し指を唇の前に立てて言った。
「お、おう。気を付けるよ」
ヤビイが首をすくめると、エザムが何かを差し出してきたのに気づいた。
手のひらに乗せられていたのは、林檎だった。
食べろということなのはすぐに伝わったが、唐突だったので、ヤビイは思わずその顔を見た。
ヤビイは一瞬、ぎょっとした。
エザムが普段見せないような、かげりのある表情。
まるで悪事を唆しているかのような、悪戯っぽい笑み。
しかしその表情は、一瞬で引っ込んだ。
「要らないのかい?」
「いや、もらうよ。ありがとな」
林檎を手に取った瞬間、ヤビイは一瞬見せられたあの表情の意味が分かった。
エザムは決して、ヤビイを陥れるようなことはしない。
精霊である彼らは、人間たちの定めた決まり事には一切縛られない、自由の身。
そして、誰にもその姿を認識されていない。
だから、誰も見ていない隙に、何処かの庭の木から――。
エザムにならい、ヤビイも一口林檎をかじる。
みずみずしい果実の中からほのかに広がる甘みと、芳醇な香り。
初めての感覚だった。
「これで、共犯者だね」
エザムが再び、悪戯っぽく笑った。
しかし、ヤビイが微笑み返した時、エザムは突然寂しげな表情に切り替わった。
「おい、どうしたんだ……っ!」
そう言い終わった途端ヤビイは、まるで林檎が引き金になったかのように、自分の中に、何か黒く重たい物がのしかかってきたような感覚に見舞われた。
漠然とした不安と違和感。
――光があればその分、必ずどこかに影がある。
どちらかしかない、ということは決してあり得ない。
この世の中だってそうだと、いつかエザムが言っていた。
それなのに自分たちは、自由の身であり、何の不自由もなければ何の災難も降りかかっていない。
本当にこれでいいのか?
――いや。
いずれ、自分たちには何か大きな悲劇が訪れる。
そんな直感が、ヤビイに襲い掛かった。
しかしそれだけでは終わらない。
黒い物体は蠢き続ける。
それを必死に止めるように、ヤビイは口を抑えた。
自然と呼吸が荒くなる。
己の中にずっと眠り続け、誰の目にも晒されてこなかった疑念に、ヤビイは気づいてしまった。
――どうして俺は剣士として生まれた?
思えば、エザムが結界を構築するために魔法を使ったことはあっても、ヤビイは生まれてこの方、一度も剣を振るったことがなかった。
武器の扱いや立ち回り方は、元から体に刻み込まれていた。
けれど、それが実際に必要になった試しは一度もない。
何故だ?
何故俺たちは、剣士と魔術師の精霊として人間界に居るんだ――。
「――イ、ヤビイ!」
エザムの声で黒い物体は消え去り、ヤビイは正気に戻る。
「お、俺は一体……?」
「大丈夫かい?……もしそれが原因だったら、謝るよ」
と、エザムはヤビイが手にする歯形のついた果実を見て言った。
「いや、それはないだろ。……多分な」
沈黙が続いた。
太陽が遠くの街並みの向こうに落ち、一面を夕焼けで覆い始めた。
「……俺たちって、結局何者なんだろうな」
エザムは何も言わなかった。
その代わりに、目を細めて、夕闇に溶けてゆく街を、ただじっと見つめていた。
そして、悲劇は訪れた。
ある日、二人が花園の中で人間界での事を語り合っている時だった。
「ヤビイ、あれは……?」
青ざめた顔でエザムが指した物。
それは、見覚えのない影だった。
遠目で見ても、それは善きものではないことがわかった。
嫌な予感がし、二人は立ち上がった。
「下がってろ」
白いマントの剣士はエザムを手で制し、銀色に煌めく剣を顕現させた。
すると侵入者は、凄まじい速さでこちらに襲いかかり、ヤビイの持っているそれとそっくりの、鈍く光る長剣を振りかざした。
ヤビイはすかさずそれを食い止める。
戦うのはこれで初めてだった。
それでも、剣の扱いや立ち回りは確かに体に刻み込まれていたため、突如現れた敵と対等に戦うことができた。
ガチャン、ガチャンと刃のぶつかり合う音が、作り物の花園に響く。
戦闘能力を持たないエザムは、それを離れた場所から見守るしかなかった。
手助けのつもりで魔法を繰り出しても、かえってヤビイの気を乱してしまうだけだと、賢明な魔術師は判断していた。
「どうか、無事でいてくれ……」
そう祈った矢先。
ヤビイが怯んだ隙に、敵の剣先が今にもその身を貫こうとしていた。
このままでは、ヤビイが危ない。
この世界で唯一分かり合えるヤビイを、自分より強力な力を持つ精霊を死なせる訳にはいかない。
咄嗟の判断だった。
スローモーションのように動いて見えた剣と、それを前に身動きが取れなくなっていたヤビイの間に、愛する者を庇うように、両腕を伸ばしながら体を滑りこませた。
目の前の悪しき侵入者は、驚きつつも、その動作を急にやめることは出来なかった。
苦痛に歪んだ、美しき精霊の顔。
言葉として機能しなかった、剣士の叫び。
その剣先は容赦なく、エザムの胸の中心を貫いた。
エザムの介入で後ろに下がっていたヤビイは、目の前が見えなくなった。
紫色のマントの侵入者は、胸を貫いた剣を回収し、最後まで何も言わぬまま、無表情でその場を去った。
人間とは違い、精霊から血は流れなかった。
ただ激しい痛みは、確かにそこにあった。
エザムが後ろに倒れ込み、ヤビイはその身体を受け止めた。
そしてゆっくりと地面に座り込み、膝の上に頭を乗せた。
「おい、しっかりしろ!エザム!」
エザムの緑色の瞳は既に光を失いかけていたが、どうにか笑顔を繕っていた。
「ごめん……。驚かせてしまったね……」
その声は、生命の糸が今にも切れそうなくらい、掠れていた。
「ヤビイは何も悪くない……。寧ろ私を守ろうと、必死に戦ってくれた。……ありがとう」
動揺を隠せない顔で、ヤビイは途切れ途切れの言葉に耳を傾けていた。
「最後に、私の願いを聞いてほしい……」
「バカ、最後とか言うな!」
ヤビイは声を荒らげた。
エザムが力なく微笑む。
「私の力を、人間界の誰かに託して欲しい。以前から感じていたけれど、この世界のどこかで、邪悪なものが動き始めている……」
ヤビイの腕に抱かれた魔術師の震える手が、剣士の頬にそっと触れる。
その体は、少しずつ透明になっていた。
「おい、消えるな!おい!」
ヤビイは必死に、エザムの肩をゆする。
――この前のあの寂しげな表情は、それを悟ったものだったのか?
それとも、あの時すでに言おうとしたけど、結局言えないでいたのか⁉
たとえそうだとしても、俺は絶対責めたりなんかしねえよ‼
だから、俺を残して消えるなよ‼
声なき声で、ヤビイはひたすら叫び続けた。
「私たちは、……までずっと『異端の精霊』でいたけれど……本来は……………」
エザムは必死に口を動かし、何かを伝えようとしたものの声は出せず、言葉は途切れてしまった。
エザムが口を動かすのをやめると、全てを慈しむように、この上なく穏やかな顔でそっと目を閉じた。
「エザム‼ エザム‼……っ」
そして、徐々に透明化していた姿も、すっかり消えてしまった。
エザムの横たわっていた場所には、手のひらサイズの、ピンク色に輝く楕円形の石があった。
ヤビイは石を拾い上げ、それを震える両手で包み込む。
「……君に託したよ」
それ以来、石から声が発せられたことは二度となかった。
それが、エザムの本当の最後の言葉だった。
ヤビイは長い間、石を握ったまま一人で嗚咽していた。
できることなら声をあげて泣きだしたいところだったが、己のプライドがそれを許さなかった。
その間、空間は少しずつ縮小を始め、突き抜けるような青空は灰色に変わり、一面に咲いていた花も、端から徐々に朽ちていった。
エザムによる魔法の効き目が切れはじめ、楽園の終わりを告げるカウントダウンが始まった。
すっかり涙も枯れ果て、一人で座り続けた後、ヤビイはようやく立ち上がった。
エザムに託された、最後の願いを果たすために。
この願いを果たせるのは、俺しかいない。
そして、一面の花がすっかり枯れ果て、結界が消滅する寸前、ヤビイはある決意をした。
消えかけの花園の中心に立ち、灰色に濁った天を仰ぎながら、短剣をそっと自分の喉元に当てた。
自分が護るべき者も護れず、結果として絶命させてしまった俺は、剣士失格だ。
そう己を戒め、真の姿になれなくなる、呪いとも呼べる魔法を、自分自身にかけたのだ。
永遠だと思っていた楽園を奪われ、真の姿を封じ込めた剣士は、エザムの遺した思いと共に、人間界へやってきた。
結界が消滅すると、そこは夜だった。
嫌と言うほど綺麗な星空のもと、生い茂った木々を抜け、人の気配のする場所へと出た。
するとヤビイは、展望台の頂上に、一人の少女がいることに気づいた。
警戒されぬよう、後ろからそっと近づき、少女を観察する。
間違いない。
俺の感覚的に、こいつには魔法の力を持つだけの器がある。
こいつなら、きっと――。
この少女と共にエザムの願いを果たし、この世の邪悪なものを消し去る。
そしていつか必ず、この手で仇を討ってやる。
セーラー服の少女が振り向いた。